Episode19
社長室に見知らぬ女がやって来た。入ってきたというより、突然現れた。
女は仕事机に腰を落とし、こちらに怪しげな笑みを送った。不格好な服装とは反対に、容貌は妖艶な雰囲気を放っている。ボサボサの髪が、不気味さを引き立てている。
夢でも見ているのだろうか――女社長は、試しに自分の頬をつねってみた。痛い。どうやら、現実らしい。
「誰よ、あなた」
上擦った声で訊ねる。
あまりに不可解な登場をされたので、緊張しない方がおかしかった。おまけに、相手は包丁を持っている。何をされるか分かったもじゃない。
女は、手持ちの包丁をゆらゆら玩具みたいに弄びながら、貼り付けた笑みを崩さなかった。ニコニコしながら口を開く。
「なに、通りすがりの怨霊ですよ」
怨霊? 不穏な言葉だ、と女社長は訝る。ますます、怪しさが募っていく。
「怨霊?」
訊き返す。幽霊の類が、自分の目で見れるとは思えない。
「そうです。あんまり力が強いので、一般の方でも見ることができるのですよ」
女――怨霊は嘯く。
確かに、あまり人間味は感じられないかもしれない、とは思う。
こちらから話を切り出す。
「それで、あなた、ここへ何しに来たの?」
「ええ、それはですね」
怨霊は、「何と言えばいいのか……」と少し言い淀む素振りを見せた。いかにも、わざとらしい。
「本当は誰でもよかったのですが、丁度、あなたがぴったりだと思って」
どういう意味だろう。怨霊の言葉には含みがあった。
「私、あなたに刺し殺されるのかしら」
なにしろ、相手は包丁を持っているのだ。怨霊というからには、人間に何らかの恨みがあっても不思議じゃない。
「いいえ、違いますよ」
怨霊は笑う。
「あなたが刺し殺すんです」
――は?
困惑する。
やっぱり、これは出来の悪い夢のような気がしてきた。でなければ、仕事の疲れのせいで幻覚を見ている。
背筋に悪寒が走る。
急に体温が奪われていく気がして、女社長はぞっとした。異様な状況に陥っている。
逃げ出そうとして、いつの間にか体が動かなくなっていることに気づく。これは、金縛り……なのだろうか。声も出ない。
「連続通り魔事件って、聞いたことあります?」
言いながら、怨霊が近づいてくる。
女社長は、その場に立ち尽くしたまま、声を上げることも出来ない。
――誰か、助けて。
脳裏に、先程出ていった金沢と石井の顔が浮かぶ。
耳元で怨霊が囁く。
「あなたは、今から、殺人鬼になるのですよ」
社長室を後にして、石井がトイレへ行っている間、金沢は外へ出て一服することにした。女社長に叱られて気分が落ち込んでしまったので、少年の捜索を再開する前に、ひとまずリフレッシュしておきたい。
人気のない路地を選んで、金沢は胸ポケットからタバコを取り出す。
日陰に入り、煙を吹かせながら、金沢はぼんやり考える――この暑さの中、あとどれだけ町を歩き回ることになるのだろう。
ここ数日、うだるような暑さが四六時中続いている。このまま石井と少年を探していたら、その内、二人の体が先に保たなくなるかもしれない。
まったく、なんて重労働だ、と金沢は内心毒づくが、気難しい女社長の言葉に逆らう気にもなれない。彼女の意気地が折れるまでは、当分、我慢するしかなさそうだった。
ふぅ、とため息混じりの煙を吐き出す。
建物の壁にしばらくもたれていると、離れた場所から足音が近づいてきた。
石井だろうか――金沢は音のする方へ振り向いたが、違った。
やって来たのは、レインコートを羽織った、華奢な人物だった。フードで顔は隠れているが、体つきから、おそらく女性だろうと判断できる。
見るからに不審な格好だ。この真夏日に、レインコート?
金沢が呆然としている間に、その不審者はどんどん距離を詰めてくる。
人気のない場所に、レインコートの謎の人物……。
急に嫌な予感がせり上がった。通り魔の噂は、金沢でも聞いたことくらいはある。
慌てて逃げ出そうとしたが、
「――あ」
先に伸びた不審者の手が、金沢の脇腹に包丁を突き刺した。ズブッ、と刃物が肉に食い込んで、一気に引き抜かれる。傷口から、鮮血が吹き出す。
驚きと激痛で金沢が腹を抱え、うずくまっている間に、不審者は何も言わず走り去っていった。なんというか、手当たり次第、という感じがした。
腹部から出血が止まらない。あっという間に、スーツが赤く染みていく。
視界が徐々にぼやけてきたので、金沢はなんとか携帯で電話番号を発信した。切羽詰まっていたせいで、救急車ではなく、なぜか石井に連絡してしまう。
なかなか繋がらない。
……石井のやつ、まだトイレに入っているのか?
早く出てくれ、と金沢は祈るように低いうめき声を漏らす。そうでないと、本当に、死んでしまう。