三大噺 タイル、甘いもの、助手
彼は、ぼくのことをワトソンと呼ぶ。それはぼくの本名ではない。でも、彼は、いつもワトソンと言うのだ。何度言っても、それは変わらない。
「ワトソン、今日の予定は?」
もう、本名で呼ばせるのは諦めた。何度訂正しても、口を開いてぼくを呼ぶときは決まって「ワトソン」と言う。
少しの間、だんまりでいた僕を怪訝そうににらむ。年はぎりぎり二十、手入れしていない髪はぼさぼさで、ときどき欠伸する。
「黙ってたらわからないよ」
「今日は、資金援助して下さってるイオリさんが午後に来るそうです」
「そう。ほかには」
「何もありません。あ、先ほどセシルさんから電話がありました」
「なんて言ってた?」
「研究がこれ以上滞るなら資金援助は断つと脅しておくよう伝言されました」
「ああ、そう。いつものことだ」
彼はふっと笑って脅迫を一蹴した。
「いいのですか、セシルさんには多額の援助を頂いている身、あまり軽くあしらわない方が」
「大丈夫だよ。あれは彼なりの激励なんだ。……私の助手に任命されてからもうかれこれ一年経つけど、まだ慣れない? 彼の激励」
「まともな神経を持っていたら、慣れっこありません」
この人は、わけのわからないことを研究している。踏んだらゲームオーバーのBGMが流れる地雷とか、引き金を引いたら猫の鳴き声がする拳銃とか、落としたら季節に合わせた花が散る投下型爆弾とか、とにかくわけがわからない。しかも、そういった呆れたくなる発明品はすべて、祖国の敵国の兵器としてこっそり流している。祖国の武器はそのままだ。もしも、の時のために、相手の戦力をそぎ落としておくという寸法だ。
「ねえねえ、ワトソン」
机の上に散らばっている設計図をかき集め、彼はぼくに声をかける。その顔には、いたずらを思いついた子供のようなたくらむ笑顔が浮かぶ。
「ラブレターみたいな文章になる暗号機ってどうかな」
「入手した敵は間違いなく気まずくなりますね」
ぼくは適当にあしらい、キッチンに用意してあるトーストを彼に差し出す。冷えた紅茶も温めなおしておいた。
「ああ、ありがとう。なんだ、君はもう助手として一人前じゃないか」
何を持って一人前とするのか、ぼくにはわからない。が、ほめ言葉として受け取っておこう。
「光栄です。……ところで、どうしてぼくをワトソンと呼ぶんですか?」
正直、身内にワトソンという人物はいないし、本名だってかすりもしない名前なのだ。とどのつまり、僕には「ワトソン」という名前とは何の接点もない。彼は紅茶を一口飲んで、答えた。
「君は助手だろう」
「そうですね」
「助手と言えばワトソンだろう」
「わけがわかりません」
彼が朝食をとっている間に、ぼくは設計図や工具や完成品とならなかったガラクタを片づける。
「君、あまり納得がいっていないようだけど、これは私なりの君への信頼表現だよ?」
ぼくは一瞬だけ手を止めて、作業を再開する。
助手といえば、ワトソン。ワトソンとは、助手。そういえば、ぼくが来る前の彼は、どんな人を助手として雇っていたのだろう。それよりずっと前は? この道に進む前の彼は? 知りたいと思ったことはあったが、それを聞くつもりはなかった。人の過去に踏み込むほど、ぼくは無遠慮でもないし勇敢でもない。聞いたところで、彼やぼくが変わることはないのだ。彼の人生において、「ワトソン」は何人いたのだろう。研究を手伝う支えが、膨張されているというプレッシャーから電話一つに神経をすり減らさなければならない生活を共有する人間が、軽く口を滑らせてはいけない立場であっても冗談を言いあえる仲間が、風変わりな自分を受け入れてくれる理解者が、僕の前に、どれくらいいてくれたのだろう。
「あ、ワトソン。思いついたのだけど」
「なんですか」
「チョコレートでできたドアなんてどうかな」
「溶けますね」
「いいじゃないか。兵糧が尽きたら食べられるようにさ。甘いものは力になるよ」
「保存が難しいですね。せめて乾パンとかが限界です」
「ワトソン、君は甘いものをなめているね」
「現在進行形で舐めてますよ、飴を」
「君、助手としてずいぶん板につきすぎじゃないか」
「あなたに言われるなんて、ぼくも末期ですね」
ぼくは机を片づけをさっさと終わらせ、彼のマグカップを受け取った。
三大噺第二弾です。助手といえばワトソンだろというのは私の単なる偏見です(こら)