一つ前のエピローグ
異世界から読みたい場合は、この頁は読み飛ばしても大丈夫です。
大学の二年生の夏休みのある日、めでたく二十歳となって、サークルの先輩や一足先に誕生日を迎えた同学年の仲間たちと初めて酒を飲んだ日のことだ。
あくまでも気分の問題であるとはわかっているが、いつもサークルの後にたまっている居酒屋ですら、ワンランク上の店に感じられる。
先輩に、先ずはこれだ、と勧められたビールをあおる。
苦い。
冷たいものが喉を落ちていき、爽快感はある。
「どうだ? うまいか?」
「正直言って味はあまり好きではないですね。でも、喉越しはいいです」
先輩の問いかけに正直に答える。
すると先輩は既に酔いが回っているのか大声で笑い、
「そうかそうか。俺も最初はそうだった」
何が面白いのか、いや、この先輩は笑い上戸であったか。
他の先輩は喉越しが良いと思うなら上等だと、薄く笑みを浮かべている。
大笑いしているのは一人だけである。気のいい先輩ではあるが、酒に弱い上に、酔うとうるさいと専らの評判だ。
たった一人の騒がしさだけで混沌になりかけていたわけであるが、リーダーが思い出したように手を叩いて注目を集める。
「待て待て、いつもと同じノリになっているが、今日の主役を忘れたか?」
皆がこちらを向く。
いろいろ考えたが、思いつかないし、待たせてもよくないので短く済ませることにする。
「俺も今日で二十歳になりました。酒が飲めます。というわけで」
グラスを掲げる。
「乾杯!」
「「「乾杯」」」
俺の声に合わせて、先輩も同僚も後輩もグラスを打ち合わせる。
キンと高い音が響き、そのまま居酒屋の雑踏に呑まれていくのが、なんとも俺達らしかった。
暫く飲んで分かったのだが、俺はどうやら酒は強くないらしい。
思えば、父親こそ酒豪なものの、母親は皆無といっていいほど飲まないのである。
単に酒の味が嫌いなのだろうと軽く考えていたが、よくよく考えてみると、冠婚葬祭でも飲まないのだからそれなりの理由があって然るべきだろう。体質的に飲めないのなら頷ける。
というわけで、その子供である俺は、飲めなくはないが強くもないようである。
酒豪の父親を見て育ったせいで、まるで水を飲むかのように酒を飲んでいたわけであるが、二杯目にして少しふらふらする。
自覚があるだけマシか。
水を注文して酒を濁らせよう。
「んだあよ、お前。水なんか頼んじゃってぇ」
べろんべろんに酔っぱらった仲間に絡まれる。ハッキリ言ってうざい。
「酔ってるっぽいからな。今日は初めてだし無理はしないよ」
それがいいと先輩が笑う一方、未だに飲みなれない酔っ払いはダル絡みを暫くの間継続した。
そんなことすらも、楽しいと思える自分がいた。
飲み終わった後、曰く主役である俺は明日が早いため帰ることにしたが、二次会だといってはしご酒を開始する人たちもいた。飲めれば細かいことは関係ないらしい。
「それでは、自分は地元なのでここで失礼します」
駅の改札口に向かって軽く頭を下げる。
手の空いている人が軽く手を振り返してきた。
ダル絡み君は後輩に肩を支えられて連行されていった。
しかし、ダル絡み君とは比べるまでもないが、自分もそれなりに酔っているらしい。
早く家に帰って寝よう。
自宅は線路の向こう側なので、それをくぐって向こうに行くための地下通路を通る。
壁の塗りたてのペンキが独特の臭いを発していた。
エレベーターはあったが、待つのが嫌だったので階段を使う。
出口の方、上りの階段を真ん中辺りまで進んだところで、ふいによろめいた。
足を踏み外す。
慌てて手すりを掴もうとするも、無慈悲にもそれはすり抜ける。
バランスが崩れた。
体が重力に引かれて後ろに落ちていく。
足も、手も、全て空中に浮かんでいる。
時間が緩やかに流れる。
酒を飲んでいるにも関わらず、不思議なほどに状況を正確に把握できた。
受け身を取らねば。
とっさにそう判断するも、頭と違って体は良い働きをしなかった。
間に合わない。
後頭部から、嫌な音がした。
頭が痛い。
首が痛い。
背中が、腰が、脚が――打ち付けた全身が痛かった。
舌を噛んだのか、血の味がする。
体が動かない中、酔っているうえに打ち付けた頭だけは妙に絶好調で、事態を正確に把握する。
怪我や周囲の状況から、「死」が明確に連想される。
後悔と反省に溢れているが、不思議と恐怖はなかった。
五感が閉じていく。
地下通路の天井が見えなくなり、指先の感覚がなくなり、鉄の味がしなくなり、ペンキの臭いがしなくなり、自分の鼓動が聞こえなくなった。
二十歳の夏、俺は死んだ。
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