平穏な日常
目標となる魔物の位置を見定める。
(今日の獲物は……)
気の上から森を見下ろすレイシェルの視線の先に、小型の狼の魔物が三匹。
「よし、いける」
レイシェルは軽やかに下へ飛び降りると、目標まで一目散に駆け抜けて行った。
そして、飛び上がってから魔物目掛けて足を振り下ろす。
ぐしゃっという音と共に即死する魔物。
襲撃に気が付いた魔物が、唸り声を上げてレイシェルへ襲い掛かるも、意味を成さなかった。
レイシェルは残りの二匹を躱すと、お返しとばかりに拳を振り被る。
ぐしゃっ、ぐちゃ。
呆気なく屍となった魔物をレイシェルは満足げに見下ろした。
「わー、相変わらずエグイわ」
などと他人事のように呟いて、よいしょ、と背中にその遺体を背負う。
レイシェルの今日の獲物は、小型の狼の魔物が三匹。
それも、まだ肉が獣臭くない魔物なので運がいいと上機嫌だった。
(とりあえず、今日はこれで足りるかな)
軽い足取りで洋館へと帰って行くレイシェル。
不意に見上げた空は、どこまでも広い。
--レイシェルがこの世界で生きていくと決心してから、およそ一年の月日が過ぎていた。
倒した魔物を食していたら、その過程で魔物の解体が上手くなったり。
洋館を漁って、本のレシピを真似して薬の調合をしてみたり(失敗ばかりで、成功するようになったのは最近の話)
あれから時間が流れるのは早いもので、レイシェルはこの世界に馴染み、安定した生活を送っている。
初めは一人だけで生きていくことに不安しか感じられなかったレイシェルだが、今ではこの生活が楽しくてたまらない。
ずっと、何かしなければならない、といった義務感で生きてきた。
けれど、ここには何も無い。
義務も、仕事も、何もかもが!
本来なら、生きていく上で何かしら人と関わらなければならないだろう。
その度に、レイシェルはいかに自分が無能なのかを知るのだ。
仕事で家で、迷惑を掛けてばかりいる自分は、なんて約立たずなのだろうと。
しかし、此処ならば、誰かに迷惑を掛けることもなく、劣等感に苛まれることもなく、一人だけで生きて行ける。
こんな素晴らしい事が他にあるだろうか?いや、あるわけないとレイシェルは宣言しよう。
まるで、全ての柵から解放されたかのようで、それが少し可笑しかった。
異世界に来たからといって、こんなに変わるのだから。
それに、とレイシェルは小くなった自分の手を見る。
普通に考えて、蹴りを入れたからといってあんな魔物を幼女が簡単に倒せる訳がないのだ。
前の世界では考えられない身体能力。
それを実現するこの身体は、この世界で生きるには必要不可欠だろう。
これも、神様の贈り物だろうか、と思ってしまう程レイシェルには都合が良かった。
いや、ただ単にこの世界の人間の身体能力が馬鹿高いだけなのかもしれない、と思い直す。
しかし、どうせこうやって異世界に来たからには、前の世界では出来なかった事をしなくては勿体ない。
一人、自由を満喫してやろうとレイシェルは心に誓った。
「さて、明日は何しようかな」
そうして、鼻歌混じりに明日の予定を考え始める。
(泉で魚釣り?昨日やったなー。なら狩り、……はしばらく良いか)
あれこれ考えていたレイシェルだが、段々と考えるのが面倒になってしまう。
「あー。もう、明日はずっと寝ててもいいや」
社会人生活を送っていたレイシェルは、それがどれだけ贅沢な事なのか身を持って知っていた。
どうせ仕事も学校も無いのだから、一日中ずっと、際限なく惰眠を貪るのも悪く無いと思ったのである。
「そうと決まればとっとと帰ろっと」
ゆっくりと歩いていた歩調を早め、早足に。
こうしてまた、緩やかに一日が過ぎていくのだった。
森の奥にある、古びた洋館。
その沢山ある部屋の内の一つ、レイシェルが寝室として使用している部屋ではゴチャゴチャと物が散乱し、歩く場所も無い有様だった。
その中心で、レイシェルはかれこれ何時間も一枚の紙と睨めっこしている。
「何で、この先に行けないんだー」
手に持ったペンで、紙の右端をトントンと叩く。
その紙は、レイシェルが此処で過ごしながら分かったことを書き連ねた、森の地図だった。
今までの探索で、この洋館は森の中央に位置し、水源である泉は最北端にあるのが分かっている。
そして南には前に襲われた狼の魔物の縄張り(テリトリー)があり、無闇に立ち入ると魔物の群れに追われる羽目になるのだが。
レイシェルを悩ませているのは、ここ最近探索を始めた森の最東端の事だ。
そこは一帯が深い霧に覆われ、目の前も景色も分からない。
ある意味、この森の一番の難関とも言える場所である。
そこで、レイシェルは木に長い蔓を括りつけて、その先を手に持ちながら進んでみるという作戦を試みた。
そうすることで、同じ場所に戻らず、先へ進めるようにする為だ。
しかし、それは失敗に終わる。
何度繰り返しても、気が付けば蔓を括りつけた木の所へ戻ってしまう。
違う場所から、それこそ東の端という端から試したものの、どれも同じ結果だった。
「何が駄目なのか……」
全てが謎に包まれている未開の地。
それはレイシェルの冒険心を擽るのに十分であったが、全く太刀打ち出来る気配がしない。
(なんか、負けたようで嫌だなー)
少し気分でも切り替えようかともう一度地図に目をやった。
「まだ、西の端まで行ったことなかったか。なら、そっちにしよう」
諦めるのは、本意では無い。
正直、まだまだ粘ってやりたい気持ちの方が遥かに大きい。
しかし、此処でいくら考えても分からないのだから、どうしょうもない事も事実だ。
単なる気分転換だと思えば良いのだ、とレイシェルは自分を納得させる。
思い腰を上げると、散らかした道具をバタバタ片付けていく。
そして、慌しく洋館を飛び出した。
幸い魔物の襲撃もなく、そう時間を掛けずレイシェルは目的の場所に到着する。
レイシェルは不意に、微かな気配を感じ、その方向へ振り返ったままポカンとしてしまう。
「わふ」
レイシェルの前でお座りの姿勢で居るのは、小型の狼の魔物だ。
「また、お前かい……」
レイシェルは、またかと頭を押さえる。
それは前に、レイシェルが南の縄張り(テリトリー)に入り込んでしまった時、縄張り争いを繰り広げていた狼の魔物である。
洋館に置いてある、魔物図鑑には群れを作るマオカミという小型の狼の魔物だと書かれていた。
その戦いは、マオカミには圧倒的に不利だったのである。
何せ、その縄張り争いの相手は、レイシェルが初めて遭遇した大型の狼の魔物で、群れで襲っても力の差は歴然。
マオカミが群れであるのに対して、ジェロングーは一体で群れを蹂躙していたのだ。
あまり、ジェロングーに良い記憶の無いレイシェルは成行きで(食してやろうという気持ちで)横槍を入れる。
あっさりと倒した、ジェロングーの遺体を持ってホクホクした気持ちで帰ったのだが。
(結果的には助けた事になるのかー、うん)
それ以降、森で探索しているとこうしてマオカミが付いてくるようになったのだ。
獲物の献上を受けたり、彼等にボスだと思われてるのかもしれない。
それを受け取るレイシェルの気持ちは複雑なもので、楽で良いなーという気持ちと、本当にそれで良いのかという困惑した気持ちが入り混じっている。
彼等は魔物の中でも頭が良いのだ。
恐らくはレイシェルの言葉を理解し、何か命令するとそれに従う。
子分を従えた自分が堕落していく気がして恐ろしい。
「追い返しても、気が付いたら離れた所に居るんだよねー」
しょうがない、とレイシェルはそのまま一体のマオカミを連れたまま、森を歩き出した。
まだ一度も行ったことの無い場所に入っていく。
それも今までは、最東端の霧に四苦八苦していたからなのだが。
(なんかあったら戻ろう……)
そのまま真っ直ぐ進むと、木の数が少なくなり、明るい場所に出た。
「ん?」
レイシェルは後ろに居たマオカミが居ないのに気づき、後ろを振り返る。
マオカミは警戒するように、頑なにこちらへ来ようとしない。
(この先にあるものを知ってて、それを警戒してる?)
一体何があるのか、益々興味を持ったレイシェルはマオカミを置いてどんどん突き進み、その光景に目を見開いた。
「村だ」
森が切れた先、小さな、けれど確かに一つの村が存在している。
ずっと森で生活していたレイシェルは、森の切れ目に出たことも初めてだ。
よもや、森の先に村が有るなどとは到底。
これはとんだ気晴らしだと高揚した気持ちを抑えるのだった。