中継の宿②
アベル達が用意してくれたのはその町で一番良い宿であったらしく、部屋も食事もそれはそれは上等なものだった。
王子も泊まるのだからこのくらいの宿でなくてはならないのかもしれないが。
カルボの町の屋敷とは比べ物にならないくらいふかふかのベッド。野菜もお肉もたっぷりと使用された美味しい食事。そのうえ広く温かなお風呂まで提供され……おかげでクラリッサは久しぶりに身体を休めることができたような気がした。
(でも、眠れないわ……)
真っ暗な客室はとても静かだ。
隣のベッドからは、ばあやとローランの安らかな寝息が聞こえる。今日は色々とありすぎたから、二人共疲れたことだろう。
クラリッサだって身体も心も疲れているはずだった。けれど、一度目が冴えてしまうとなかなか眠りにつくことは出来なかった。
ベッドへ横になっても、これからのことがぐるぐると頭を駆けめぐるのだ。
カルボの町に居られなくなった今、ばあやとローランはフロレンシオ子爵家に帰ると言っていたけれど……あそこには憎き叔父がいる。問答無用でクラリッサ達を屋敷から追い出したあの叔父が、そう簡単に屋敷へ招き入れるとは思えない。
そうなれば次はどこへ行けばいいのか。
ローランとばあやを路頭に迷わせる訳にはいかないけれど、これといって行くあても無く……クラリッサはぐるぐると考えた。
(どこかに家を借りる? でも、そんなお金は無いわ。なら私がお金を稼ぐしか……どうやって?)
学園へ通っていたためひと通りの教養はあるが、クラリッサを雇ってくれるところなんてあるのだろうか。教養があると言っても人並みだ。特別にこれといって秀でた能力がある訳でもなく、家庭教師等として人に教えられるレベルのものではない。
なら、どこかの屋敷で使用人として働くほうが現実的だろうか。この三ヶ月間、掃除や洗濯、料理なんかもカルボの町で教わった。即戦力として役に立つ訳では無いかもしれないが、見習いから始めて必死に頑張れば、なんとか使ってもらえるような気もする。
しかし、つい三ヶ月前まで子爵令嬢として生きてきた女を雇う物好きなんているのだろうか……
何を考えても手詰まりのような気がして、クラリッサからは何度となくため息が漏れる。これでは眠れるはずもない。
俯いた視線の先では、指にはめられた金の指輪がきらりと光った。
唯一持ち出せた、母の形見だ。母も祖母から譲り受けたという指輪は、女系に代々受け継がれているものらしい。母のほっそりとした人差し指にはいつもこの指輪が輝いており、おとぎ話に登場する女神の指輪とよく似ていて――幼い頃からクラリッサはこの指輪が好きだった。
もし生活が立ち行かなくなれば、この母の指輪も売らないわけにはいかないだろう。金で出来ているため、売ればまとまった額にはなるかもしれないが……クラリッサにとって、それだけは避けたいことだった。
(どうすれば……)
追い詰められたクラリッサの脳裏を、ふとある人物がよぎった。
それは先程、馬車の前で手を差し伸べてくれた――旧友と呼ぶには烏滸がましいほど別世界を生きる人。
切羽詰まったクラリッサはベッドからフラリと立ち上がると、ばあや達の寝息を背に部屋を出た。
「……クラリッサ嬢!?」
暗い廊下を進み、クラリッサが訪ねた先は――アベルとトルエノの部屋だった。薄く開かれた扉の先に、目を見開いたトルエノの姿が見える。
「どうされたのです、なにか御用ですか?」
「夜分に申し訳ありません。実はアベル殿下にお会いしたくて参りました」
「で、殿下に会いたい……? このような夜更けに?!」
驚いたトルエノが叫ぶと同時に、部屋の中から何かがぶつかる音がした。
「……大丈夫ですか? 今、お部屋の中から大きな音がしたような」
「大丈夫です。おそらく動揺されているだけですので」
「動揺?」
「まったくあなたという人は……学園にいた時はもっと思慮深い方かと思っていたのですが。少しお待ちください、殿下をお呼びしますので」
そう言うと、トルエノはアベルを呼ぶために部屋へと下がった。
彼の嫌味には返す言葉も出てこない。
トルエノはクラリッサのことを「思慮深い方かと思っていた」と言っていたけれど、学園では精一杯取り繕っていただけなのだ。皆によく思われたくて、教師達から評価をもらいたくて、何をするにもまず周りのことを考えた。
けれど今は別だ。クラリッサの頭を占めるのは、ローランのこと、ばあやのこと――自分たちのこれからについてしか考えられなかった。
夜更けに部屋に押しかけるなんて、非常識であることは承知の上だ。周りになんか構っていられなかった。
クラリッサは一刻も早く働き口を見つけなければならない。そのために一縷の望みを賭けて、ダメ元でここまでやって来た。
王子であるアベルに口利きを頼めば、もしかしたら働き口が見つかるのではないかと目論んだのだ。城は広大で、数多の使用人が働いている。元同級生のよしみで、もしかしたら下働きくらいは紹介してもらえるかもしれない……
(いざとなれば、土下座してでも――)
「……クラリッサ嬢、とりあえずこちらへ」
「アベル殿下」
廊下でしばらく待っていると、トルエノに呼ばれたアベルが現れた。深夜だけに普段より髪や着衣の乱れはあるが、相変わらず完璧な見た目をしている。
とりあえず、「無礼だ」と叱られずに済んでホッとした。どうやら部屋へ入れてくれるらしい。クラリッサはアベルに促されるまま、部屋へと足を踏み入れた。
室内には小さなランプが灯されていた。僅かな灯りのみの薄暗い部屋に、アベル、トルエノ、そしてクラリッサの三人が向かい合って座る。
しばらく沈黙が流れたあと、気まずげなアベルが口を開いた。
「クラリッサ嬢、ひとつだけ言わせてくれないか。このように一人きりで男の部屋へ来るものでは無い。それも深夜になぜ……」
「申し訳ありません。どうしてもアベル殿下にお会いしたくて……そうしたら、いてもたってもいられなかったのです」
「俺、に」
アベルは言葉を失い、そのまま固まってしまった。そんな彼を、トルエノが横目でジトリと見ている。
「アベル殿下、動揺し過ぎです。しっかりして下さい、クラリッサ嬢が見てますよ」
「動揺、などしていない」
「どう見ても不自然ですよ。あとクラリッサ嬢のことを見過ぎです」
「見てなどいない……」
(いえ……み、見られているわ、すごく)
アベルはトルエノの言葉を否定するけれど、確かに目の前のアベルは様子がおかしかった。視線を彷徨わせたかと思えばジッとこちらを見たり、ぎこちなく固まっている間にも腕を何度も組み直したり。
学園にいた頃、彼はこんなにも挙動不審だったことがあっただろうか。いや、そのような姿は見たことがない。
(夜中に来たりしたせいかしら……だったら申し訳ないわ。早く用件を伝えてしまわないと)
クラリッサは改めてよそいきの顔を作ると、アベルに向かい合った。