氷の王子①
一方その頃。
王都の中央部に位置するエルデリア王立学園では、『氷の王子』と呼ばれる男が深いため息をついていた。
エルデリア王立学園は貴族御用達の学園だ。
敷地内には豊かな緑が生い茂り、重厚な造りの校舎がいくつも点在している。
貴族としての教養から武芸、魔法まで学べるこの学園では、生徒の主体性が尊重されていた。そのため生徒達の自治は重んじられ、その責務は多岐にわたる。
中でもまとめ役となる生徒会は、最も多忙であるのだが。
今日も生徒会室には冷えきった空気が漂う。
十数人いるはずの生徒会メンバーも、顔を出すのはたった数人だけ。
その数人すら、しばらく経つといつの間にか消えている。各々に振り分けられているはずの仕事も一向に進まず、ぴたりと滞ってしまったままだ。
それもこれも、生徒会長であるアベルの重苦しいため息のせいだった。
「はぁ……」
エルデリア王国第一王子、アベル・エルデリア。
シャープな黒髪に、凍てつくようなアイスブルーの瞳。身構えてしまうほど美しいその人は、『氷の王子』と称されるほど笑わない男だ。
けれど、笑わないだけならまだマシだった。
このところはずっとこの調子でため息をついている。
沈んだ顔で頬杖をついたまま、瞳は常に憂いをまとい、心ここに在らずな様子で時折ぼんやりと外を見る。どこか遠くへ想いを馳せるように。
その雰囲気は、気安く近付けるものでは無くて。
生徒会の要となる生徒会長がこれだから、仕事はまったく進まなかった。
「あ、あの、アベル殿下。こちらの書類ですが、文化会から修繕の依頼が届いておりまして」
「アベル殿下、音楽コンクール選抜者名簿のご確認を」
「アベル殿下、交流会の打ち合わせ日程を調整したいのですが……」
「……すべて、そこに置いておいてくれ」
「は、はいっ……!」
塩対応に慣れた生徒会メンバー達でも、今のアベルには声をかけるだけでやっとのようだ。
彼らは積まれた書類の山に新たな書類を積み上げると、逃げるように生徒会室から飛び出て行ってしまった。
また逃げた。これで何人目だろうか。
ついに生徒会室には、アベルただ一人だけ――
「ちょっとアベル殿下。そんな顔をしていては、メンバー達が怖がってしまいますよ」
逃げ出した生徒会メンバーと入れ替わるように、扉からトルエノ・ランカステル公爵令息がやってきた。
生徒会副会長でありアベル王子の幼馴染でもあるトルエノは、この重い空気をものともせず素知らぬ顔で歩み寄る。
側近候補として幼い頃からアベルのそばにいた彼だけが、唯一アベルに気を遣わない存在だった。
トルエノは側近候補として、そして幼馴染として、ゆったりとした口調でアベルを諌める。
「こんなに仕事が溜まっているというのに、またメンバーが逃げてしまったではないですか。アベル殿下がそのようにため息ばかりついているからですよ」
「お前こそ、この間は何日休んだ? 仕事を放ったらかしてまで」
積み上げられた書類の傍ら、アベルはトルエノを睨み上げる。
しかしトルエノは緩みきった頬を隠すこともないまま、ひときわ顔を綻ばせた。
「だって、あのカロリーナが『お兄さまに会いたい』と手紙を寄越したのですよ!? 普段、我儘など口にしないカロリーナが。そのように言われたら、兄としては会いに行かないわけにもいかず……」
カロリーナとは、トルエノの妹だ。生まれつき身体が弱く、今は田舎にある別荘で療養中のようだった。
トルエノにとって、年の離れた妹は可愛くてたまらないらしい。先日カロリーナに会ってからというもの、彼の浮かれ具合は目に余るほどなのである。
「お前が会いたかっただけだろう」
「当たり前でしょう。誰よりも可愛い妹ですからね。療養の邪魔をすると悪いので遠慮しておりましたが……これからは心置きなく会いに行けるというものです」
「まさかトルエノ、また会いに行くつもりか?」
「ええ。次は来週あたりでもお休みを戴きたく思います」
「お前……!」
この書類の山が見えないのか。
そう言って、アベルが詰め寄ろうとしたその時。
睨むアベルと浮かれるトルエノの間で、とうとう書類が崩れ落ちた。
「ああ…………」
バサバサと音を立て、溜まった仕事の数々が床一面に広がっていく。
アベルはそれを呆然と見下ろしながら、今日一番のため息をついた。
頭を抱えるアベル。
らしくないアベルに呆れるトルエノ。
男二人きりの生徒会室に、静寂が訪れる。
本来なら、アベルはこのような男では無いはずなのに。王子として友として、尊敬できる男であったのに――
トルエノは情けないアベルを放っておけず、いよいよ思っていたことを口にした。
「アベル殿下……もうお忘れになってはいかがです」
「……何を」
「彼女が学園を去って三ヶ月も経つのですよ? いい加減吹っ切っていただきませんと、学園活動に支障をきたします」
「彼女……?」
三ヶ月前。とある令嬢が学園を去った。
彼女は人当たりの良い笑顔で、生徒会書記としてアベルの補佐にあたっていた。
アベルがどれだけ素っ気なくても、どれだけ言葉足らずでも、彼女は決して動じることがなかった。
仲介役となり他生徒との橋渡しをしてくれていた彼女は、生徒会にとってもアベルにとってもなくてはならない存在であったのに――突然、前触れもなく退学してしまったのだ。
「まて、お前は何の話をしている?」
「クラリッサ嬢のことですよ」
「クラリッサ・フロレンシオか。確かに彼女がいなくなって三ヶ月間、生徒会としては大いに困っているが……」
間違いなく、学園は惜しい人材を失った。
けれど年頃である令嬢が学園を去ることは、クラリッサに限らず良くあることだった。突然の結婚などで、学園から姿を消す令嬢は珍しくない。仕方の無いことなのだ。
「――クラリッサ嬢は既に学園を去っているだろう。彼女は関係無い」
「なにを仰いますか。好きだったくせに」
「……は?」
「アベル殿下はクラリッサ嬢のことが好きだったから、こんなにも落ち込んでいるのでしょう?」
「俺が、クラリッサ嬢のことを……? まさか」
トルエノは半分ヤケクソのまま、鈍過ぎるアベルに向かって言い放った。
「まだお認めになりませんか。彼女のことが好きだったのに突然いなくなってしまったから、こうして三ヶ月間もの間ウジウジウジウジしているのですよ!」
「なっ……ウジウジなどしていない!」
「いいえ、女々しいったらありゃしないですね! いい加減どうにかしてください。クラリッサ嬢の代わりにお相手が必要なら、私が御用意を――」
「彼女の代わりなどいるはず無いだろう!」
アベルの口からは、意図せぬ言葉が突いて出る。
自分自身に驚いて、アベルは思わず口を抑えた。
「……クラリッサ嬢の、代わりなど……」
「やっとお気付きになりましたか」
大きな何かが失われたかのような喪失感。
胸を覆い尽くす謎の苦しみ。
それらが、アベルの仕事を阻んでいた。
クラリッサが誰かの元へ嫁ぐために退学したのだと思うと、その度にアベルの胸にはドス黒い何かが渦巻いた。三ヶ月もの間ずっと、アベルはこの重苦しい感情に支配されてしまっている。
原因不明の感情に振り回される自分が、不甲斐なくてならなくて――けれど、ようやく納得がいった。
この喪失感も、黒い感情も、彼女のことが忘れられないのも、すべてクラリッサのことが好きだったからだとしたら。
「――俺は、彼女が好きだったのか」
「少々気付くのが遅かったですね」