今は卑しい身であれば 3
部屋に戻ると、レイナは俺のことを抱きしめた。
温かく優しいものである一方で、足先は踏まれたし、身長差から顎に頭突きを入れられたので、怒っていることも分からされた。それでも、俺を思っての怒りであることも分かるので、気持ちはより温かくなった。
謝罪の意味も込めて抱きしめ返す。
「ごめん。でも、アネモネの気持ちも分かるだろう?」
「分かっています。それでも、私は怒ります」
腕の力がさらに強まって、ちょっとだけ息苦しくなる。
「『神はあなたを許された。痛みは悪魔に、傷は邪神に、帰りなさい』」
聖女の奇跡の、リアの系譜の力の、柔らかくも温かい光が俺をぼんやりと包み込む。
先程の準決闘での細かな怪我や筋肉痛がなくなり、足先と顎の痛みも取れて、痛みのない小さな体の不調すらも消えてなくなる。
レイナのおかげで戦う前よりも健康体になったともいえる。
そのまま暫く抱き合って、どちらからともなく離れる。
レイナは部屋に来ているアネモネに歩み寄り、左手で腕を取って、右手を傷口に沿えた。
俺が切り付けて出血させたあの傷口で、アネモネはそれ以外の傷を負っていなかった。もっとも、俺の方は傷は多くとも出血はないので、総合的にどちらの怪我が大きいかと言われると難しい。
言葉が紡がれ、温かな光に包まれて、レイナが手を離すとアネモネの傷口は後もなく治癒していた。
国に公認させて称号を貰う為に、ルーカスに使った時から分かっている通り、古い傷跡は治せない能力であるが、新鮮な傷口であればやはり普通の治療魔術以上の力を発揮した。
アネモネは恥ずかしそうな申し訳なさそうな、そんな表情でレイナに礼を言った。
「ありがとうございます、レイナ様。態々お手を煩わせてしまって」
「良いのですよ、結婚式も近いのに、傷跡はない方が良いでしょう?」
「はい、それは勿論」
普段強気なアネモネが、女の子らしい表情で笑った。
見たことの無い表情で驚いたが、恋をすると人は変わるとはこういうことなのだろうか。ハインツ兄様と婚約したのはだいぶ前なので、今更感が強いが。
アネモネとレイナは何やら楽しそうに話を始めた。
「中々に可愛いだろう? 僕の婚約者も」
いつの間にか隣に居た、ハインツ兄様がそんな風に笑った。
「レイナには負けるかも知れないけど、可愛らしさだけで選んだわけじゃないからね。ヴァイスにだって喧嘩を売れるような強い子だから、僕は彼女が気に入ったんだ」
不意に惚気だしたハインツ兄様に、俺は対抗するように言葉を紡ぐ。
「レイナだって可愛いだけではありませんよ。俺に従順であると思われることも多いようですが、意見が対立することだってありますし、本質的にはレイナの方が俺よりも頭が良い。佳人という言葉は彼女の為とすら俺は思います」
「……惚気合いで僕がヴァイスに勝てるはずがなかったね」
ハインツ兄様は肩を竦めた。俺は続きを語ることも出来たのだが、それは飲み込んで、代わりに勝利宣言とばかりに笑みを浮かべた。
女性陣の話も終わったようなので合流して、何時までも立っているのもあれなのでソファに移動する。柔らかいクッションに腰を下ろす。
改めた形になったが、ハインツ兄様は気楽に話を切りだした。
「まずは、ヴァイスにはありがとう。レイナには心配をかけて申し訳ない、そう言わないければならないかな」
「そうね、改めてお礼と謝罪を。ヴァイス殿下、レイナ様、ありがとうございました。それに、ごめんなさい」
ハインツ兄様が小さく、アネモネはしっかり45度で頭を下げる。
今更そんな必要はないと、俺達が断るとハインツ兄様は微笑みを、アネモネは安心した表情を浮かべた。
「では、本題だ。こんなことを言うのも変なんだけどね、僕たちの結婚に当たって、間違っても祝いの品は贈らないでくれると嬉しい」
虚を突かれた気分だった。
それはあまりにも予想外な要求であったし、先程は何を贈ろうなどと考えていたのだから、思考を読まれたような錯覚にも陥る。あるいは、これでも仲の良い兄弟であるし、予測くらいはされていたのだろうけれど。
座る位置的に表情はうかがえないが、小さく「えっ?」と漏らしていたので、程度の差はあれどレイナも同じような気持ちだろう。
ハインツ兄様はそれを予想していたとばかりに、二人の女官に指示を出した。
青い髪の方はヴォーヴェライト侯爵家の、紫の髪の方はゼーネフェルダー侯爵家の出身だ。今の姓は違うそうだが。当然ながら、兄の女官は俺の女官よりも年上で、アリアだって結婚しているのだからおかしいことは何もない。
三十歳は超えていて、中年に差し掛かってきている彼女たちではあるが、むしろ大人の色香が出てきているともいえる。子供っぽい面があるアリアや、見た目が若い上に恋愛を遠ざけているらしいカリンとは、正反対と言っていいかもしれない。
閑話休題。
青い髪の女官が差し出した紙をカリンが受け取る。そして、確認した後それを俺に手渡す。
公的な場ではないのだから、直接渡すのでも良いんじゃないかと思ってしまうのは、俺が怠惰なのか庶民が抜けないのか。
「贅沢な話だけど、そういうのを贈ってくるのが多すぎるんだ。王爵家嫡男――王太子の、正妻を娶る結婚だから仕方がないのだけど……」
「それで、これがそのリストというわけですか」
「既に贈られたものと、予告されたものだけでこれだね。だから、さらに増える。流石に扱いに困るレベルなのだけど、立場上、全部受け取るか一切受け取らないかの二択しかないんだ。そして、浅はかにも、僕は既に受け取ってしまった」
カリンがそっと耳打ちしてくる。
リストからの予想では倉庫部屋が二つ埋まります、と。
色々と察した俺は首を縦に振った。
「では、そうします」
するとハインツ兄様は破顔して、また、女官に指示を出した。
そして、そのままに俺達に問いかけてくる。
「ありがとう。ところで、美味しいお菓子があるのだけど一緒にどうかな?」
先に女官に指示を出したあたり、断らせる気はないじゃないか。
ハインツ兄様は綺麗に笑っているだけだが、アネモネは隠す気もなくクスクスと笑い声を漏らした。
俺は口角を引き攣らせそうになるが、俺が答えるよりも先に、レイナが嬉しそうに答えた。
「甘い物ならば、是非」
「甘いよ。保存のきく蜂蜜菓子なんだけど、如何せん量が多くてね? そうそう、女官や護衛の皆も一緒に食べてくれると嬉しいな」
断らせない気迫があった。
貰ったものをそのまま他へ流すわけにもいかないだろうし、困っているんだろうと分かった。「過ぎたるは猶及ばざるが如し」とはこのことか。
レイナは甘味で嬉しそうであったし、付き人達ともいつも以上にコミュニケーションが取れるから、俺としては楽しかったので良しとしよう。