彼女との夜
短編です*
「月を見に行こうよ。」
と、彼女は言った。
「今日でなくては駄目なんだ。」
私は少し首を傾け考える。行くか行かないか、ではない。「今日でなくては駄目」というフレーズについてだ。それはとてもロマンチックで特別に聞こえる。しかし、やや大袈裟で、切羽詰まっているようにも聞こえる。今時、余り過度なロマンチシズムは若者に好まれない。一歩間違えれば格好の笑いの餌食にもなる。華やかな装飾はいらない。熱い情熱もいらない。そういう時代なのだ。
「今日でなくては駄目なの?」
私は声に出して確認してみる。
「うん。」
彼女はこくりと頷く。暫くの間、二人の間に沈黙が訪れる。
「ごめん。」
その緊張に耐えきれず彼女が口を開いた。
「いいよ、行こう。」
私は車のエンジンをふかした。
彼女が耐えきれなかった沈黙の間、私はこんな事を考えていた。二人の自分。ロマンチシズムを歓迎する自分と、彼女を見下す自分、その二つは同時に現れ、そしてどちらも同じ答えを導いた。彼女の誘いは断るに値しないと。車のラジオからMCが曲を紹介する。「金曜日のデートといったらこの曲、ルージュの伝言…」明るいメロディが車内を暖める。
私たちは自然公園の駐車場に車を止めた。もう20時を過ぎているというのに、駐車場には何台か先客がいた。車から降りると、冷たい空気が肌を突き刺した。今日はセント・ヴァレンタインデー、2月であるから当然の寒さだ。彼女をちらと見るとそんな寒さなど感じてないかのように空を仰いでいる。ジップアップジャケットに細身のカラージーンズ。
「ちょっと歩こう。」
私たちは肩を並べて夜の公園を散歩した。
空気は冷たかったが、その冷たさこそが澄んでいた。月が輝いていた。ぐにゃり、と月は歪む。
「あ…っ」
つい小さな声を上げてしまった。
「ごめん。」
と、彼女はもう一度謝った。
「ううん、ほら、本物の月の方が綺麗。」
二人は空を見上げた。月の光が木々を照らす。月の光が二人を照らす。木々や水銀灯や二人の少女の影が冬の冷たいコンクリートをまるで絵画のように占拠する。絵画は留まらない。木々の形は流動体のように変形し続け、少女達の長い髪も水を求める植物の根のようにコンクリートを這い回った。絵画には常に何かが描き足され、そして消されていた。月はその様子を静かに眺めていたが、二人の少女は自分達が絵の一部だということに気がついてはいない。
「そろそろ…。」
彼女はこくりと頷いた。細い顎がとても綺麗だ、と私は思った。私たちは何も言わなかったが、今までとは違う何かを感じていた。
「今日で良かったね。」
と、私は真っすぐ前を見ながら彼女に話しかけた。
「だって、今日じゃなくちゃ駄目だったから。」
彼女は笑った。私もそんな彼女を見て笑った。
夏だけど、冬の話を書いてみた…