ユーリ、ヤンソン家の代理主と会う
ジェノサイドはすぐさま、唇の端に笑みを作るとユウナに言った。
「コウから聞いた。この屋敷はベインのものなのだろう? もと主の息子が訪ねてきたと伝えてくれ」
「かしこまりました。その間にジェノサイド様とユーリ様は、ひと風呂浴びませんか?」
言われてユーリは自分のなりを見回した。昨日の戦以来、ずっと医療院で働いていたため、衣服は薄汚れ、体臭もたぶんある。自分では気づかないが。
ジェノサイドも同じようなものだった。
「それはいいねぇ。着替えもあればいいんだが」
「そうですね。使用人のものでよろしければすぐにご用意いたしますが。ああ、それよりもジオラルド様の服はいかがですか?」
「それはいいね。ジオラルドも怒らないだろう。友の分もお願いするよ」
「かしこまりました」
風呂は大きかった。使用人や工房の従業員たちも入るからだという。
体をさっぱりしさせて脱衣所に上がると、入浴中にユウナが手配してくれたジオラルドの服を拝借する。
「ジオのやつ、俺より背が高くなったんだな。ズボンの裾が長いよ」
「僕はちょうどいいくらいだな」
言ってからユーリはジェノサイドより、ほんの指二本ほど背が高いことに気づいた。
待っているように言われた客間でくつろいでいると、ロックもせずにドアが開いた。
入ってきたのは貴族が着るような部屋着を着た歳は四十程の男だった。ゆるく波打つ髪を後ろで縛っている。男は、ユーリやコウには目もくれず、ジェノサイドだけを視界に入れた。
「家出した息子が戻ってきたという報告をユウナから聞いたときには、本当かと我が耳を疑ったが。どうやら本当のようだ」
嫌味なほど尊大な言い草だ。
ジェノサイドは椅子から立ち上がった。ユーリとコウも立ち上がる。
「君がベインさんか。コウから話は聞いているよ」
「あなたは確かにジオラルド様と血縁関係なのだろう。よく似ている。そのジオラルド様の服を着ていてはなおさらな。どうやら背の高さはジオラルド様のほうがあったようだが」
男の目線がジェノサイドの足元に注がれる。ベインはユーリ達とはテーブルをはさんで向かいの椅子に座り足を組んだ。
「今現在、この屋敷も工房も俺が管理している。家出息子がいる場所はない」
いきなりの喧嘩腰の言動に、ジェノサイドは細い目をますます細めた。わざとらしいゆっくりとした動作で椅子に座り直す。
「ユーリもコウも座ってよ」
ジェノサイドに促され、ユーリは椅子に座った。ベインに雇われている立場のコウはちらりとベインを伺うように見た。ベインはそれにこたえるように小さく肩をすくめてみせ、コウも椅子に座った。
ユーリたちが椅子に座ったのを見届けると、ジェノサイドは静かな声で言った。
「管理ではなく、搾取じゃないのかい? 在庫している金の糸が減っていく状況で、なんの対策も立てず、多くの職人を辞めさせたそうじゃないか」
ベインはコウに目線を向けた。
「そこの老人が言ったのか?」
コウが何か言う前に、ジェノサイドが言い放つ。
「コウは老人じゃないよ。髪は白いけどね」
「ははは」
冗談で言った口調ではなかったジェノサイドの言葉に、いかにも面白いというように喉をのけぞらせてベインは高々に笑った。
「正直、その医療師の今後の雇用についてどうするか困っているところなのだよ。
昔のように工房の職人や屋敷の従業員を含めて五十人以上もいたころには、専属医療師は重宝された。
しかし今や、総勢十人足らずの世帯だ。専属医療師に払う給料が惜しいんだよ。だから給料も下げた。それでもそこのおいぼれはここにしがみついている。歳が歳だから行く当てがないんだろうな。哀れなものだ。
まあ、今回は魔物が襲っていたというので治療院から支援の声がかかったから、良い小遣い稼ぎにはなったと思うがね」
ベインの酷薄な言葉に、ユーリは我慢ならず、上半身を前のめりにして、怒鳴るように言った。
「コウ先生の医療技術は一国の専属治癒魔法使いとして通用するレベルですよ。そんなコウ先生が働いてくれているなんて、贅沢なことですよ」
「へえ。ほう。ははあ。一国の専属医療師に価するとしても、その技術が発揮できない場所にいるなら、宝の持ち腐れだと思うがね。
それより君はなんだい? ユウナからは家出息子の友人が一緒だと聞いたが、君がそうなのか?」
ユーリは憮然と答えた。
「そうですよ。ユーリといいます」
自分の態度が失礼なものだとは分かっていたが、相手も失礼な態度をとっているのだから、かまわないと開き直る。
ベインはユーリをにらんだが、すぐに視線をジェノサイドに向けた。
「で? 俺についてどんな話を聞いている?」
ジェノサイドはベインのその目線を真っ向から静かに受け止めた。反発するでもなく認めるでもないまなざしだ。
ジェノサイドは静かに口を開いた。
「君はヤンソン工房をつぶすつもりなのかい?」
余計な質問はせず、結論を問う。
「つぶす? はは、つぶすね」
ベインはあざけるよう顔をあげて笑った。のどぼとけが大きく上下する。
「金の糸の補充ができないこの工房は俺がつぶさなくても、いつかは必ずつぶれる。
ならば、必死にしがみつくよりも、今ある金でおいしい目を見たほうが賢明だと思わないか?」
「――なっ!」
あまりの言葉にジェノサイドは呆気にとられ、次の瞬間、怒りのために顔を紅潮させ、椅子から立ち上がった。
「この工房は親父が一代で築き上げた工房だ。それを部外者のお前に搾取させられる覚えはない。ここから出て行け!」
ぴしりとドアのほうを指差す。ベインは白けた目でそんなジェノサイドを見つめる。
コンコン。
ジェノサイドが指を差したドアからノックの音が響いた。
ジェノサイドが応答しないうちに、ベインが答えた。
「入れ」
「失礼いたしま~す」
色っぽい声音とともに部屋に入ってきたのは、二十半ばの女性だった。ウェーブのかかった黒髪を背中にたらし、胸が今にも見えそうなすらりとした赤いドレスを着ている。それが薄手で下の下着がみえた。下着は上も下も黒だ。
片手にトレーを持っており、そこは赤ワインのボトルと赤ワインのグラスが四つ、載せられていた。
ユーリは目のやり場に困った。赤地を通して見える黒の下着に目がいってしまう。目線をどこに向ければいいのか戸惑い、目線を彷徨わせる。
「あらあらずいぶん、うぶな子がいるようですわねぇ」
「浮気するなよ」
「もちろんです。わたしはベインさまにくびったけ」
女性はベインの隣に進み、腰をかがめた。胸が大きく空いたドレスの向こうから胸の下着が垣間見えた。
さすがのコウも目線をそらす。しかしジェノサイドはじっとベインをにらんだままだった。
自分に顔を寄せてきた女性にベインは人前であるにも関わらず、口づけを交わした。
うわぁ! ユーリは思わず顔を赤らめる。大人同士のキスを直接見るのは初めてだ。しかしすぐに視線は女性が片手に載せているトレーに向けられる。ワインのボトルとワイングラスはトレーが並行を保ったままなので、倒れずにそこにあるが、今にも女性が手元を狂わせて、トレーを傾け、トレーに載っているものが倒れてしまうのではないかとはらはらさせられる。
キスをし終わり、ベインから上半身をおこすと、女性は言った。
「時刻は大人時間でしょう。お茶よりもこちらがよいと思ってお持ちしました~」
「気が利くじゃないか、エシリア」
「褒めて褒めて。もっと褒めてくださいな」
言いながらエシリアと呼ばれた女性は、テーブルの上にワイングラスを置き、ボトルからワインを注ぎ始めた。
そしてグラスをベイン、ジェノサイド、コウ、ユーリの前に順番に置く。
「ジェノサイド様、いつまで立っているつもりだ? ワインでも飲んで少し気持ちを落ち着いたらどうだろう」
ジェノサイドはすむっとした表情で椅子に座った。
「その暑がりな女性は何者なんだい?」
「俺の秘書でエシリアという。彼女にはいろいろと手伝ってもらっている」
「初めまして。エシリアで~す」
両腕で胸を持ち上げるようにしてお辞儀をするエシリア。再び胸の黒い下着が見えた。
「秘書だって? そんな破廉恥な服装をして仕事をしているのかい? なんて非常識な!」
「まさかぁ。これはお部屋用です。夜も遅いし、もうお客さんもこないだろうなぁと思っていましたから。こんな遅い時間に人の家を訪れる人のほうこそ非常識ですよね~」
ジェノサイドは怒りを抑えるようにこぶしを握った。
「ここは俺の家だ」
ベインはワイングラスを口元に傾けていたが、聞き捨てならないというように、それを離すと言った。
「『元』俺の家だろう?」
「なんだと?」
「家を出たあなたには、ここを自分の家だという権利はない。工房も同様だ。一年前にジオラルド様が死亡し、ジグ様たちが蘇りの旅にでたときに、この屋敷も工房も、その所有権を俺に一時譲ってくださった。自分たちが戻るまでの代理としてね。
彼らが戻るまでは俺が、この屋敷の主なんだよ」
エシリアがしなだれかかるようにベインの隣に座る。
「せっかくの良いワインなのですから、ぜひ飲んでくださいな。そこのうぶな坊やもどうぞ」
「僕はまだお酒を飲める歳じゃないので……」
「あら、そうなの。それじゃあ、わたしがいただいてもいいかしら?」
最後の言葉はベインを上目遣いに見つめながら言う。ユーリは薄着のエシリアを見ることができず、そっぽを向きながら答えた。
「どうぞ」
「彼もそう言っているから、好意に甘えなさい」
「やったぁ。このワイン、ワインの名産地で作られたビンテージものなのよ。ご相伴にお預かりしま~す」
エシリアはおいしそうにワイングラスを傾けた。ベインも言う。
「さあ、ジェノサイド様もどうぞ。この通り、毒は入ってない」
自らもグラスを傾ける。美人を傍に侍らせ、優雅にワインを傾けるその様はいやみなほど様になっている。
ドアがノックされた。
応答したのはまたしてもベインだ。
「誰だ?」
「ユウナです。そのお声はベイン様ですね。……あのう、そちらにジェノサイド様もいらっしゃいますか?」
「いるぞ」
「お茶をお持ちしたのですが……」
「入りなさい」
「失礼いたします」
ドアを開けてユウナがお茶のセットを乗せた台車を押して入ってきた。
すぐさま、部屋の異様な雰囲気に気づき、自分の身を守るように右手を胸の前にもってきて、おどおどした様子を見せる。
ベインはそんなユウナに目線を向けないまま詰問する。
「ジェノサイド様が戻ったという報告を受けてから、だいぶ時間が経っているが、その間お前は何をしていたのだ?」
「ジェノサイド様のお部屋のベッドを整えたり、ご友人のお部屋の用意をしたり、お茶をの用意していました」
「ほう。誰がそんなことをしろと指示したかね?」
「え? あのう……」
「この家の主は俺だ。俺は二人を泊めることを許可したおぼえはない。勝手に風呂を使わせるわ、茶の用意をするわ、メイドのくせに、分が過ぎるぞ」
「も、もうしわけございません……」
ユウナの顔色は真っ青だ。胸に当てるその手も震えている。
ジェノサイドが再び何か言おうと口を開く。
しかしその前にコウが言葉を発した。
「ベイン、ユウナはジェノサイド様が屋敷を出奔する前から、主従の関係だったんだ。かつて仕えていた主が戻ってきた。快く主人を出迎えるのは従者としての任務だ。
ユウナを叱責するのは、道理的にいただけないと思わないのか?」
「思わないね。昔はどうあれ、今はこの屋敷の主は俺だ。俺こそが法だ。
ジェノサイド様とそのお客人、今夜だけはわが屋敷に泊めてさしあげる。しかし、明日になったら出て行ってくれ」
言い放つと、飲みかけのワイングラスをテーブルの上に置き、椅子から立ち上がり、ユーリ達に背を向けた。
エシリアがグラスに残っていたワインを一気に仰ぎ、その後を追う。
「ベイン様、待ってくださいな」
二人が部屋を出て言ってから、ユウナは控えめに言った。
「……お茶を淹れますね」
「頼むよ」
ジェノサイドが答えた。声が掠れている。
ユウナは手早くお茶を入れ、カップをそれぞれの前に置くと、エシリアがもってきたワインボトルも飲みかけのワイングラスを台車に載せ、
「すぐに戻ります」
と一言言って、部屋をでていった。
ユウナが出て行ったあと、誰も口を開かなかった。それほど長い時間ではなかったかもしれないが、ユウナが戻ってくるまでの時間がとても長く感じた。
再びドアがノックされる。
「入っていいよ」
ジェノサイドが答えた。
「失礼いたします」
うやうやしく頭をさげて、ユウナが入ってきた。
「ユウナも座ってくれ」
「はい」
ユウナが自分の隣に座ってから、ジェノサイドはようやくカップに口をつけた。
ようやくジェノサイドは心底ほっとしたような声で言った。
「ユウナの淹れてくれたお茶は落ち着くな」
「心を落ち着かせる効果があるというカミツレの花びらを配合しているんですよ」
「ユウナが配合したのかい?」
「はい。庭にジェノサイド様とジオラルド様と一緒に造ったハーブ園があるのを覚えていらっしゃいますか?」
「ああ、覚えている」
「このカミツレはそこから採取したものです。ハーブ園はジオラルド様が亡くなってからはわたし一人で手入れを続けています」
「ユウナは昔から植物が好きだったからなぁ」
昔を懐かしむように遠い目をするジェノサイド。
「明日で構いませんので、よかったらハーブ園をご覧になってください」
「もちろんだよ」
ユーリが質問した。
「ジェノ、これからどうするつもりなの?」
「今日はいろんなことを聞いて知って、頭が混乱している。今夜ひと眠りして、後のことはそれから考えることにするよ」
言って、ふわあっと大きなあくびをした。
「こんな状況なのに眠気を帯びるなんて俺はどうかしているな」
「このお茶には心地よい眠りを促す効果があるんです」
「その効果のせいだということにしておこう」
「明日の朝食の時間はどうされますか?」
「朝食のことは気にしないでいい。またユウナが怒られるのかもしれないだろう。朝一にここを出ていくよ」
「あの人はそんなに早い時間に起きてきませんよ。午前中いっぱい自室にこもっているでしょうね。ましてや今夜はエシリアと一緒なのですから」
「なかなか辛辣だなぁ。昔のユウナを思い出すよ」
「辛辣ではなくて事実を述べているだけです」
「はは。それなら今日はゆっくり休みたいから八時頃がいいな。ユーリはどうだい?」
「同じ時間でかまわないよ」
「八時ですね。承知しました。ジェノサイド様のお部屋は以前のままにしております。ユーリ様のお部屋は案内しますね」
「ありがとう」
来賓室を出るとコウが言った。
「それでは俺の部屋はこちらなので。ジェノサイド様、おやすみなさい。ユーリ殿もゆっくり休まれますよう」
「ああ、おやすみ」
「おやすみなさい」
コウは挨拶を交わすと、ユーリたちが進むほうとは反対側のほうに去って行った。
「わたしたち使用人にはあちらに使用人用の部屋があるんです」
ユーリは納得して頷いた。
「そうなんですね」
上にのぼる階段があるところまでくるとジェノサイドは言った。
「俺の部屋は上なんだ。じゃあ、また明日」
「ジェノもゆっくり休んで」
「ああ、そうするよ。ユーリもしっかり休んでくれよ。おやすみ」
「おやすみなさい」
「それではユーリ様、お部屋でご案内しますね」
ユウナの後ろを歩きながらユーリは言った。
「広い屋敷だね」
「昔はもっと使用人もいて、毎日のように客人が来ていたんですよ。それで部屋数が足りくなりなったりもしたものです。さあ、こちらです」
ユーリはドアを開けた。
「ごゆっくりお休みになって下さい。明日は八時にお声がけさせていただきます」
「何から何までありがとう。おやすみなさい」
ユウナはその歳相応の魅力的な笑みを返すと去って行った。
案内された部屋は、部屋が二つあった。ドアをあけて最初にある部屋は居間、隣の部屋が寝室という装いだ。
水道も通っていてトイレまである。この部屋で一生暮らしていけそうだ。
ユーリは手早く上着を脱いで下着だけになると、ベッドに身体をうずめた。久しぶりのふかふかのベッドの感触を味わう間もなく、どっと睡魔が押し寄せてきた。
ユーリはあっという間に眠りについた。