王子は絶好調①
トルエノは妹カロリーナを別荘へと送り届けたあと、そのまま馬にまたがり駆け出した。
カルボの町から王都までは、どんなに急いでも一日はかかる。近いようで遠い、もどかしい距離だ。
(早くアベル殿下に知らせなくては……)
(クラリッサ嬢はよく知りもしない男と結婚しようとしている、大馬鹿者ですよ――!)
トルエノが苛立ちを抱えながら、大急ぎで王都への帰路を急いでいる頃。
王立学園の生徒会室では、今日も仕事に向かうアベルの姿があった。
そんな彼の様子を、入口の隙間から生徒会メンバー達が見守っている。
「突然どうしたんでしょうか……?」
「アベル殿下、こんなにお仕事されて大丈夫なんだろうか」
「このまま、おひとりで全部片付けてしまうつもりなんじゃ……?」
袖机の上にうず高く積まれた書類を、アベルは一人黙々と処理していく。瞳は流れるように文字を追い、手はするするとペンを滑らせて。
その速さは数日前と段違いで、嘘のようにサクサクと仕事は進む。メンバー達が見惚れている間にも、ひとつ、またひとつと、溜まっていた書類は減っていった。
生徒会メンバー達はヒソヒソと相談しながら、室内に入るタイミングを見失っている。数日前の重苦しい彼とはあまりにも違い過ぎて、かえって心配になったらしい。
そのくらい、アベルは絶好調だった。
クラリッサへの恋心を自覚した。失恋しているわけでもなかった。なら、まだこの想いに救いはあるかもしれない。
そう思うと、手を動かさずにはいられなかった。顔には出さないものの、今この瞬間でさえ天にも登るような気持ちなのだ。
(クラリッサ嬢……今、どこにいる?)
なぜもっと早くこの気持ちに気付かなかったのだろうか。そればかりが悔やまれる。彼女が学園を退学する前であったなら、この想いも伝えることが出来たのに。
『アベル殿下。少しよろしいですか?』
さらりと揺れる銀色の髪に、書類を指す白い指。首を僅かに傾げながら、こちらを確認するように目を合わせる。その瞳が、光に透けて宝石のようで――
(――美しいな)
そう思った日のことを覚えている。
ちょうど忙しい日だった。立て続けに至急の案件が舞い込んで、生徒会メンバー達は学園中を駆け回っていた。
アベル自身のそばにも、ひときわ多くの書類が積み上げられていて。正直、追い込まれていた。そろそろ皆の疲れもピークに達するのではないか。会長として、どうすべきか――なんて煮詰まっていたそんな時に、クラリッサから声をかけられたのだ。
『私達にも出来ることがありましたら、どうか仕事を回してくださいませんか』
彼女はアベルの脇に積まれた仕事の山を見ながら、実に控えめに申し出た。
華奢な指で書類を指しながら『たとえばこちらの集計作業なら、みんなで手分けして出来そうです』と笑顔を向けるのだ。
『……確かに任せられる仕事はあるが』
『でしたら、私達にも振り分けてくださって構いませんので』
『だが、しかし……』
忙しいのはアベルだけでは無い。クラリッサ自身も、他のメンバー達だって同様に各々の仕事を抱えていて余裕は無いはずだった。
気持ちはありがたいのだが、そんな彼等に仕事を回せるはずがない。
『君達にもそれぞれ担当の仕事があるだろう』
『それでも、私達はアベル殿下ほどではありません。お返事待ちなんかで手が空く時間もありますから……ねえ、みんな?』
クラリッサが後ろを振り向くと、室内にいた生徒会メンバー達もそれぞれ小さく頷いて見せた。みんな心配げに眉を下げ、アベルの疲れた顔を案じている。
『君達は……』
メンバー達から心配されていたことに、その時やっと気付かされた。そして、それほどまでに周りが見えなくなっていた自分にも。
『……申し訳ない。頼めるのか』
『もちろんです! 皆でやれば、きっとすぐ終わりますよ!』
そう言って仕事を受け取るクラリッサは、やはり美しい笑顔を作った。
彼女はいつもそうだった。出会った時から、笑顔の多い人だった。こちらがいくら無愛想な奴でも、分け隔てなく話しかけてくる。そんなところがなんとなくトルエノに似ている。そう思っていた。最初だけは。
しかし、彼女のことを知れば知るほど、トルエノとは違っていた。彼女はいつでも空気を読む。話しかけるタイミングを見計らい、柔らかい言葉を慎重に選びながら、伝えたいことは過不足なくこちらへ伝える。
おかげで、クラリッサは教師や生徒達から頼られていた。彼等も彼女になら話しやすいようで、『殿下へご伝言です』という言葉をクラリッサの口から何度聞いたことだろう。
その度に、アベルはクラリッサを尊敬したし、感謝した。仕事を円滑に進めてくれることも、このような自分に笑顔で話しかけてくれることも。
ふとした瞬間に微笑む瞳。優しい相槌。そこに彼女がいるだけで、言い様もなく和やかな気持ちになった。
クラリッサを失ってからだ。そのすべてが尊いものだったと気づいたのは。
「わ、わあ!」
「お前! 押すなよ!」
「倒れるっ……!」
突然、生徒会室の入口から派手な物音が響き、アベルはハッと現実に引き戻された。
仕事の手を止め、扉の前に目をやった。
閉めていたはずの扉は開け放たれ、そこにはなぜか生徒会メンバー達が雪崩のように倒れ込んでいる。三人は積み重なるようにもつれ合い、思うように身動きが取れていない。
彼らは顔を青くしながら、バツの悪い表情を浮かべた。
「君達――」
「も、申し訳ありませんアベル殿下! 決してお仕事の邪魔をするつもりでは無かったのです!」
「僕達も、なにかお手伝い出来ることはないかと思ったのです!」
「決して、興味本位で覗いていたわけでは……!」
(この者達、ずっと覗いていたのか)
この感じ、覚えがある。
あの時、クラリッサに気付かされたこと――アベルはまた知らぬ間に、心配をかけていたらしい。
「――すまない。モンド、ブレア、ランス」
「アベル殿下……! 僕達の名前を覚えて下さっていたのですか」
「当然だ。申し訳ないが、良かったら君達にも仕事を頼みたい」
「も、もちろんです!!」
一刻も早く彼女を探しに行かなければ。
アベルは三人を招き入れると、共に仕事を再開した。