現実__01*
翌日、××は早速森の探索に踏み出した。
まずは洋館の周辺をぐるりと一周。
中からでは分からなかったが、外から見ると洋館が年季の入った建物である事がよく分かる。
屋根の紅はすっかりと落ちて茶色に変色し、洋館の壁には亀裂が幾つも入っている。
(築何年だろう?)
数十年は最低でも経っていそうだ。
しかし、今回の目的はそれでは無いと××は頭を切り替える。
一周してみたは良いものの、雑草ばかり生えていて、これといったモノは何も見つからない。
昨日何だかんだと食料探しを断念したが為に、空腹も限界に近かった。
「お腹空いた……」
キュルキュル音を立てるお腹が恨めしいやら。
結局その後も範囲を広めながら探索するも、生物に出会うことも無く、洋館の近辺を見尽くしてしまう。
「もっと範囲を広めないと駄目か……」
不安は尽きないけれど、仕方なく××は腹を括った。
よし、と小さく拳を握ると、探索を再開する。
(早くしないと日が落ちる)
××の頭上には、既に傾き始めた太陽が日暮れまでそう長くない事を知らせているではないか。
焦燥感に駆られるように早足で進んでいた××は、奥まで入り込み過ぎている事を知らないまま進み続ける。
気が付けば、鬱蒼とした高い木々が光を遮り、随分と薄暗い場所まで来てしまっていた。
「……ちょっと奥まで来過ぎたかな」
流石に戻ろう、と××が足を止めた時である。
それがどこからとも無く響いてきたのは。
獣の、それは××の記憶の中の狼に近い呻き声だった。
(まさか、狼?!)
咄嗟に身を隠す場所を探す××だが、木が生い茂るばかりの森は身を隠すのに向きそうにない。狼なら鼻も効くだろう。木の後ろに隠れたところで意味をなすとは思えなかった。
木の上に登ることも頭に過ぎる。しかし凹凸の少ないつるつるの木肌に、この小さな身体では手が枝まで届かず。そして××は木登りが得意ではないのだ。登りきるのは厳しいだろう。
となると足早にこの場を走り抜けるしかなくなる。
だが、追い払うための武器も何も無く。だいたい××の足はそんな速くはない。逃げ切れるとは到底思えなかった。
ああ、つまるところ。絶体絶命。その言葉に尽きるのだ。
思考を振り払うと、××は来た道を戻ろうと走り出した。
直ぐにその背後から遠吠えが響いて、××を恐怖させる。
(食べられる……!)
今まで感じ事もないような、純粋な死への恐怖。
××は我知らず冷や汗が湧き出るのを感じた。
追い掛けてくる気配はもうすぐそこまで迫っている。
獲物を捕らえようとする、捕食者の気配が。
「あっ……!」
フラフラと危うげに走る××は足を段差に引っ掛けてしまい、そのまま地面に転がるように倒れ付してしまった。
「っ……」
起き上がろうと顔を上げた××の目に、大きな狼のような獣が映る。
だがそれは、見たことも無い、××の二十倍はあろう巨体をしているのである。
こんな生物は、日本には、前の世界では存在しなかった。
獲物を見つけて歓喜する瞳は赤い光を揺らめかせ。獰猛な顔は歪に歪み。涎を地面に垂らしながら笑うように高くゥウウウゥウと鳴き声を洩らす。
夕日に伸びた大きな影が、その身体をより大きく見せた。
「……ま、もの……?」
魔物。魔物。
数多くの漫画、ゲーム、小説等で登場するファンタジーの世界において必要不可欠な存在。大半は人に害を為すものとして書かれ、冒険者や主人公に討伐される運命を持っている。魔物の種類により特長は違うものの、ほとんどが並の獣より凶暴でかつ強靭な肉体をしていた。そしてなりより彼らは人をーー喰らう。
××は、凡そ最も最悪なシチュエーションで。此処がよく知る世界とはかけ離れた所なのだと直面することになった。
(怖い……)
常人では太刀打ちできないような化け物が目の前に居る。
それを理解した××の心臓が、バクバクと五月蝿く音を立てた。
狼の姿を模した魔物が近付いてくる。わざとらしくのしのしと音を立てて。
(怖い…………)
硬直した××を、魔物は見下ろした。ギラギラとした赤い瞳が自分を捉えるのを感じて、××の身体は呼吸を忘れたように、息を止めた。
(嫌だ……!)
魔物は××に食らいつこうと大きな口を開けた。楽しむようにゆっくりと。
(嫌だ…………!!)
ぐっと目を閉じた××の手に、コツン、と何かが当たった。
それは、下に落ちていた木の枝。思考する間もなくずらりと並んだ鋭い牙が、目の前まで迫る。
「っ……死にたくない!!」
肺の空気を全て吐き出すように、絞り出した叫びは心の奥底の本音だったに違いない。
身体が死を拒否して。咄嗟に魔物に向かって木の枝を振り払っていた。
ぐちゃり、と。湿ったような音と共に血を吹き出したのは、××ではなく魔物モンスターの方だった。
「え……」
××は何が起きたのか分からず、魔物のことを凝視した。よく見ればその頭部を抉るように、深い傷が出来ている。
手に持った枝から血が流れ落ちた。地面を赤く染めるように広がっていくのを見て呟く。
「……私………?」
思考停止した××は、意味もなく乾いた笑い声をあげるのだった。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
日が完全に暮れて、辺りの風景が暗くジメジメとした雰囲気に変わる頃。
しばらく座り込んだまま放心していた××は、ふと我に返る。ぐううう、などと気の抜けた音を鳴らす腹の虫に、本来の目的を思い出したのだ。
「お腹空いた……」
これを言うのは一体何度目になるだろうか。最後にご飯を食べたのは何時だっただろう?此処に来てからというもの時間の感覚があまり無い。少なからず目が覚めて、自分の身体が幼い少女に変わっていると気が付いたのは昨日だったはずだ。
(でも一日か…)
丸一日食べないだけで、こんなにお腹が空くのだと××は一つ感心する。
ぐるるるるるるっ!
「はぁ……。もはや猛獣の鳴き声じゃない」
なんてそんな事を考えている場合ではない。空腹は耐え難いものになっていくばかりなのだから。
しかし、思いがけない火事場の馬鹿力……というべきか。に驚いて、思考停止してしまっていたのは痛い。
元々日暮れまで時間が無かったというのに、放心していた間に外は真っ暗になってしまった。
これでは当初の目的のように悠長に食料探しなどしてはいられないだろう。
血の臭いを嗅ぎつけて、いつまた新しい魔物に襲われるとも分からないのだ。
流石にもう一度スプラッタな光景を見たくはない。思い出して××は苦い顔をした。
こんな小さな身体の何処にそんな力が有ったというのだろう。改めて見る魔物の死体は無理矢理強い力で叩き切ったような、抉りとったような荒い傷口を晒している。
それもそうだ。剣等、得物を使ったわけではなく、その辺に落ちていた少し大きいだけの木の枝を振り回しただけなのだ。綺麗な切り口であるはずもない。
弱そうな見た目に反して、周りが飛び上がるほどの身体能力の高さを発揮するのも、転生(?)物のお約束的なものだろう。
ただし、死後の世界のような場所で神と出会い、お詫びとして特別に力を与えられたわけでも、死んだ後気付いたら赤ん坊に転生して、2度目の人生を新しい家族の中で送るわけでもなく、森で一人放り出された現状ではあるが。
「こう、色々と不親切過ぎるよね。何も説明も無いし。説明役の人が居ても良くないかな。この世界がそもそもどんな所なのかも、何一つ分かってないんだけど……」
××は独り言ちる。そうでもしないとやってられないのだ。
ないない尽くしのこの状況。拠点になりそうなのはあの屋敷くらいで、いつ電気(なのか分からないが)が切れるか分からない。水も水道らしき物から出るかもしれないが、いつまでも出るか保証も無いのだ。ならば水も探さなくてはならないだろう。
ああ、本当に。2度目の人生(?)はサバイバルからなんて酷い差別だ。
それになりよりは、食料問題が深刻である。
××にサバイバル知識なんてありはしない。まあ、あったところで此処は異世界であるし、あまり役に立たなかったかもしれないが、無いよりはマシだろう。
(もう、食べれたら何でもいい。何でも良いから何か
……)
空腹のあまり虚な目で周りを見回した時、それが目に留まる。
先程倒した魔物の死体。
(魔物と言っても肉であることに変わりはない、よね。ようは肉は肉だし。焼けば--)
「…………って。いやいやいやいや! 」
自分の思考に驚いて、××はぶんぶんと頭を振った。追い詰められているとはいえ、流石にそれはない、と。
「……でも、どのみち食べられる物が分からないなら、食べてみるしかないよね」
比較的安全そうな木の実を見つけても、それが安全かどうか。魚を捕まえても、毒が有るのか否か。何の知識も無いのだ。何れ通らなくてはならない道なのではないだろうか。
チラ、ともう一度死体を見た。倒してからそのまま放置してあるので、何ら変わることは無い。特に虫が集っている様子も無いので××は少し安心する。
「焼けば……食べれるかな。多分。…………大丈夫だよね、うん大丈夫」
後ろ向きな××にしては、前向きに決めてしまう。いや、ただ単に空腹に負けてしまっただけかもしれないが、かくしてサバイバル生活の幕を開けることとなった。