第35話 別れ
今回で、ひと区切りといったところです。
読んでくださっている方々に、感謝申し上げます。
リヴィオの屋敷にて、豪勢な、といっても庶民が飯屋で贅沢をした、といったくらいの夕食で、無事に戻ったお祝いをした後、借り受けている自室に戻った俺は、ベッドに寝転がり天井を仰ぎ見ていた。
やはり、エステルのことが気になる。心配だ。
いくら気を付けていても、どうしようもできないことが起きてしまえば、それで死んでしまったり、大怪我をしてしまったりするかも知れない。
今回の、ブランワーグや複数のメデューサがいた上、魔石を取り込んだメデューサがいたようなことは滅多に起こることではないとしても、橋を落とされたようなことはどうなんだ? あれも稀なことなんだろうか……。でも、稀なことでも一度でもあったら死んでしまうかも知れないのだ。そんなことを言っていたら、冒険者なんか勤まらないのかも知れないが……。
「ああっ、くそっ!」
治まらない気持ちに苛立ちながら、寝返りを打ち、落ち着かず、すぐに反対向きにまた寝返りを打つ。
その夜は悶々として、いつまでも寝付けずにいた。深夜、外の空気を吸いたくなって、窓を開けて暫くすると、小さくドアをノックする音が聞こえた。
「どうぞ……?」
ドアが開き、手に持ったランプのぼんやりとした明かりに照らされた、淡い青色のネグリジェ姿のリヴィオが現れた。
胸の谷間が見え、肌が透けて見える部分もある。それが、ぼんやりとした明かりと相まって、とても魅力的に映った。
「すまない、こんな時間に……。窓を開ける音がしたから、起きているのかと思ってな」
「リヴィオも起きてたのか」
「ああ……」
リヴィオはコトリ、とテーブルの上にランプを置き、セットになっている椅子には座らずに、ベッドに腰掛けている俺の隣に座った。
「エステルのことが心配で、もやもやしてしまってな……」
「リヴィオもか」
「ロゴーもそうなのかもと思っていたぞ」
視線の合ったリヴィオが、優しい微笑みを浮かべた後、俯く。
「私には、恥ずかしながら友人と呼べる者がいなかったんだ……。だが、エステルは私にとって初めての友人といっていいのではないかと、そう思うのだ……」
「ああ。俺もそう思うよ」
「そうか? ……そうか…………」
嬉しそうな顔を上げた後、悲しげな表情をして、再びリヴィオは俯いた。
「どうにかして、引き止めたかったが……」
「そうだな……」
「ロゴーに襲わせようかとまで、考えたのだがな……」
「襲わせ……って、ええっ!? そ、それって、そういう意味で?」
「ああ」
「そ、それで、引き止めることができるのか……?」
「あ、いや、すまない。それでも無理と……」
「そ、そうか…………」
「ロ、ロゴーに魅力がないわけではないぞっ。だが、エステルは兄と約100年も一緒だったのだ。その家族愛の前では仕方のないことだぞっ」
「あ、ああ。うん……」
慰められてしまった。でも俺も、それでも無理なのは理解できるよ。それに、魅力がないわけじゃないとリヴィオに言われて嬉しい気持ちもある。
だけど、エステルを引き止めるのは、やはり無理そうだな……。
「なぁリヴィオ、正直に話して欲しいんだけど……いいか?」
「うん? なんだ?」
俺は、結婚を破談にしたリヴィオが酷い目に遭ってしまうのではないかという不安を打ち明けた。リヴィオは驚いた顔をした後、複雑そうな顔をして聞いていた。
「そんなことを考えていたのか……。これは、誠意を持って応えねばな……。正直に言うが、襲われたりする可能性がないわけじゃあない。だが、大丈夫だ」
「ルーシアさんもいるからか?」
「そうではない。ガラード・フールバレイは、恐らく私を妻に迎えることなど、触れ回ってはいない。返事も保留にしたしな。ならば、私がそのことを触れ回らなければ、体面は守られる。断る際にも本人へ直接伝えるか手紙にすれば、事情を知る身内にもフッてやったと体裁も繕うこともできよう」
「そ、そうか……」
「問題は、プライドが高く破談にした私を許さないという場合だが……。なぁに、何か危害を加えてくるようなら、今回の件を含めて第三者が噂を立てると伝えておけばいいさ。ついでに、私が貴族でなくなってしまうのもそのせいではないか、などとも噂されるかも知れないと言っておけば、面倒事を避けるために、平民に落ちる私など放っておくだろう。策略によって、貴族を平民に貶める行為は重罪だからな。フールバレイ家はこのアグレイン国においてもっとも力のある家だが、それ故、敵も多い。そんな噂が立つのは避けるだろう」
意地の悪そうな、それでいて悲しそうな表情で、白い歯を見せるリヴィオ。
「そっか、なら、平気か……」
「ああ……。……行くのか?」
「ホントにリヴィオには、お見通しだな。ああ、行くことにしたよ」
「……そうか……」
立ち上がろうとした俺の頭を、リヴィオの両手が掴んできた。とても悲しそうな表情をしていて、俺は驚きに目を見張った。
「寂しくなるな……」
俺の頭をゆっくりと引き寄せながら、リヴィオは身を乗り出し、お互いの額をそっとくっつけて、そう呟いた。
「俺もだ……。今までありがとうな、リヴィオ」
「いつでも、帰ってきていいからな。困ったことがあったら、頼ってくれて、いいからな……」
そう言うと、リヴィオは額を話して後ろを向いた。手で、頬を拭っているようだった。
翌日。
リヴィオの話だと、エステルはまず隣のレンヴァント国の噂話を確かめに行くらしい。女の一人旅は危険だから乗合馬車を使うだろうということなので、一日一回、早朝に出発するそれを待っていれば会えるだろうと教わり、乗り場で待っていた。
幸い、俺も戦場からこの都市へ来る際に一度通ったことのある街道だから、ひとりで来れた。メイドのふたりが起きる前に発ったので、リヴィオ以外にお別れは言えなかった。
待っている間、暇に飽かして色んなことを考えた。
リヴィオの顔を思い出して、胸が傷んだ。あんなに悲しい顔をするとは思わなかった。
次にここに戻ってこれるのは、いつになるんだろう……。そもそも、戻ってこれるのだろうか……。それでも、俺はエステルを放っておけない。
最近は、兄を助けられずに涙するエステルばかりが頭に浮かんでいたが、不意にブランワーグたちと戦った後、膝枕をしてくれていた涙目の笑顔のエステルの顔が浮かんできた。それから、真剣な表情や困った顔のエステルなど、様々な場面での彼女を思い出した。明るくて可愛い、魅力的な女の子だ。その彼女に暗い影が落ちてしまったことを思うと、どうにかしてやりたいと思わずにはいられなかった。
そういえば、リヴィオがエステルを俺に襲わせるって言ってたな……。それって、エステルは俺に気があるってことなのか? そうじゃなきゃ、襲わせるのならイケメンディアスのほうがいいしなぁ……。
そんな風に思いを巡らせていると、遠くから歩いてくる金色の髪の耳の長い女の子が見えた。エステルだ。
「あれっ。ゴロー!?」
「おはよう、エステル」
「お、おはよう。どうしたの? 見送りに来てく……」
エステルの視線が俺の旅の荷物を捉え、言葉を詰まらせた。
「俺も行くよ、エステル」
「……」
「俺も――」
「だめっ!」
その叫び声に、今度は俺が言葉を詰まらせた。
だが俺は、自分の意志を再び言葉にする。
「連れていってくれ」
「…………。ありがとう、ゴロー。すっごく嬉しい。嬉しいよ……。でも、ダメだよ。こんな旅に、誰かを連れていくなんてできない」
「覚悟の上だ」
しかし、エステルは首を横に振った。
「放っとけないんだ。独りで行かせるなんて、心配で、心配で……」
「……ありがとう……。でもね、わたしは、多分ずっとお兄ちゃんを治す方法を探し続けると思う。わたしの人生を賭けて……。エルフの寿命は知ってる?」
「いや……」
「約700年だよ。付いてきて貰っても、100年で見つからなければゴローは死んじゃうでしょ? そんな旅に、連れてはいけないよ」
「…………」
「わかってると思うけど、危険なところにも行くと思う。もっと若くして死んじゃうかも知れないよ」
俺は、望んでいた部分があった。エステルは兄を失った悲しみで、居ても立ってもいられなくなってこんな行動に出ているけれど、そのうちに落ち着いてきて、やめてくれたらいいと。
もしかしたらまだ、後で彼女の考えが変わるかもと思っているけど、例え、そうはならなくても……。
「でもさ、ふたりで旅をすれば、大変かも知れないけどそれなりに楽しそうだなって思ってさ……。それに、知らない世界を旅して回るのも悪くないって思うしさ。だからさ、一緒に――」
そこで、エステルが駆けてきて俺の左頬にキスをした。柔らかな唇の感触と、突然のキスという驚くべき行為に、俺は時間の間隔がよくわからなくなっていたが、長いくちづけだった。
俺の肩に手をかけ、爪先を伸ばしていた彼女は、やがてそっと唇を離し、ぼんやりとする俺にこう言った。
「ありがとう。だけど、独りで行きます」
俺はそれ以上、説得することができなかった。何を言っても、無駄だろうと思った。
「そうか……」と言ったきり立ち尽くす俺に、エステルは「ずっと居られると、わたし乗合馬車に乗れないよー」と言いながら苦笑した。無理やり付いてくるのを警戒しているのだろう。
「わかったよ……。元気で……」
別れの言葉を絞り出し、俺はその場を立ち去った。
また、会える日が来るだろうか……。
エステルは約100年、兄とともに過ごしてきたという。俺にも妹がいるが、もし俺がエステルと同じ立場だったら、ともに約100年過ごしてきた妹への想いは、どんなものだろうか……。想像したところで人それぞれで、エステルの想いとは違うのだが、きっと俺でも彼女と同じことをするのだろうと思った。700年もの一生を賭けられるかはわからないが……。




