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妖奇譚

トイレの花子さん、転職する

作者: tomato.nit
掲載日:2026/05/10


 最近のトイレは、怪談に向いていない。


 明るい。清潔。便座は温かい。水は勝手に流れるし、蛇口もセンサー式で、誰かが触れなくても水が出る。個室のドアには隙間もほとんどなく、昔のように足元から気配を滲ませることも難しい。


 怖がらせる余地が、あまりにも少なかった。


「……快適すぎるのよね」


 花子さんは、三番目の個室でため息をついた。


 学校の怪談というものには、ある程度の環境が必要である。


 夕方の校舎。薄暗い廊下。古いタイルの冷たさ。掃除用具入れから漂う洗剤の匂い。水道の蛇口から、ぽたり、ぽたりと落ちる水音。


 そういうものが、子どもたちの想像力を少しずつ膨らませる。


 三番目の個室を三回ノックする。


 花子さん、いらっしゃいますか。


 その一言を、恐る恐る口にするまでの間が大切なのだ。呼ぶ方にも覚悟がいる。呼ばれる方にも作法がある。怖いからこそ、遊びになる。遊びだからこそ、怪談は長く残る。


 だというのに、今の子どもたちはなかなか呼んでくれない。


 トイレは明るい。防犯ブザーもある。教師は見回りを怠らない。何より、子どもたちはトイレで怪談をする前に、スマートフォンで検索してしまう。


 検索結果には、こう出ていた。


 トイレの花子さん。

 学校の怪談。

 地域差あり。


「地域差あり、じゃないのよ」


 本人としては、少し傷つく。


 もちろん、地域差があるのは事実だ。花子さんと呼ばれる怪異は一人ではない。噂の数だけ姿は増え、学校の数だけ細部は変わる。三番目の個室にいることもあれば、四番目だったり、音楽室の前だったり、男子トイレに出ることすらある。


 花子さん自身も、場所によって姿が変わる。


 小学校なら、赤いスカートの子ども。高校なら、少し大人びた制服姿。駅ビルなら、垢抜けた若い女。


 怪異とは、噂と場所に形を引っ張られるものだからだ。


 だから花子さんも、時代に合わせて変わってきた。


 けれど、変わるだけでは追いつかないこともある。


 放課後の小学校。


 花子さんは、三番目の個室の内側にいた。


 その場所が好きだった。


 怖がられる場所だった。逃げ込まれる場所だった。ひそひそ声で噂される場所だった。


 何より、名前を呼ばれる場所だった。


 花子さん、いらっしゃいますか。


 その声が、扉の向こうから届くたびに、花子さんは少しだけ形を濃くしてきた。悲鳴も、逃げる足音も、怪談としては立派な反応だ。


 けれど、本当はそれだけではなかった。


 呼ばれることそのものが、嬉しかったのだ。


 どこかにいると、誰かに思われている。


 それは怪異にとって、存在を繋ぐ細い糸のようなものだった。


 その三番目の個室が、撤去される。


 工事業者の声が廊下から聞こえた。


「こっち、明日には撤去で」


 撤去。


 花子さんは、便座の蓋の上で背筋を伸ばした。


 分かってはいた。古くなったトイレが改修されるのは悪いことではない。子どもたちが安全で清潔な場所を使えるなら、それに越したことはない。


 だが、怪異にも事情はある。


 三番目の個室がなくなる。


 それは、職場の部署が消えるようなものではない。


 名前を呼ばれた場所が消える、ということだった。


「……転職、かしら」


 花子さんは、真剣にそう呟いた。


 呼ばれなくなった怪異は薄くなる。薄くなり続ければ、いずれただの染みや湿気と変わらなくなる。


 それは、嫌だった。


 怖がらせたいからではない。


 呼ばれたいのだ。


 どこかにいると、誰かに思っていてほしい。


 そのために、花子さんは動くことにした。


 まず向かったのは、高校だった。


 花子さんは、制服姿の少女になって三番目の個室の内側で待機した。赤いスカートは浮くので、赤はリボンに残した。怪異にも調整は必要である。


 やがて、ひとりの生徒が個室の前で立ち止まった。


 来た。


 花子さんは、内側から静かに息を潜める。


 だが、生徒はノックをしなかった。


 代わりに、スマートフォンを構えた。


「ねえ、ここのトイレ、花子さん出るらしいよ」


 外から声が聞こえる。


「まじ? 動画撮る?」


「やば。バズるかな」


 花子さんは、固まった。


 バズる。


 怖がるでもなく、祈るでもなく、作法もなく、撮る。


 それでも、呼ばれた。


 扉がノックされる。


 一回。

 二回。

 三回。


「花子さん、いますかー?」


 語尾が軽い。


 花子さんは、ゆっくりと口を開いた。


「いるわよ」


 その瞬間、外で悲鳴が上がった。


 悲鳴はいい。


 久しぶりのまともな悲鳴だった。


 だが、次の瞬間に聞こえた言葉で、花子さんの気持ちは冷えた。


「撮れた!? 今の撮れてる!?」


 花子さんは、扉の内側で膝に頬杖をついた。


 怖がられたのではない。


 消費されたのだ。


 怪談は語られることで残る。けれど、語られることと、雑に切り取られることは違う。あの子たちの画面の中で、自分は何になるのだろう。怖い話ではなく、数秒のネタ。笑い声と一緒に流れて、明日には忘れられるもの。


 花子さんは、しばらく扉を見つめていた。


「……私、もう怪談じゃないのかしら」


 高校は保留にした。


 次に向かったのは、駅ビルだった。


 駅ビルのトイレは人が多い。けれど、誰も怪談を呼ぶ余裕などない。皆、急いで入り、急いで出ていく。


 その中でひとりだけ、洗面台の前から動けない女性がいた。


 スーツ姿。二十代半ばくらい。化粧は崩れ、スマートフォンを握りしめている。誰かが入ってくるたびに、女性は慌てて水を出し、顔を洗うふりをした。


 花子さんは、少し離れた場所でその様子を見ていた。


 呼ばれてはいない。


 三番目の個室でもない。


 なら、出る必要はない。


 そう思った。


 けれど、女性は帰らなかった。


 水を止め、鏡を見て、また俯く。スマートフォンを開き、閉じ、また開く。誰かに連絡しようとして、できないままでいる。


 花子さんは、小さく息を吐いた。


「……最近、多いのよね」


 昔の子どもたちは、花子さんを呼ぶためにトイレへ来た。今の人間は、呼ぶつもりがなくてもトイレに隠れる。泣くために。怒られないために。誰にも見られずに息をするために。


 怪談として呼ばれることは減った。


 けれど、トイレに逃げ込む人間は減っていない。


 花子さんは、女性の隣の洗面台に立った。


 鏡には映らないようにした。急に映れば、それこそ大騒ぎになる。


 代わりに、蛇口から少しだけ水を出した。


 女性が顔を上げる。


 花子さんは、個室の方から声を出した。


「ハンカチ、持ってる?」


 女性は固まった。


「……え?」


「泣くなら、ちゃんと鍵を閉めた個室で泣きなさい。洗面台の前だと、人が来るたびに慌てるでしょう」


 女性は、恐怖と困惑が混ざった顔で三番目の個室を見た。


 花子さんは、内側から鍵をかけた。かちり、と音が鳴る。


「だ、誰……?」


「花子さん」


「は?」


「トイレの」


 女性はしばらく黙った。


 笑うかと思った。


 逃げるかと思った。


 けれど女性は、泣き腫らした目で三番目の個室を見つめたまま、小さく息を呑んだ。


「……本当に?」


 その声に、花子さんは少しだけ引っかかった。


 本当に、という確認は、怪異に対しては珍しい。たいていの人間は、あり得ない、嘘だ、誰かの悪戯だ、と考える。だがその女性の声には、恐怖よりも先に、何かを探すような響きがあった。


「本当よ。少なくとも、あなたが思っているよりは」


 女性は、三番目の個室の前に立ったまま、泣きそうな顔を少し歪めた。


「……昔」


 ぽつりと、女性が言った。


「小学生の頃、呼んだことがあるんです。友達に無理やりやらされて。三番目の個室を三回ノックして、花子さん、いますかって」


 花子さんの指先が止まった。


 忘れていたわけではない。


 けれど、もう思い出すこともないと思っていた声だった。


 夕方の校舎。

 掃除の終わった廊下。

 三番目の個室の前で震えていた、小さな女の子。


 花子さん、いらっしゃいますか。


 あの時の声だ。


 花子さんは、はっきりと思い出した。


 小さな女の子がいた。友達にからかわれて、無理やり三番目の個室をノックさせられた子。けれど、その子は本当は、花子さんよりも別のものを怖がっていた。教室に戻ること。笑われること。ひとりになること。


 だから、花子さんは一度だけ返事をした。


 いるよ。


 女の子は悲鳴を上げて逃げた。


 怪談としては成功だった。


 けれど、逃げる直前、その子はほんの少しだけ笑っていた。


 あの子が、目の前にいる。


 花子さんは、個室の内側で、しばらく何も言えなかった。


「覚えてるの?」


 女性が聞いた。


「……ええ。覚えてるわ」


「私、あの時すごく怖かったんです。でも、返事があって、なぜか少し安心したんです。変ですよね。怖いはずなのに、ああ、本当に誰かいたんだって」


 女性は、崩れた化粧をハンカチで押さえながら笑った。


「今日、会社で色々あって。もう無理だって思って、ここに逃げてきて。そしたら急に、昔のこと思い出して」


 花子さんは、扉の内側で膝を抱えた。


 高校で言われた言葉が、まだ胸に残っている。


 撮れた?

 バズるかな。


 消費されたと思った。


 自分はもう怪談ではないのかもしれないと思った。


 けれど、目の前の女性は覚えていた。


 怖がったことを。

 呼んだことを。

 返事があったことを。


 誰かの中に、自分はまだ怪談として残っていた。


 それは、ひどく小さなことだった。


 けれど、怪異にとっては十分だった。


「……何があったの」


 花子さんは聞いた。


 呼ばれてはいない。


 三番目の個室でもない。


 それでも、聞いた。


 女性は、少しずつ話し始めた。


 上司に詰められたこと。同期は平気そうなのに、自分だけが駄目に思えること。帰りたいのに、どこへ帰ればいいのか分からなくなったこと。


 花子さんは、個室の内側で聞いていた。


 昔なら、途中で「いるよ」と返事をして終わりだった。


 今は、そうはいかない。


 人間の悩みは、怪談より長い。


 すべて聞き終えてから、花子さんは少し考えた。


「辞めたら?」


 女性が息を呑む。


「え、そんな簡単に」


「簡単じゃないでしょうね。でも、あなた今、駅のトイレで花子さんに相談してるのよ。状況としてはかなり末期よ」


 女性は、泣きながら笑った。


 今度の笑いには、少しだけ力があった。


「それ、怪談に言われるの、嫌すぎる」


「怪談はね、怖がらせるだけが仕事じゃないの。怖いものを、形にして見せるのも仕事なのよ」


「形に?」


「あなたが怖がっているものは、会社そのものじゃない。逃げたら全部終わる、と思い込んでいることよ」


 花子さんは、自分で言ってから少し驚いた。


 ずいぶん偉そうなことを言っている。


 だが、言葉は止まらなかった。


「怪談は、呼ばれなくなったら薄くなる。けど、場所を変えれば残れることもある。三番目の個室がなくなっても、別の扉がある。たぶん、人間も同じでしょ」


 女性は黙っていた。


 やがて、小さく頷いた。


「……明日、休みます」


「それがいいわ。できれば病院か、労基か、相談できる人間にも行きなさい。花子さんは怪談であって、産業医ではないから」


「妙に現実的ですね」


「現代怪談だから」


 女性は、ハンカチで顔を拭いた。


 少しだけ化粧を直し、深呼吸をする。そして、個室の前で立ち止まった。


「ありがとう、花子さん」


 花子さんは、すぐには返事をしなかった。


 代わりに、トイレットペーパーを少しだけからからと鳴らした。


 女性はびくりと肩を跳ねさせ、それから少し笑って、駅のトイレを出ていった。


 花子さんは、個室の中でしばらく黙っていた。


 怖がらせたかったわけではない。


 けれど、少しだけ怖がらせた。


 そして、少しだけ元気にした。


 悪くない。


 悪くはないが、これはもう学校怪談の業務範囲を超えている。


「……相談先、必要かしら」


 花子さんは、そう呟いた。


 それから、少し後のこと。


 古びた商店街の奥にある廣守探偵事務所で、花子さんは湯呑みを両手で包んでいた。


 出された茶は、思っていたよりも美味しかった。


 机の上では、小さな狐が饅頭を抱えている。メイド服の女が、何も聞かずに茶を注ぎ足してくれた。所長らしい男は、煙草を咥えたまま、呆れたように腕を組んでいる。


「……で」


 男が言った。


「転職相談に来た怪異が、最終的に転職しないって結論になったわけか」


「そうね」


 花子さんは茶をすすり、何でもないことのように頷いた。


「ということがあったから、あたしは今もトイレの花子さんなのよ」


「いや、説明としては分かるが、うちに来た意味は?」


「業務範囲の相談」


「怪異にも業務範囲って概念あるんだな」


「あるわよ。ないと際限なくなるもの」


 小さな狐が、饅頭を齧りながら深く頷いた。


「分かるぞ。信仰にも供物にも、適切な範囲というものがある」


「お前はまず盗み食いの範囲を見直せ」


 男が即座に返す。


 花子さんは、そのやり取りを見て少し笑った。


 ここは、怪談にはあまり向いていない。


 けれど、相談には向いていそうだった。


お読みいただきありがとうございました。


この短編は、拙作『妖奇譚』の世界観を下敷きにした一編です。


本編では、廣守探偵事務所という少し変わった場所を中心に、妖怪、幽霊、都市伝説、付喪神たちが関わる現代怪異譚を書いています。


怖いだけではなく、少し騒がしくて、少し温かい。

そんな怪異たちの日々を覗いてみたい方は、ぜひ『妖奇譚』本編にも足を運んでいただけると嬉しいです。


花子さんも、時々そちらに顔を出しています。

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