第5話 退屈な日常
「柴田」
教師の厳しい声が飛ぶ。耕平は肩をすくめた。
「眠るほど、授業が退屈か。それじゃ、下にある練習問題の答えは」
「え……えっと……」
耕平はあわあわと教科書をめくり、黒板を見る。
「黒板を見たって、何も書いてないぞ」
遠慮のない笑い声が教室に響く。
耕平は、この場から消えてしまいたかった。
「話を聞いていないからそうなるんだ。夜更かしも大概にしろよ。じゃあ、代わりに委員長」
「はい」
学級委員の男子生徒が、教師からチョークを受け取り、スラスラと数式を書いていく。
「ほら、周りの人にどこをやってるか聞かないと分からないだろう」
教師はまだ、耕平を睨んでいた。
それくらい、わざわざ誰かに聞かなくたって、黒板に書かれた式を見ればおおよその見当がつく。
耕平は頑なに、教科書をめくり続けていた。
授業終了のチャイムが鳴る。教師は耕平を前へと呼び出し、次の授業で最初に指名するから単元のまとめ問題を解いてくるようにと言いつけた。
クラスメイト達は、机を動かしたり売店へダッシュしたりと、お昼ご飯の準備をしている。耕平はのそのそと席に戻り、鞄の中から潰れかけのパンを取り出す。
食べ終わったら、机に突っ伏して残りの時間を過ごす。
眠気なんてこれっぽっちもないが、他にする事もない。
昼休みは立ち歩く人が多過ぎて、絵を描くには向かない。誰も耕平が何を描いているかなんて気にしていないだろうが、それでも誰かに見られる可能性があるのは嫌だった。
「柴田のやつ、また寝てるよ」
「伴野の授業で寝るなんて、勇者だよな」
ほっといてくれ……!
聞こえて来たクラスメイトの会話に、心の中で返す。
何が勇者なものか。耕平だって、いつもならあの教師の授業で眠ったりしない。それなのに、今日はどうして……。
『皆、コーヘイが勇者だから好きなわけじゃない』
ふと脳裏に浮かんだ声に、耕平は顔を上げる。
しかしもちろん、誰も耕平に話しかけてなんかいない。そもそも、耕平を下の名前で呼ぶのなんて親ぐらいしかいない。
『優しくて、一生懸命で……そんなコーヘイだから、皆、大好きなんだよ』
『あなたの生き方は、勇者様そのものです』
聞き覚えのない声。
居眠りしていた時に、長い夢を見た気がする。その内容だろうか。
今となってはもう、どんな夢を見ていたかさっぱり思い出せなかった。
退屈な授業を終え、耕平はそそくさと鞄を持って教室を出る。クラスメイト達がワイワイと話す教室よりも、一人一人それぞれ自分の世界に没頭している部活の方が、ずっと居心地が良かった。
階段を一つ上がって、一番奥に美術室はある。
その手前は生徒会室で、ほとんどの場合は無人だった。これから文化祭が近付いてくると、ここも夜まで明かりがつくようになるのだろう。
何の気なしに、生徒会室の方へと目をやる。
廊下に沿った壁の掲示板には、文化祭のポスターが貼られていた。
「ん……あれ……?」
ポスターの前で、耕平は足を止める。
何だろう。
何か大切な事を忘れている気がする。
ぽっかりと心に穴が開いたような、空虚な感覚。
しかしその穴が何なのか、思い出せない。
「文化祭……文化祭……ポスター……案内……、看板……!」
文化祭看板デザイン案。
くしゃくしゃに丸めた二枚の紙。
そうだ。耕平は、看板の作成を任された。
この学校では廊下とベランダ、二か所に大きな看板を掲げるのが通例となっていて、事前に生徒会へデザイン案を提出しなければならない。確か、その紙を耕平はくしゃくしゃに丸めてしまったのだ。
「て、提出っていつだっけ?」
いや、違う。そんな事じゃない。もっと、大きな……。
脳裏に浮かんだのは、廃墟の街。
大グモの巣と化していた新宿駅西口ロータリー。
一人の少女の涙。
森の中の家。
魔物との戦い。
同心円状に広がる世界。
池に沈んだ祠。
教会に舞う血しぶき。
黒い羽根。
「思い……出した……!」
耕平は叫ぶ。
廊下を行きかう教師や生徒の視線なんて、気にならなかった。
「ティアナ! イリサ! どこにいるんだ!?」
大声で呼び、廊下を駆け回る。
耕平の意識の覚醒によってか、ついさっきまで廊下を歩いていたはずの教師や生徒は誰一人いなくなり、校舎はしんと静まり返っていた。
――いや、違う。ここは、学校じゃない。
耕平は、教会にいたのだ。
あの悪魔に転移魔法が使える可能性もゼロではないが、転移魔法でこの世界に戻す事はできない。あの世界は、この世界と同じ場所にあるもの。世界は転生したのだから。
耕平がこの世界に捕らわれる直前に、彼女は耕平の記憶を見たかのような事を言っていた。
耕平は、世界の転生についてティアナやイリサにも話していない。耕平の思い描く内容がアニメを参考にしている事も、誰にも言っていない。あの悪魔は、人の心――彼女自身の言葉を使うなら、人の記憶を読み取る事ができるのだろう。
この学校は、耕平の記憶の中の存在だ。耕平の記憶を読み取った悪魔が、幻覚として見せているに過ぎない。
「精神攻撃は基本……ってか」
あの悪魔のことだ。見せているのは、各々にとっての最低の記憶だろう。
「ティアナ! イリサ! 目を覚ませ! これは、夢だ! 幻覚だ! 悪魔の企みに飲まれるな!」
辺りの景色が揺れる。白い壁が薄れ、窓の外から差し込む陽の光が失せる。
闇の中に、耕平は立っていた。
「ティアナ! イリサ!」
耕平は、闇へと両腕を伸ばす。
霧におおわれた森の中、あるいは燃え盛る村。そこに伸ばされる自分の腕を頭の中に思い描きながら。
それぞれの手が、ぎゅっと握られる。
耕平は、強く両腕を引いた。闇の中へと現れる、二人の少女。
「コーヘイ!」
「勇者様!」
イリサが、ぎゅっと耕平にしがみつく。
よほど怖い思いをしたのだろう。その身体は、小さく震えていた。
「もう大丈夫だよ」
「……また、助けられちゃったね。ありがとう、コーヘイ。でも、ここは? 教会じゃないの?」
ティアナはキョトンと、暗闇を見回す。
「それぞれの悪夢は見破る事で消え去ったけど、たぶんまだあの悪魔の幻影の中なんだ。気をつけろ。どこから仕掛けて来るか分からない」
「その通り!」
弾むような明るい声がする。
そして、突如として闇の中に現れた槍が、イリサと耕平を貫いた。
「あ……」
「ぐふっ……」
イリサを抱きかかえたまま、耕平はその場に崩れ落ちる。
「コーヘイ! イリサ!」
腹に広がる鋭い痛み。あまりの衝撃に、意識が朦朧として来る。
「い、いやだ……! 二人とも、死んじゃやだよ……!」
ティアナの震える声が聞こえる。そして、剣を抜く音。
「どこよ……! 隠れてないで、出て来なさいよ……!」
暗闇の中、ティアナは手当たり次第剣を振り回す。しかしどこかに悪魔が隠れていると言う事もなく、剣はただ、空を切るばかり。
何の前触れもなく、剣を振るっていたティアナの右腕が吹き飛んだ。




