ユーリ、悪霊に取り囲まれる
それはユーリが直接床に布団をしいて寝ていたからかもしれない。
何かが動く気配で目が覚めた。
ベッドに目をやると、布団がこんもりと盛り上がっている。
ユーリはレイクが目を覚まさないように静かに上半身を起こした。腕が重く感じる。
気のせいかと思う。すると、ぎぎぃとドアが開くような音が自分たちの寝ている部屋のドアの向こうから聞こえた。ドアの向こうはすぐに礼拝堂だ。
隣の部屋で寝ているラナかユリカが起きたのか。それとも礼拝堂に誰かが入ってきたのか。
どちらにしろ、気がかりだ。
ユーリは様子を見に行くことにした。靴を履くときに、足に重みをまいていることを思い出す。ついでに腕にも巻いていることを思い出して、道理で腕が重いはずだと合点する。
部屋を出るとき、レイクの様子を確認すると、レイクは気持ちよさそうに寝ていた。レイクの首のあたりに体を寄せていたリリーがユーリに問いかけようと口を開く前に、ユーリは自分の口の前に指を一本立てて静かにするようにジェスチャーした。
リリーは言葉を飲み込み、ユーリは安心させるように笑みを浮かべてると、部屋を出て、ゆっくりとドアを閉めた。
礼拝堂の中はしんとしていた。
窓から月の光が差し込んでいて、厳かで清らかな雰囲気に満たされている。
やはり、気のせいだったのだろうか。
と、礼拝堂の窓に影が横切った。
窓に近づくと、ラナの赤い髪が見えた。墓地のほうに向かっているようだ。
どこにいくのだろうか。朝稽古に行くにしては早すぎる。
ユーリは礼拝堂の扉を開き、ラナの後を追った。体が重い。疲れているせいばかりではない。手足に巻いた重みが影響しているのだ。
それでも、ほどなくしてラナに追いついた。
「ラナ」
呼びかけられて、ラナは振り返った。ユーリの姿を見て不思議そうな表情を浮かべる。
「ユーリ? どうしたの?」
「それは僕の質問だよ。こんな夜中にどこにいくつもりなの?」
「声が聞こえるの」
「声って誰の?」
「ミカル先生の声よ。ミカル先生はまだ生きているのよ」
「声は僕には聞こえないよ。ミカルさんは死んだんだよ。ガッシュさんが墓を造っていたじゃないか」
「死体をみたわけじゃないわ」
言ってラナはくるりとユーリに背を向けると、墓地に向かっていった。
ラナは身軽にかけていく。重みをつけたユーリはどうしても遅くなる。
ようやくミカルの墓の前にたたずむラナに追いついた。
ミカルの眠っている墓はしんとしていた。
「ほら、墓はそのままだよ」
「でも……」
ラナは顔をあげた。
「ほらまた聞こえたわ。あっちのほうから。助けを求めているみたい」
ラナが指差すのは、墓場の向こう側に広がる森だった。あの森の中でラナは一人で剣術の稽古をしていたという。想像していたときは、神聖な森をイメージしていたが、今は夜中だからか、うっそうと広がる黒い塊のようにしか見えない。おのずと、近づくことを忌避してしまいたくなる。
「何も聞こえないよ。もし本当に声が聞こえるのだとしても、今は暗いから、あぶないよ。明日、明るくなってからしようよ」
「行くわ」
ラナは森に足を向けた。
「あ、待って」
ユーリはラナの後を追っていく。
森の中に入った。森と言っても木々のほとんどが枯れている。かさかさになった枝を踏む、ぱきんぱきんと乾いた音が響く。
寒い、とユーリは思った。ユーリは寝間着のままだった。ラナもそうだ。夜だから、寝間着だから、寒いということもある。
けれど本当に、この場は他よりも、空気が冷たくよどんでいる気がした。
「なんかこのあたり、いっそう寒いくない?」
「ミカル先生が助けを求めているのよ。行かなくちゃ」
ラナは駆け出した。
「うわ、待って」
ユーリも駆け出した。みるみるラナの姿が暗闇の中に消える。それでもユーリはラナが向かったほうに向かって駆けた。足も腕も重いし、あたりは暗いし、寒い。
一時も早くこの場から逃げ出し、暖かい布団の中に身を沈めたい。けれど、それ以上にラナのことが心配だった。
ラナにはミカルの声が聞こえるという。しかし、ユーリはそんな声は聞こえなかった。
この森の雰囲気は普通じゃない。異質な感じがする。闇の雰囲気が濃く、生きる者を拒み、妬み、ともすれば自分たちの側に引きずり込もうとしているようだ。
そう思うと、背筋がぞっとした。
と、木の根に足を引っ掛けて転んだ。
「いてててて……」
起き上がって、あたりを伺う。
すでにラナの姿はない。
枯れた木々の陰から今にも何かがでてきそうだ。
「ラナ、どこにいるの?」
ユーリは恐怖にかられ、ラナの姿を求めてやみくもに駆け出した。
気持ちが焦っていた。だから、それに気づかず、真正面からぶち当たった。
外部から注入されるように心の押し寄せてくる感情があった。
妬み、苦しみ、怨念、恨み、飢え、渇き、絶望。
おなかすいた。痛い、辛い。誰かこの子をたすけて。私の命はどうなってもいいから。どうして俺だけこんな目に、合わなくちゃいけいんだ。くそ、金持ちの家に生まれていれば。
「うわああぁぁぁ!」
誰の叫びが聞こえる。
それは自分の声だ。
自分が、僕が悲鳴をあげている。
「やめてくれ。なんなんだ、この感情は――?」
果てしなく底のない絶望。
この世に存在する、様々な要因の絶望感がユーリの中で膨れ上がる。
「こんな世界、なくなればいいのに。そうすれば辛い思いも悲しい思いもしなくてもいいのに――!」
誰かが耳元で囁く。その声は自分の声だった。同意するもう一人の自分がいる。
「そうだよね、死んでしまえばこんな思い、しなくていいんだ。死ねば余計なことを考えることもなく安息になれる」
複数の人間の声が響いた。
『我らと共に絶望を共有しよう』
絶望を共有する、なんて甘美な感覚だろう。ユーリは見えざる差しのばされた手に、自分の手をのせようとした。
「ユーリ!」
ユーリの手を、絶望の見えざる手から、現実の側にひっぱって遠ざけたのはラナだった。
背中に白い大きな翼がはえているようにみえる。それはキャットの翼だった。
「……ラ、ラナ?」
「この霧が悪さをしているのよ。いろんな人のいろんな負の感情が形になっているみたい。その中に、ミカル先生の絶望した感情もあって。けれどミカル先生はそんな自分を救って欲しいとあたしに助けを求めてきたの。
そのことを知ってあたしは現実に戻ってこられた。キャットが光の道しるべになってくれたのよ」
「キャット、君はいったい……?」
ユーリは改めて、白い翼を持つ不思議な生き物を見つめた。
「ユーリ、青の宝珠を出して。宝珠の力でこの場を浄化するのよ」
「それはできないよ」
「あたしがやるから。あたしはすでに罪を犯している。新たな罪を重ねようと大きな違いはないわ。あたしはミカル先生を助けたい。そしてこの場にわだかまっている多くの負の感情を浄化したい。それは負の感情を持ったままこの場に縛られている多くの人たちを救うことになる」
「彼らを救うことが罪となるなら、僕もラナと同じ罪を背負うよ。僕だって、あんな感情に縛られたまま、この場にとどまっている人たちの感情を知ったら、ほっておけないもの」
ユーリは懐から水の宝珠を取り出した。ユーリの手のひらに乗るくらいの宝珠。その宝珠にラナが自分の手を重ねた。
宝珠の力を使うのに、詠唱は必要ない。その願いを宝珠にこめばいいだけなのだから。それでもユーリとラナは一言言葉を発した。
それに連動するように、キャットが白い翼を開く。
「光よ!」
水の宝珠が光り輝く。黒い霧がぱっとユーリたちから離れた。しかし、遠巻きにするだけでその場から離れようとはしない。
霧の中から声が聞こえてきた。
「我らの思いはこんな光ごときで薄れはしない。この世に生きる者たちに我らと同じ絶望感を味あわせてやるのだ」
黒い霧は膨れ上がり、ユーリたちを取り囲んだ。
ユーリとラナは声を合わせた。
「浄化せよ!」
「――希望があるかぎり、絶望はある……」
黒い霧は掻き消えた。
水の宝珠も光をおさめた。ユーリとラナの片手は水の宝珠に添えられたままだ。
「やったの?」
「みたいね」
ほっとしてその場にしゃがみこむユーリとラナ。キャットの翼もみるみる小さくなり、いつものキャットの姿になった。
そんなキャットの様子を目の端にとらえながら、ユーリはキャットのことをあれこれ考えるのを後回しにすることにした。
ともかく今は、ラナも自分も無事で、闇に取り込まれていた人たちを救ったことを祝福したい。
「ミカル先生は救われたかしら」
「救われたよ」
ユーリは確信をこめて頷いた。なんの根拠もないが、心からそう思えた。
「よかったわ……」
ラナは安堵するようにつぶやいた。
「ラナのおかげで助かったよ。いろんな人の負の感情を受けて取り込まれそうになってた」
「ユーリが黒い霧みたいなやつに埋もれたようになっていて、肝が冷えたわ。ユーリが闇の中に消えてしまいそうで必死になって手を握ったの。キャットが力を貸してくれて。ありがとうキャット」
「キャット、ありがとう」
ユーリもキャットに礼を言った。
「キュルン」
得意そうにキャットが鳴く。
「なぜ、あんなものがここに現れたのかしら」
「人々の負の感情同士が終結して、一つの魔物となることがあると聞いたことがあるよ。闇のような霧がそういうものだったんじゃないかな」
説明しながらユーリは心の中で思った。その負の感情の一部はクランシェの人々の思いだったのだろうと。
最初は小さな固まりに過ぎなかったのだろうが、一人一人の負の感情が集まり、あのような魔物を作り上げたのだ。
そして自分の存在を大きくするために、新しい仲間を見つけては自分の側に引っ張り込んでいた。そしてミカルも引っ張り込まれたのだ。
しかし、ミカルはそのことを悔い、助けを求めていた。その助けの声をずっとミカルと生活していたラナは感じ取ったのだ。
ミカルは、自分が取り込まれた闇の中にラナまでも引きずり込もうとしたわけではない。
ラナの言う通り、救いを求めていただけだったのだとユーリは信じた。
そこにちょうど朝日が差し込んできた。いままで黒々と不気味な陰を落としていた枯れ木が朝日を浴びて、その身を白く輝かせる。赤茶色の地面と青白い朝の空と白い太陽の光が今まで見たことのない景色と色を演出していた。
ラナの赤い髪が朝日を浴びて燃えんばかりに赤く輝く。ユーリはそんなラナの髪を見ながら思う。夕日に照らされるラナの髪もきれいだけれど、朝日に照らされる髪もきれいだ、と。
きれいなものはきれい。きたないものはきたないものはきたない。
楽しいことは楽しい。辛いことは辛い。
世の中はいろんな喜怒哀楽にあふれていることをユーリは実感する。
つい今しがた、亡霊たちの怒と哀を、自分のことのように感じたユーリは、あんな思いは、二度とごめんだと思う。
けれど、生きているかぎり、誰でも負の感情を抱くことは必ずあるのだろうとも思うのだ。
「どうして、僕たちは辛い思いをしなくちゃいけいなんだろうね。楽しいことだけがあればいいのに」
ユーリは心からそう思った。
と、突然、水の宝珠が光りだした。
添えていた片手を離し、その場からたちがって、一定の距離をおいて様子を伺う。
宝珠があったところに一人の少女が現れた。背中まである水色のウェーブした髪に、白い薄手の布を見にまとい、腰のあたりを紐で結んでいる。スカートのようになった裾はひざ丈で、かわいらしい膝がのぞている。
少女は愛らしい唇を開いて、大人びた口調で言った。
「それはね、この世界が、あらゆる生き物の感情を食べて動いているからよ」