トイレの花子さん、転職する
最近のトイレは、怪談に向いていない。
明るい。清潔。便座は温かい。水は勝手に流れるし、蛇口もセンサー式で、誰かが触れなくても水が出る。個室のドアには隙間もほとんどなく、昔のように足元から気配を滲ませることも難しい。
怖がらせる余地が、あまりにも少なかった。
「……快適すぎるのよね」
花子さんは、三番目の個室でため息をついた。
学校の怪談というものには、ある程度の環境が必要である。
夕方の校舎。薄暗い廊下。古いタイルの冷たさ。掃除用具入れから漂う洗剤の匂い。水道の蛇口から、ぽたり、ぽたりと落ちる水音。
そういうものが、子どもたちの想像力を少しずつ膨らませる。
三番目の個室を三回ノックする。
花子さん、いらっしゃいますか。
その一言を、恐る恐る口にするまでの間が大切なのだ。呼ぶ方にも覚悟がいる。呼ばれる方にも作法がある。怖いからこそ、遊びになる。遊びだからこそ、怪談は長く残る。
だというのに、今の子どもたちはなかなか呼んでくれない。
トイレは明るい。防犯ブザーもある。教師は見回りを怠らない。何より、子どもたちはトイレで怪談をする前に、スマートフォンで検索してしまう。
検索結果には、こう出ていた。
トイレの花子さん。
学校の怪談。
地域差あり。
「地域差あり、じゃないのよ」
本人としては、少し傷つく。
もちろん、地域差があるのは事実だ。花子さんと呼ばれる怪異は一人ではない。噂の数だけ姿は増え、学校の数だけ細部は変わる。三番目の個室にいることもあれば、四番目だったり、音楽室の前だったり、男子トイレに出ることすらある。
花子さん自身も、場所によって姿が変わる。
小学校なら、赤いスカートの子ども。高校なら、少し大人びた制服姿。駅ビルなら、垢抜けた若い女。
怪異とは、噂と場所に形を引っ張られるものだからだ。
だから花子さんも、時代に合わせて変わってきた。
けれど、変わるだけでは追いつかないこともある。
放課後の小学校。
花子さんは、三番目の個室の内側にいた。
その場所が好きだった。
怖がられる場所だった。逃げ込まれる場所だった。ひそひそ声で噂される場所だった。
何より、名前を呼ばれる場所だった。
花子さん、いらっしゃいますか。
その声が、扉の向こうから届くたびに、花子さんは少しだけ形を濃くしてきた。悲鳴も、逃げる足音も、怪談としては立派な反応だ。
けれど、本当はそれだけではなかった。
呼ばれることそのものが、嬉しかったのだ。
どこかにいると、誰かに思われている。
それは怪異にとって、存在を繋ぐ細い糸のようなものだった。
その三番目の個室が、撤去される。
工事業者の声が廊下から聞こえた。
「こっち、明日には撤去で」
撤去。
花子さんは、便座の蓋の上で背筋を伸ばした。
分かってはいた。古くなったトイレが改修されるのは悪いことではない。子どもたちが安全で清潔な場所を使えるなら、それに越したことはない。
だが、怪異にも事情はある。
三番目の個室がなくなる。
それは、職場の部署が消えるようなものではない。
名前を呼ばれた場所が消える、ということだった。
「……転職、かしら」
花子さんは、真剣にそう呟いた。
呼ばれなくなった怪異は薄くなる。薄くなり続ければ、いずれただの染みや湿気と変わらなくなる。
それは、嫌だった。
怖がらせたいからではない。
呼ばれたいのだ。
どこかにいると、誰かに思っていてほしい。
そのために、花子さんは動くことにした。
まず向かったのは、高校だった。
花子さんは、制服姿の少女になって三番目の個室の内側で待機した。赤いスカートは浮くので、赤はリボンに残した。怪異にも調整は必要である。
やがて、ひとりの生徒が個室の前で立ち止まった。
来た。
花子さんは、内側から静かに息を潜める。
だが、生徒はノックをしなかった。
代わりに、スマートフォンを構えた。
「ねえ、ここのトイレ、花子さん出るらしいよ」
外から声が聞こえる。
「まじ? 動画撮る?」
「やば。バズるかな」
花子さんは、固まった。
バズる。
怖がるでもなく、祈るでもなく、作法もなく、撮る。
それでも、呼ばれた。
扉がノックされる。
一回。
二回。
三回。
「花子さん、いますかー?」
語尾が軽い。
花子さんは、ゆっくりと口を開いた。
「いるわよ」
その瞬間、外で悲鳴が上がった。
悲鳴はいい。
久しぶりのまともな悲鳴だった。
だが、次の瞬間に聞こえた言葉で、花子さんの気持ちは冷えた。
「撮れた!? 今の撮れてる!?」
花子さんは、扉の内側で膝に頬杖をついた。
怖がられたのではない。
消費されたのだ。
怪談は語られることで残る。けれど、語られることと、雑に切り取られることは違う。あの子たちの画面の中で、自分は何になるのだろう。怖い話ではなく、数秒のネタ。笑い声と一緒に流れて、明日には忘れられるもの。
花子さんは、しばらく扉を見つめていた。
「……私、もう怪談じゃないのかしら」
高校は保留にした。
次に向かったのは、駅ビルだった。
駅ビルのトイレは人が多い。けれど、誰も怪談を呼ぶ余裕などない。皆、急いで入り、急いで出ていく。
その中でひとりだけ、洗面台の前から動けない女性がいた。
スーツ姿。二十代半ばくらい。化粧は崩れ、スマートフォンを握りしめている。誰かが入ってくるたびに、女性は慌てて水を出し、顔を洗うふりをした。
花子さんは、少し離れた場所でその様子を見ていた。
呼ばれてはいない。
三番目の個室でもない。
なら、出る必要はない。
そう思った。
けれど、女性は帰らなかった。
水を止め、鏡を見て、また俯く。スマートフォンを開き、閉じ、また開く。誰かに連絡しようとして、できないままでいる。
花子さんは、小さく息を吐いた。
「……最近、多いのよね」
昔の子どもたちは、花子さんを呼ぶためにトイレへ来た。今の人間は、呼ぶつもりがなくてもトイレに隠れる。泣くために。怒られないために。誰にも見られずに息をするために。
怪談として呼ばれることは減った。
けれど、トイレに逃げ込む人間は減っていない。
花子さんは、女性の隣の洗面台に立った。
鏡には映らないようにした。急に映れば、それこそ大騒ぎになる。
代わりに、蛇口から少しだけ水を出した。
女性が顔を上げる。
花子さんは、個室の方から声を出した。
「ハンカチ、持ってる?」
女性は固まった。
「……え?」
「泣くなら、ちゃんと鍵を閉めた個室で泣きなさい。洗面台の前だと、人が来るたびに慌てるでしょう」
女性は、恐怖と困惑が混ざった顔で三番目の個室を見た。
花子さんは、内側から鍵をかけた。かちり、と音が鳴る。
「だ、誰……?」
「花子さん」
「は?」
「トイレの」
女性はしばらく黙った。
笑うかと思った。
逃げるかと思った。
けれど女性は、泣き腫らした目で三番目の個室を見つめたまま、小さく息を呑んだ。
「……本当に?」
その声に、花子さんは少しだけ引っかかった。
本当に、という確認は、怪異に対しては珍しい。たいていの人間は、あり得ない、嘘だ、誰かの悪戯だ、と考える。だがその女性の声には、恐怖よりも先に、何かを探すような響きがあった。
「本当よ。少なくとも、あなたが思っているよりは」
女性は、三番目の個室の前に立ったまま、泣きそうな顔を少し歪めた。
「……昔」
ぽつりと、女性が言った。
「小学生の頃、呼んだことがあるんです。友達に無理やりやらされて。三番目の個室を三回ノックして、花子さん、いますかって」
花子さんの指先が止まった。
忘れていたわけではない。
けれど、もう思い出すこともないと思っていた声だった。
夕方の校舎。
掃除の終わった廊下。
三番目の個室の前で震えていた、小さな女の子。
花子さん、いらっしゃいますか。
あの時の声だ。
花子さんは、はっきりと思い出した。
小さな女の子がいた。友達にからかわれて、無理やり三番目の個室をノックさせられた子。けれど、その子は本当は、花子さんよりも別のものを怖がっていた。教室に戻ること。笑われること。ひとりになること。
だから、花子さんは一度だけ返事をした。
いるよ。
女の子は悲鳴を上げて逃げた。
怪談としては成功だった。
けれど、逃げる直前、その子はほんの少しだけ笑っていた。
あの子が、目の前にいる。
花子さんは、個室の内側で、しばらく何も言えなかった。
「覚えてるの?」
女性が聞いた。
「……ええ。覚えてるわ」
「私、あの時すごく怖かったんです。でも、返事があって、なぜか少し安心したんです。変ですよね。怖いはずなのに、ああ、本当に誰かいたんだって」
女性は、崩れた化粧をハンカチで押さえながら笑った。
「今日、会社で色々あって。もう無理だって思って、ここに逃げてきて。そしたら急に、昔のこと思い出して」
花子さんは、扉の内側で膝を抱えた。
高校で言われた言葉が、まだ胸に残っている。
撮れた?
バズるかな。
消費されたと思った。
自分はもう怪談ではないのかもしれないと思った。
けれど、目の前の女性は覚えていた。
怖がったことを。
呼んだことを。
返事があったことを。
誰かの中に、自分はまだ怪談として残っていた。
それは、ひどく小さなことだった。
けれど、怪異にとっては十分だった。
「……何があったの」
花子さんは聞いた。
呼ばれてはいない。
三番目の個室でもない。
それでも、聞いた。
女性は、少しずつ話し始めた。
上司に詰められたこと。同期は平気そうなのに、自分だけが駄目に思えること。帰りたいのに、どこへ帰ればいいのか分からなくなったこと。
花子さんは、個室の内側で聞いていた。
昔なら、途中で「いるよ」と返事をして終わりだった。
今は、そうはいかない。
人間の悩みは、怪談より長い。
すべて聞き終えてから、花子さんは少し考えた。
「辞めたら?」
女性が息を呑む。
「え、そんな簡単に」
「簡単じゃないでしょうね。でも、あなた今、駅のトイレで花子さんに相談してるのよ。状況としてはかなり末期よ」
女性は、泣きながら笑った。
今度の笑いには、少しだけ力があった。
「それ、怪談に言われるの、嫌すぎる」
「怪談はね、怖がらせるだけが仕事じゃないの。怖いものを、形にして見せるのも仕事なのよ」
「形に?」
「あなたが怖がっているものは、会社そのものじゃない。逃げたら全部終わる、と思い込んでいることよ」
花子さんは、自分で言ってから少し驚いた。
ずいぶん偉そうなことを言っている。
だが、言葉は止まらなかった。
「怪談は、呼ばれなくなったら薄くなる。けど、場所を変えれば残れることもある。三番目の個室がなくなっても、別の扉がある。たぶん、人間も同じでしょ」
女性は黙っていた。
やがて、小さく頷いた。
「……明日、休みます」
「それがいいわ。できれば病院か、労基か、相談できる人間にも行きなさい。花子さんは怪談であって、産業医ではないから」
「妙に現実的ですね」
「現代怪談だから」
女性は、ハンカチで顔を拭いた。
少しだけ化粧を直し、深呼吸をする。そして、個室の前で立ち止まった。
「ありがとう、花子さん」
花子さんは、すぐには返事をしなかった。
代わりに、トイレットペーパーを少しだけからからと鳴らした。
女性はびくりと肩を跳ねさせ、それから少し笑って、駅のトイレを出ていった。
花子さんは、個室の中でしばらく黙っていた。
怖がらせたかったわけではない。
けれど、少しだけ怖がらせた。
そして、少しだけ元気にした。
悪くない。
悪くはないが、これはもう学校怪談の業務範囲を超えている。
「……相談先、必要かしら」
花子さんは、そう呟いた。
それから、少し後のこと。
古びた商店街の奥にある廣守探偵事務所で、花子さんは湯呑みを両手で包んでいた。
出された茶は、思っていたよりも美味しかった。
机の上では、小さな狐が饅頭を抱えている。メイド服の女が、何も聞かずに茶を注ぎ足してくれた。所長らしい男は、煙草を咥えたまま、呆れたように腕を組んでいる。
「……で」
男が言った。
「転職相談に来た怪異が、最終的に転職しないって結論になったわけか」
「そうね」
花子さんは茶をすすり、何でもないことのように頷いた。
「ということがあったから、あたしは今もトイレの花子さんなのよ」
「いや、説明としては分かるが、うちに来た意味は?」
「業務範囲の相談」
「怪異にも業務範囲って概念あるんだな」
「あるわよ。ないと際限なくなるもの」
小さな狐が、饅頭を齧りながら深く頷いた。
「分かるぞ。信仰にも供物にも、適切な範囲というものがある」
「お前はまず盗み食いの範囲を見直せ」
男が即座に返す。
花子さんは、そのやり取りを見て少し笑った。
ここは、怪談にはあまり向いていない。
けれど、相談には向いていそうだった。
お読みいただきありがとうございました。
この短編は、拙作『妖奇譚』の世界観を下敷きにした一編です。
本編では、廣守探偵事務所という少し変わった場所を中心に、妖怪、幽霊、都市伝説、付喪神たちが関わる現代怪異譚を書いています。
怖いだけではなく、少し騒がしくて、少し温かい。
そんな怪異たちの日々を覗いてみたい方は、ぜひ『妖奇譚』本編にも足を運んでいただけると嬉しいです。
花子さんも、時々そちらに顔を出しています。




