ユーリ、目の前で水の宝珠が奪略される
神々が人々を見守り、魔族が人々の生活に闇をもたらす世界エルファメラ。
エルファメラの大陸の中でもっとも広大な砂漠の真ん中にアクアディア聖国という国がある。
水の女神アクアミスティアが加護を受けるこの国は、砂漠の中にありながら、豊かな水のあふれる国となっている。
水の源は、アクアミスティアの分身とも呼べる「水の宝珠」の存在だ。手のひらに乗るくらいの大きさの円球の形をしており、その表面から水があふれ出てくるのだ。
水の宝珠はアクアディア聖国の中央都市にある教会の礼拝堂に鎮座されている。
この教会は、水の宝珠の加護を願う参拝客や、ひとめ見ようと訪れる観光客等で人の出入れが多い。
ユーリが通うアクアディア学院の建物はこの教会と隣接するように建てられている。そして、学院の建物と教会の建物も渡り廊下でつながっているのだ。
建物が繋がっているとはいえ、登校時に使用する玄関は、学院の玄関だ。しかし、下校する時に教会の正面門から出る場合は、それほど口うるさくは注意されない。
帰校時に礼拝堂に立ち寄って、祈りを捧げてから帰宅する生徒のための配慮だ。
ユーリは渡り廊下に向かって歩いて行った。礼拝堂で祈りを捧げるためではなく、ただ単に渡り廊下を通って教会の正面門から出たほうが、家に帰る距離が近いからだ。
帰校時間を迎えた廊下は帰る生徒達でごったがえしている。隙間を縫うに進んでいると、
「ねえ、ちょっと」
誰かの声がすぐ近くで聞こえた。
「ちょっと、待ってってば。そこのほかの人とは違う服を着てる人」
制服を着ている生徒たちの中で違う服、つまり運動着を着ているのは自分だけだ。
「僕?」
ユーリは声がするほうを振り返った。
そこにはぼさぼさの砂色の髪にビン底眼鏡をかけた生徒が立っていた。前髪に隠れて顔の輪郭がよく分からない。
「そう、君だよ」
着ているのは男子生徒の制服だが、声変わりがまだのようで、女の子のような声をしている。身長はユーリより五センチほど低い。
「蒼の宝珠のある場所を知っている?」
「蒼って……水の宝珠のこと?」
「そう、それだよ」
「水の宝珠なら礼拝堂にあるじゃないか」
「えっと、その礼拝堂ってどこにあるんだっけ?」
「この廊下をまっすぐ行って渡り廊下をこえたところにある……って、え?」
途中まで説明してユーリは思わず少年を凝視した。礼拝堂の場所は学校の生徒なら誰でも知っているはずだ。それをわざわざ聞くなんて。
「君はいったい……」
ユーリが何か質問する前に、少年は「ありがとう」と短く礼を言って、ぷいと背を向けた。
「あ、ちょっと」
うしろ姿に呼びかけるが、少年は逃げるように去っていく。制服が身体のサイズより制服のほうが少し大きいようだ。その姿は外の生徒たちに紛れてすぐに見えなくなってしまった。
「変な子だな」
ユーリは首をかしげた。
「ユーリ、さっきのやつ誰だ? 見かけないやつだな」
ラクロスが後ろから声をかけてきた。ユーリのほうが先に教室に出たのに、もう追いついてきたらしい。
「知らない子だよ。下の級の人かもしれない」
学院では年齢ごとに、六歳から十一歳まで小等部、十二歳から十四歳までが中等部、そして十五歳から十七歳が高等部というふうに分かれ、渡り廊下で繋がっているが校舎が違う。そのため他の級生と会う機会は全校集会くらいしかない。
「そんなやつがおまえと何を話していたんだ?」
「水の宝珠の場所を聞かれたよ」
「なんだそりゃあ?」
ラクロスは変な表情を浮かべた。自分もさっき、こんな表情だったに違いないとユーリは思う。
「スフィアのメンバーはそろったの?」
「ああ、この通りな」
ラクロスの後ろには十一人の級友がぞろぞろと立っていた。
「今から広場にいくところさ」
教会の広場は、誰でも自由に使えるように解放されている。学校の校庭は部活で使われているため、ラクロスたちは教会の広場でスフィアをするにしたのだ。
広場は教会の敷地内にある霊園と隣接している。広場に行くには、校舎の玄関からいったん外に出て、教会の建物をぐるりと回って向かうか礼拝堂の奥にある左右の出入り口から向かうという二つの道がある。校舎から行くなら、礼拝堂から行くほうが断然歩く距離は短い。
ユーリはスフィアをするラクロス達と一緒にホールに向かった。ホールは礼拝堂への正面門と、学生の校舎と、教会で勤めをする聖職者の職務所の廊下が交差する場所で、広い空間になっている。
ホールにたどり着くと、ちょうど礼拝堂から出てきた神官と出くわした。
ユーリは若干顔をしかめた。神官はユーリの父親だったからだ。
神官はユーリ達を認めると、穏やかな口調で話しかけてきた。
「みなさん、そろってお祈りですか。感心ですね」
「へ?」
思いがけない神官の言葉にぽかんとするラクロスたち。
感のいい学級委員長のゼルジュが、
「春休みでしばらく礼拝堂にこれませんから」
と穏便な受け答えをする。
ユーリの父親である神官は、ユーリの服装が他の生徒と違うことに目ざとく気づいた。 眼鏡の縁に手をかけ、ユーリに目線を向ける。
「ユーリ、どうしてお前だけ運動着なんだ?」
「そ、その、祈りのあと、スフィアをするから、先に着替えたんだよ」
言いながら、我ながらうまい言い訳だと思うユーリ。
制服がなくなったという説明を今する必要はないと判断したのだ。そうすれば父親話は長くなり、早くスフィアをしたいであろうラクロスたちに迷惑をかけてしまう。
「なるほど。体を動かすのはいいことだね」
息子の言葉を聞いて父親はうんうんと嬉しそうに頷いた。
「怪我には気をつけなさい」
「はい」
学生たちの返事を背に、神官は事務所に向かう廊下を歩いて行った。
ラクロスたちは、神官の前で礼拝堂に祈りにいくと言った手前、実際にスフィアをする前に礼拝堂できちんとお祈りをすることになった。
流れでユーリも一緒に向かうことに。
「ちぇっ。タイミングが悪かったぜ。神官に声をかけられるなんてな」
ラクロスが小さくつぶやき、みんなも賛同する。
その神官が自分の父親だったから、ユーリとしてはみんなに申し訳ないと思ってしまう。
礼拝堂の入り口には騎士が一つずつ左右に控えている。ラクロスが軽く声をかける。
「お疲れ様です」
「おお、祈りを捧げるんだね。感心感心」
騎士のおじさんはにこにこと返答を返してくれた。
威圧的な感じがしないのは、騎士の重要な部位を守るパーツだけを身につけ、他は白を基調とした布でできた簡易な装備をしているからだ。
礼拝堂の広さは学校の教室で言うと教室が三つ入るほど。
中央に泉水があり、その泉水を囲むように長椅子が順番に並んでいる。泉水の水の深さはひざ丈ほどだ。
泉水の真ん中には、白い大理石でできた三体の女性の像が鎮座している。
彼女達がお互いの腕を絡ませながら、頭上に掲げているのは、握りこぶし大の青い色をした宝珠だ。
この宝珠が「水の宝珠」と呼ばれるアクアディア聖国の宝である。
水の宝珠からあふれてくる水は、女性像の手のひらを伝い、泉水にたまる。一か所だけ泉水と床の間にくぼみがあり、そのくぼみから泉水にたまった水が流れている。そのくぼみは礼拝堂の奥にある小さな穴へとつながっている。その穴を抜けたところには湖がある。
この湖から四方に川が流れ、この国に豊かな潤いをもたらしている。
アクアディア聖国にあるすべての水の原点はここにある。
水の宝珠の存在を、アクアディア聖国に住む者なら知らない者はいないだろう。だからこそユーリは、さきほど少年に水の宝珠のある場所を聞かれ、驚いたのだ。ましてやアクアディア学院の生徒である。
あの子はいったいなんだったんだろうと、ユーリはあらためて思う。
高い位置にあるステンドグラスの窓ごしに、午後の太陽の光が差し込んでいる。
そのため聖女の三体の像が掲げる青い宝珠は、みずから輝いているように見え、泉水の水面もきらきらと輝いていて幻想的だ。
小川のようにくぼみを流れる水の音は、礼拝堂を訪れる者に安らぎを与える。
中央にある水の宝珠が鎮座する泉水を囲むように、円形状に、何重にも参拝用の長椅子が並べられている。
熱心に祈りを捧げている人がいるかと思えば、じっと座ったままで寝ているように思える人もいる。
礼拝堂は円形に近い造りになっていて、北側に入り口、女神の像の向こう側の南側、西側と東側に小さな小部屋がある。
冠婚葬祭の手続きをする部屋、出生や死亡届を提出する部屋、悩み事や相談をする部屋となっている。一日ごとに、時計回りに部屋の役割は切り替わる。
特に決まっているわけではないが、出生届けを出したい場合は、その部屋が東側にある時に、死亡届たを出す場合は西側にその部屋があるときに、届け出が出されることが多い。
東は太陽が昇る方向で、太陽が沈む方向は西側。この世に生を受けた赤ん坊の安息を願って届部屋が東にある時を見計らって出生届けを出したり、死した人に安らかに眠って欲しいという思い込めてその部屋が西側にある時に死亡届を出す者がいるからだ。
届け部屋は神官が、冠婚葬祭手続き部屋と、相談部屋には司祭が、それぞれ一人ずついる。
さきほど礼拝堂から出てきたユーリの父親の神官は、ちょうど交代の時間だったのだ。
礼拝堂の治安と秩序、そして、水の宝珠を警護するため、騎士たちがいたるところにいる。彼らの装備は入り口にいた騎士達と同じく重々しくはない。
礼拝堂という場所がら、威圧感を与える装備は控えているのだ。
礼拝堂の中にユーリ達が入っていくと、祈りの姿勢をしていた一人の少女がこちらに気づいて振り向いた。その焦点はすぐにユーリにとまり、みる間に笑顔を浮かべる。
彼女の近くには、彼女の友達らしい女子生徒もいた。
「あら、ユーリもお祈りをしにきたの?」
「やあ」
ユーリたちは彼女たちのところに向かった。
「おお、フィリアちゃん。ここで会うなんて奇遇だな。やっぱり俺たち気が会うんじゃないか」
お調子なラクロスがすぐさまフィリアに話しかける。
「春休みに入る前に祈りを捧げるのは当然のことよ。奇遇でもなんでもないわ」
にこりと微笑みながら、手厳しいことを言うフィリア。
「つれないなぁ、フリィアちゃん」
ラクロスは言葉のわりには、それほど落胆しているようには見えない口ぶりだ。
「ここで会えたのはよかったわ。ユーリ、この後、予定ある?」
「うん、まあ」
早く家に帰って、マンガを読みたい。
「それって急ぎなの?」
「どうして?」
「わたしたちこれからアンディールに行くの。ケーキをおごらせて。昨日のお礼をしたいわ」
アンディールというのは教会の近くにあるお菓子の店だ。ケーキがおいしいということで女子達に絶大な人気を誇っている。
「なんだって?」
ラクロスをはじめ、男達がいろめきたった。
「お礼なんていらないよ。気持ちだけ受けとっておくよ」
「わたしがユーリとケーキを食べたいの。だから一緒にきて?」
「でも、その……甘いものは苦手だから」
実際は甘いものは苦手ではない。しかし、ユーリの視界にはラクロスたちの様子も映っていた。彼らは鬼のような形相をしていた。
フィリアは美人で優しい性格のため、たいがいの男子生徒はフィリアと親しくなりたいと思っている。
そんなフィリアと仲良さげにおしゃべりをしているユーリは、男子生徒たちの嫉妬と羨望の的なのだ。
ここでユーリがフィリアたちと一緒にケーキに食べに行ったら、のちのち男子達から、絞殺されかねない。
「まあ、甘いものは苦手なの? それなら違うものもいいわ。しょっぱいものでも辛いものでも」
そこまで言って、フィリアは名案を思い付いたというように両手をぽんとたたいた。
「そうだわ、この前、商店街のカレー屋さんで季節のサクラカレーが発売されたのよ。それを食べにいきましょうよ」
「いやあ、だからその……」
ユーリは困った。自分に嫉妬している何人かの男子の殺気を感じる。今すぐにでもこの場から逃げ出したい。
フィリアは自分の言動がユーリの立場を危ない場所に陥れていることに気づかない様子で、ユーリの回答を待っている。
「ラクロスたちとスフィアをする約束があるんだ」
「はぁ? ユーリ、お前やらないって……」
ラクロスが何か言いかけたが、最後まで言わせず、
「ほら運動着を着ているから、ちょうどいいと思って。ねえ、ラクロス」
目だけでラクロスに訴える。ラクロスは一瞬困惑げな表情を浮かべたが、すぐにユーリの気持ちを察して、
「ああ、そうだな」
と会話を合わせてくれた。
「そうなの、残念ね」
しゅんとなるフィリア。しかしすぐに気を取り直したようにユーリをじっとみつめた。
「ちゃんとした理由があるのね。ユーリに避けられているのかと思ったわ」
「そんなことないよ」
内心、ぎくりとしながらもユーリは返答した。
「さっさと祈ろうぜ」
ラクロスが言い、皆も像がかかげる水の宝珠を見上げた。
ユーリたちは像の前にひざまずき、頭を下げた。
しばらく皆、沈黙し、心の中で祈りを捧げる。
ふと、ユーリの横を何かがさっと横切っていった。おもわず下げていていた頭をあげると、目に飛び込んできたのは、先ほどユーリに話しかけてきた砂色の髪をした少年だった。
彼は躊躇なく泉水の中にに足をつっこみ、じゃぶじゃぶと歩みを進めると、するすると像をよじ登って、像の手のひらから水の宝珠をつかんだ。
その一部始終を、ユーリを含めてその場にいた者たちは、唖然と見ていることしかできなかった。
「水の宝珠が奪われた。捕まえろ」
礼拝堂にいた司祭が叫ぶように声をあげ、ようやくユーリ達も動き出した。
ラクロスをはじめ数人の学生が泉水の中に足を踏み入れ、攻撃魔法が得意な誰かが呪文を唱えようとする。
「動くな」
砂色の髪の少年が、片手に水の宝珠を持ち、声を張り上げた。
「動けばこの球を床に投げつける」
その場にいる誰もが動きを止めた。
うめくような声を、司祭が洩らした。
「なんだと……?」
それを皮切りに、騎士の一人が叫ぶ。
「水の宝珠を奪略するならば、おまえには天罰がくだるぞ」
少年は言い放つ。
「祈りだけじゃ何も救われない」
少年の背中からばさりと白いつばさが広がる。
「背中から翼が生えた?」
「何者だ? 魔物……いや魔族か?」
騒ぐ人たちを見下ろす時間も惜しいというように、少年は宙に浮かぶと、天井近くにあったステンドグラスを突き破った。
バリン! ガラスの破れる音が響き、そのかけらが、礼拝堂にいるみんなの頭上に降ってくる。
「うわぁ」
「きゃあ」
悲鳴を上げるユーリ達。床に落ちたガラスは音を立ててさらに細かく割れていく。ユーリ達はその場に頭を守るように身を伏せた。
「水の宝珠を盗すむなんて……」
そう言うフィリアの声が震えている。隣でその言葉を聞いたユーリは思わず、震えている肩に手をかけた。
「大丈夫だよ。きっとすぐに水の宝珠は戻ってくるよ」
なんの根拠もない言葉であることは、ユーリ自身がよく分かっている。それでも目の前で恐怖に震えている学友に、何か声をかけなければと思ったのだ。
「そ、そうね……」
フィリアはユーリを見つめてよわよわしく微笑んだ。フィリアとしても、ユーリの言葉をまるまる信じるわけではないが、級友の言葉はフィリアの心の中にわずかな安堵感をもたらした。