第7話 はじまり
目を開けると、まだ辺りは赤く染まっていた。一瞬、まだあの場にいるのかと錯覚したが、違った。
耕平は、ベッドの上にうつ伏せに寝転がっていた。
本棚には漫画とブルーレイが並び、机の上には鉛筆が転がっている。アテネの手に渡ってしまった提出用紙は、この場にはない。
着ている服も、勇者のような赤いマントでもなければ、神仏のような着物でもなかった。黒いブレザーに、黒いズボン。
耕平は、帰って来たのだ。
実際に旅をしていた期間はほんの数か月程度のはずなのに、耕平はこの部屋で頭を悩ませていたのがずいぶん昔の事のように感じられた。
「……よし」
耕平は机に向かうと、スケッチブックを広げ、鉛筆を手に取った。
「柴田ーっ。飲み物、何かいる?」
クラスメイトの声に、耕平は顔を上げる。
地面には大きなベニヤ板。手にはペンキの付いたハケ。文化祭に向けた看板を描いているところだった。
「……お、おはよう」
世界を元に戻した翌朝、昇降口で学級委員の男子生徒を見つけた耕平は、上ずった声で呼びかけた。
男子生徒は振り返り、少し驚いた顔をしながらも、さわやかに微笑み、「おはよう」と返した。
耕平はホッと息をつく。まずは第一関門、突破。優等生の彼ならば、驚きはしても変にからかったり無視したりすることはないだろうと想定していた。
「あ……あのさ、昨日の、文化祭の看板デザインの事なんだけど……」
「ん……ああ、そっか。昨日か。ごめん、なんか昨日の夜に電車で寝落ちしてから、ちょっとボーっとしてて。昨日の夕方以前の事が、もっと前の事のように感じられるんだ。おかしいよね」
耕平は何と返して良いかわからず、あいまいに笑う。
電気も、人の記憶も、何もかも皆同時に止まりそして創り変えられていたのだから、暦上はあの日から動いていない。太陽の原理が変わっていた辺り地球の仕組みまでも変わっていたようだから、季節のズレも生じなかった。
それでも実際、違和感を覚える人はいるようだ。
「それで、文化祭デザインの事だよね。何だい?」
「あ、うん。俺、生徒会に提出する紙、なくしちゃって……ごめん。またもらう事ってできるかな」
「なんだ、そんな事か。大丈夫だと思うよ。予備が残ってるのが見えたから。後でもらって来るよ。じゃあ――」
「あ、あと、もう一個!」
去ろうとした彼を呼び止め、耕平は続ける。
「看板のデザインだけどさ……俺だけに任されたけど、やっぱ、大切な事だし、皆の意見も聞いた方がいいと思うんだ。どんな感じのがいいか……」
「あ、そっか……ごめんね。柴田くん一人に押し付けるような形になってしまって。もし嫌だったら、無理しなくてもいいよ?」
「あ、ううん! そうじゃなくて。本当に、意見を集めたいだけなんだ。一応、何パターンかは描いてきたんだけど……俺、皆に聞くのってどうしていいか分からないから、えーっと……」
耕平は素早く彼の胸元を見る。幸い、優等生の彼は、学校到着と共にきちんと名札を胸に付けていた。
「……市井君から皆に振ってもらえないかなって……」
「うん、いいよ。ホームルームの時でもいいかな?」
市井は耕平が名前に詰まった事にも突っ込まず、快く承諾してくれた。
耕平は、こくんと首を縦に振った。
あれから、数週間。
ティアナも、イリサも、セレーネも、誰もそれらしき人とは再会できていない。
休み時間や放課後になると学校中を歩き回ってみたが、分かったのは、どうやらこの学校の生徒ではないらしいと言うことだけだった。やがて文化祭準備が本格的に始まり、耕平も彼女達の面影を探すのをやめてしまった。
最初こそ、面倒な奴だと思われないか、絵をからかわれたりしないかと身構えたが、実際はあっけないものだった。
皆、耕平が描いてきたラフを中心にあれこれと意見を出し、再び耕平が下地を描いて、看板のデザインは決定した。さらには、看板制作にも名乗りを上げてくれる者達がいた。
もちろん、部活が忙しかったり、ただ単純に面倒くさがったりして、参加しない生徒もいる。それは仕方ない事だし、そう言う生徒には部活の繋がりを利用したチラシ配りなど、言い訳の立たない役割を上手い事市井が割り振っていた。
「え……いいよ、そんな。パシリみたいな事……」
「なに、なに? 谷川が、柴田のパシリだって?」
お調子者の男子生徒が、茶々を入れる。
それを無視して、谷川は言った。
「遠慮すんなって。手が空いたから、皆の分を買いに行くんだよ。もちろん、金は後で徴集するし。本当にいらないならいいけど」
「よっ、皆のパシリ、谷川!」
しつこく茶々を入れる男子生徒は、谷川に足蹴にされる。
耕平は、ぐるりと辺りを見回す。
校舎裏で、耕平達は看板の一枚を制作していた。友達がいるからとなぜか混ざっている他のクラスの生徒も含め、十人近くいる。
一人で持ってくるのは厳しいだろう。
「それじゃ、俺も一緒に行くよ。一人じゃ大変だろうし……」
「いや、柴田が離れたら困るだろ」
「柴田ーっ。こっちの方、見に来られる? ちょっと描くの難しいところがあって……」
校舎の角から、ひょこっとバッチリ化粧をした顔が現われる。
耕平を看板の担当に指名した、あのギャル子だった。
「ほら」
谷川は、ギャル子の方をアゴで示す。
「あ、じゃあ、俺のはいいよ。どっちいるか分からないし」
「分かった」
「おう、谷川。焼きそばパン買って来いよ」
まだ絡む男子生徒を、谷川はじとっとした視線で睨む。
「そんなに言ってるとお前、本当に買って来るからな? あれ、案外高いぞ」
「高いって、百二十か三十程度だろ。カレーやラーメンより安いじゃん」
「毎日そんなに使ってみろよ、あっと言う間に金なくなるぞ」
「お前、小遣いいくらだよ」
ギャル子と共にその場を立ち去り、谷川の小遣いがいくらなのか聞く事はできなかった。
「えっと、そっちって、どこでやってるんだっけ?」
「武道場の横だよ。背景で、ぐねぐねしてる部分あるでしょ? 波みたいな奴。あれ、どう塗ればいいのか分からなくて……」
「ああ、あの部分か……」
「でも、良かった! 柴田が引き受けてくれて。美術室の壁にさ、柴田の描いた絵も飾ってあるでしょ? あと、休み時間もいつも何か描いてるじゃない? チラッと見えた事あるんだけど、美術室の方の絵とは全然違って、色々描けてスゴイなって思ってたんだ」
み、見られてた!
耕平の顔を、冷や汗が流れる。
美術室の方はともかく、休み時間の落書きは見られた絵によっては死亡ものだ。
「美術室のは、写真みたいで、きれいでさ。でも休み時間に描いてるのは、アニメみたいな絵柄で、すごく可愛くて。文化祭の看板の話になった時、柴田が描いたのを見たいって思ったんだ」
「あ、ありがとう……」
この反応という事は、見られても問題ないようなイラストだったようだ。今後は、学校での落書きは描くものを考えようと、耕平は心に誓う。
「ギャ……えーっと……」
思わずギャル子と言いかけ、耕平は言葉に詰まる。
彼女は名札を付けていなかった。
「ギャ?」
「え、あ、いや、何でも。その、ごめん……名前……」
「ええっ!? 覚えてないの? もう、九月だよ!?」
「ご、ごめんなさい……!」
耕平は平身低頭で謝り倒す。ギャル子はため息をついた後、言った。
「香月真里奈。しっかり、覚える事!」
「は、はい」
耕平は、ガクガクとうなずく。
「でも、ある意味すごいよねぇ……クラスメイトの名前なんて、話してる内に自然と覚えるでしょ?」
「あまり、誰かと話す事なかったから……こ、これからは頑張るよ」
「じゃあ、文化祭までの宿題ね! クラスメイト全員の名前を覚える事!」
「ええっ!? 文化祭って、今週末だよ!? それまでに四十人全員!? せめて、今月中に……!」
「ダーメ! 文化祭の打ち上げでテストね。覚えてなかったら罰ゲームあるから」
「ええー……そんな、一方的な……」
「じゃ、逆に全員正解したら、私が何でも言うこと聞いてあげる!」
「それ、絶対ムリだと思って言ってるだろ……」
「ひひっ」
ギャル子、もとい香月は白い歯を見せて笑う。
ふと、耕平は気が付いた。
文化祭の打ち上げで、テスト。彼女は当たり前のように、耕平も打ち上げに参加する事を前提としていた。
(変われるもんだなあ……)
クラスメイトと言葉を交わして、毎日放課後は皆で絵を描いて。
少し前の耕平には、こんな日が来るなんて想像もつかなかっただろう。
武道場の前で、耕平はふと足を止めた。
中からは威勢の良い掛け声と、踏み込む足音、竹刀の当たるパァンと言う乾いた音が響く。いつものまばらな音ではない。開きっぱなしにされた扉から見えた道場内にいる生徒も、いつもより多かった。
「ああ、剣道部、練習試合やってるんだ」
耕平の視線の先を追い、香月が言った。
「ほら、あれ、紅女の子たちよ」
弁財と垂れ布に書かれた生徒が、耕平たちの学校の生徒に猛攻撃を仕掛けていた。
息つく間も与えず繰り出される突き。相手も防戦の合間に竹刀を繰り出すが、下がる事をせずにひらりひらりとそれらをかわす。相手の竹刀をすりぬけた一撃が、胴に入った。
「一本!」
互いに礼をして、試合をしていた生徒達は仲間の列に戻る。
「マキ、もうちょっと引くことも考えなよー」
「当たらなければ、どうという事はないっ!」
おどけるように言う女の子の声に、耕平は目を見開く。
ちょうど休憩に入ったらしく、生徒達は思い思いに散会する。水筒の中身がなくなったらしい少女は、反対側の扉から武道場を出て行った。
「ごめん、香月さん! 先に行ってて! すぐ戻るから!」
叫び、耕平は駆け出す。
水道の所に、彼女はいた。
首からタオルをかけ、顔を洗う姿。長い栗色の髪は、高い位置で一つに結ばれている。
「……ティアナ?」
恐る恐る、耕平は声を掛ける。
少女は振り返った。
ハシバミ色の大きな瞳が、丸く見開かれる。
魔法も、チートも、神の力もない、新しい物語が始まろうとしていた。
-Fin-




