実戦で示すのみ 3
頭が痛い。
意識ははっきりしているし、吐き気がするわけでもないが、後頭部からジンジンと痛みが広がっていく感覚がある。肘を強く打った時と同じような痛みの広がりが断続的に起きるのだ。
原因は間違いなく、誘拐犯と思わしき何者かに殴られたからだ。
体が痛い。
怪我をした時の痛みではない。かといって筋肉痛の時の痛みでもない。寝違えたというよりは、布団以外で寝た時の体の不調だ。
原因は恐らく、一枚の布すらもなく、無造作に木でできた床に転がされているからだろう。
こんな痛みは久しぶりだった。「ヴァイス」としては初めての感覚ではないだろうか。
前世では喧嘩も怪我もたくさんしたものだが、今はくだらないことで喧嘩をするほど幼い精神ではないし、そもそも喧嘩相手などはいなかったからな。
強いていえばレイナとは喧嘩する可能性があったが、彼女はあの幼さにして僅かながらの思慮深さがある――転生者である俺に埋もれてしまったが、恐らく彼女こそが本物の神童である――うえに、お互いに金銭的な面を始め非常に過保護にされていたので争いとは無縁だった。
――そうだ、レイナはどうしてる!?
身を起こそうとするが、思わぬことに手足を縛られていたために、立ち上がることはおろか座ることすらも失敗した。当然といえば当然なのかもしれないが、目が覚めたばかりの曖昧な頭では、動きづらいことと縛られていることを結び付けられずにいたのだ。
不快感と焦りを感じるが、こういったときこそ落ち着かなければならない。若干荒い息が平常に戻るまで、ゆっくりと深呼吸をする。こういったときは深呼吸が一番だ。
周りを確認することが優先だ。
今見えている方向には壁しかない。
手足は使えないので、勢いをつけて寝返りをうって反対側を向くと、レイナだけが見えた。ありがたいことに犯人たちはいない。
レイナは俺と同じく縛られてはいるが、すうすうと安らかな寝息を立てていた。俺のように痛みに苛まれていたということはなさそうだ。よかった。一先ず彼女が無事で安堵する。
しかし、時間があるかどうかは分からないのだ。俺は考えることをやめることを許されていない。
ここはどこだろうか。木の壁と床を見るに、木造の小屋であろうと推測されるのだが、王都の中なのか否かすら分からない。雨漏りしそうな天井と、一つだけあるドアの隙間からの光だけが部屋を照らしていて、窓といった上等な明かりは用意されていなかった。
ともあれ、動けるようになることが先決だろう。
先ずは寝返りを打って仰向けに寝転がる。そこから腹筋を使って、体育座りの形にもっていく。
落ち着いて小さな声で呪文を唱える。声に出したのは、自分に覚悟させるためである。
「【魔力よ、温もりを与える火となり、形を成せ】」
俺の手を縛っていたロープに火が付く。これで焼き切るのだ。熱いが、歯を食いしばって耐える。
一分もすればロープが半分ほど切れた。後はそこから解けるだろう。
「【魔力よ、世界を潤す水となり、形を成せ】」
水を生成する水属性魔術を使って鎮火する。服が濡れてしまったが、細かいことは気にするべきではないだろう。
やはりというべきか、火傷してしまったのだろう、手首に水が染みる。後でレイナに直してもらおう。
足のロープも同じように焼き切った。先程と火傷の程度は変わらなかったので、レイナに同じことは出来ないな。
次はレイナを起こすべきだろうが、縄を解いてから起こすべきか、起こしてから縄を解くべきか迷う。どちらにもメリット・デメリットが存在するからだ。
数秒考えて、起きた時に縛られていたらレイナが驚いて声を上げてしまう可能性があると思い至り、そのリスクは大きいので縄を解くことを優先することにした。
今度は見えるという安心感があったので、無詠唱で火属性魔術を使う。先程と異なり、ロープの結び目だけを焼き切る最低限の火力に調節する。通常より小さな火を出すことで魔力の消費は大きかったが、女の子の体に傷をつけることに比べれば些細なことだろう。
結び目が切れたら、息を吹きかけることで鎮火する。
後は手作業で一本一本丁寧に、そして出来るだけ素早く解いていき、レイナの手を解放する。足も同じようにだ。
予想以上に上手くいった。
俺は手足四ケ所を火傷する始末であったが、レイナには傷一つ付けることなく縄を解くことが出来た。非常に満足だ。
縄によって絞めつけた後や、僅かな擦り傷は出来てしまっているが、これは自然治癒でも跡が残らない程度のものだ。
「レイナ、起きて」
背中に手を回してレイナを抱き起し、耳元で囁くように声をかける。軽く揺らしたりしつつ声をかけ続けると、数分で目を覚ました。
「んにゅ……? えへへー」
寝ぼけ眼のまま、俺を見てにへらと笑う。
完全に寝ぼけているようで、普通に楽しい夢を見ていたのかもしれない。だけど今は夢の余韻を噛み締めるような状況ではないだろう。
俺の後頭部に未だ僅かに残る鈍い痛みは、先程の光景が事実である何よりの証拠だ。床に無造作に転がしたロープは、俺たちが現在進行形で敵に捕まっている証拠と言える。
レイナの頭を撫でながら、小さいながらも真面目な声音で、彼女を夢から引き戻す。
「起きて、レイナ。状況は良くないのだから――」
自分たちの置かれている状況を説明する。ほぼ間違いなく誘拐犯に攫われたということと、今いる場所が分からないということを。
レイナは眠そうな表情を少しずつ平常のものに戻し、説明が終わる頃には口元を一文字に結び、仕切りに頷いていた。
本当に聡い子だ――これが標準的な子供であったならば、泣き出したり騒ぎ出したりして、大惨事になっていただろう。
とりあえず、情報が不足しているという情報の共有が出来た。
「さて、こんな状況で悪いんだけど、いや、こんな状況だからこそ、火傷を治してもらっても良いか?」
一区切りして少しばかり心の余裕が出来たので、手首の傷を思い出した。それを見せて、治してもらえるかと問うと、彼女は心配そうな表情で首肯した。
「大丈夫だと、思う……。でも、ヴァイス様、いつそんな怪我したの……?」
「縄を解くのにそれしか思いつかなくて……」
「無茶しないで……!」
表情を怒ったものに変えて、彼女は乱暴に俺の両手を取る。
思わず、痛みで顔をしかめる。確かに心配させてしまったかもしれない。けれども俺は、ごめん、と小さな声で謝ることしか出来なかったが。
「……『神はあなたを許された。痛みは悪魔に、傷は邪神に、帰りなさい』」
あるいは月のような、あるいは蝋燭のような、あるいは蛍のような、優しい光が俺の両手首を包み、同時に痛みは引いていく。
呪文を唱え終わったレイナは俺に体重を預けてきて、俺にそれを拒否する権利なんてなかった。「ごめんなさい」ではなく「ありがとう」を返事に、彼女の背中に手を回した。