中継の宿①
ガタゴトと心地よい揺れを感じて、クラリッサは意識を取り戻した。
「お目覚めでございますか? クラリッサお嬢様」
「ばあや……ここは?」
クラリッサは気を失ったまま、なぜか馬車に乗っていたようだった。
いつの間にか頭はばあやの肩にもたれ掛かり、膝にはブランケットを掛けられている。馬車内は薄暗く、夜に鳴く鳥の声も聞こえる。意識を失っているうちに日は落ちて、さらに馬車に乗せられた――ということなのだろうか。
(どうなっているの……?)
確か今日は……いつものように湖で釣りをしていたら町長の息子ハリオに襲われて、何を言っても全然話が通じなくて……もう駄目だと思ったところを、間一髪で助けられたような気がする。
幻でなければ、王子アベルに。
(あれは誰だったのかしら……アベル殿下のように見えたけれど、まさかこんな所にいらっしゃるはず無いわよね。やっぱり、幻でも見ていたのかしら)
「良かった……姉様、目が覚めて」
「ローラン」
曖昧な記憶を頼りにこの状況を整理していると、向かいに座るローランが口を開いた。彼は神妙な面持ちでクラリッサのことを見つめている。
「急きょ、カルボの町を出ることになったんだ。姉様があんな目に遭ってしまったから」
「そう……だから今、馬車に乗っているのね」
「……姉様、ごめん。まさか町長の息子があんなことするとは思わなかった。そもそも『姉様の問題だろ』って、姉様一人にあいつのこと背負わせてたのがいけなかったんだ。僕は男なのに、姉様のことは僕が守らなきゃいけないのに……」
自責するローランの瞳からは、堰を切ったようにボロボロと涙が溢れ出した。馬車内には、いつも強気な彼のすすり泣く声が響く。
未遂とはいえ、姉であるクラリッサが襲われてしまったことに相当なショックを受けたのだろう。握りしめた拳の上には、ぽたぽたと涙が落ちた。
「泣かないでローラン。あなたのせいじゃないわ。ローランの言っていたとおり、私が最初からハッキリ断らなかったのもいけなかったのよ」
「これまで、姉様が悪かったことなんて何も無いよ。知っているんだ、いつも僕とばあやの事ばかり優先して、姉様はお腹をぐーぐー鳴らしていたことも。なのに僕は姉様に甘えて……」
「ローランのことを優先するのなんて当たり前じゃない。可愛い弟なのだから」
「姉様……」
クラリッサの言葉に、ローランの涙がぴたりと止まる。そして彼は涙に濡れた手でゴシゴシと目をこすり、パンッと手のひらで頬を叩いた。
「……姉様、僕、もっと強くなるよ。きっとフロレンシオ子爵家を取り戻す」
「えっ……取り戻す?」
「僕が姉様のこともばあやのことも守るんだ」
ローランの決意に首を傾げていると、馬車がゆるやかに歩みを止めた。
そういえばこの馬車はどこへ向かっていたのだろう。クラリッサ達には行くあても無いし、もとより馬車を借りられるほどのお金だって持ち合わせて無かったはずだ。
ならこの馬車は一体どのようにして手配したというのか。上質な内装に、ふかふかの座席。見れば見るほど素晴らしい馬車なのだけれど……
「さあクラリッサ様、中継の町に着いたようですよ。もう日も落ちましたので、今日はここで宿をとることにいたしましょう」
「え……? ばあや、教えて。私達は一体どこへ向かっているの?」
「王都でございますよ。帰るのです、私達の屋敷に」
「どういうこと? だって屋敷には叔父が――」
事情が飲み込めないクラリッサの背後から、コンコンと扉をノックする音がする。
「失礼します。町に着きましたが、クラリッサ嬢の意識はいかがですか? 馬車を降りることはできますか」
外から聞こえてくるのは、あのトルエノの声だ。
どうやら違う馬車で同行していたらしい。
(そういえば……)
ハリオに襲われた時、怒り狂うアベルを止めていたのはトルエノのように見えた。あれは見間違いではなかったのか。ということは、ハリオから助けてくれたのはやはりアベルだったのかもしれない。
(でも、なぜアベル殿下が? カルボの町になにか御用があったのかしら……? それとも偶然? いえ、偶然あのようなところ通りかかるはずがないわ)
いまいち状況を飲み込めないクラリッサをよそに、ばあやは「今、降ります」と返事をしてしまった。とりあえず馬車を降りなくてはならないようなので、急いで身支度を整えていると、あちらから扉が開けられる。
「アベル殿下……」
「目が覚めたか」
扉の向こうには、声をかけたトルエノと――やはりアベルが立っていた。
(本当にアベル殿下だわ……)
普段見慣れた制服姿ではなく、シャツにマントを羽織っただけという出で立ちの王子アベルがそこにいる。
相変わらず冷たくも感じられる瞳は、まっすぐにクラリッサを見つめていた。三ヶ月ぶりのアベルに、まるで現実感が湧いてこない。
「さあ、手を」
「手?」
アベルはこちらに向かって手を差し出している。
一瞬何を言われているのか分からなかったけれど、もしかしたらクラリッサをエスコートしようとしているのかもしれない。あのような場面に居合わせて、酷い目に遭ったクラリッサを気遣って、それで……
(『氷の王子』も、このようなことをされるのね)
誰にも惑わされることの無いアベルが、このように気遣ってくれるなんて……クラリッサは少し意外に思った。
月明かりの下、差し伸べられた手は美しい。スラリとした長い指に、滑らかな白い肌。爪も形良く整えられている。
それに比べてクラリッサの手といったら、日々の生活に追われガサガサとしていて、所々に傷もあり……とてもじゃないが、アベルの美しい手を取れるようなものでは無かった。
「どうされたのですか、クラリッサ様? 降りませんと……」
なかなか動かないクラリッサに、後ろからばあやが下車を促した。目の前ではアベルが手を差し出したまま待っている。
馬車から降りるには、この手を無視することは出来ない。けれど自分の荒れた手がこの彫像のように美しい手に重ねられるのかと思ったら、クラリッサはなかなか踏ん切りがつかなかった。
とその時、ローランがクラリッサの前へ割って入る。
「アベル殿下。姉様はあのような事があったばかりです。ご遠慮願えませんか」
「ロ、ローラン!?」
「男性に触れるなんて……今の姉様は怖いに決まっています。どうかご理解下さい」
どうやらローランは、さっそくクラリッサを守ろうとしてくれているらしい。少し勘違いされてはいるけれど、可愛い弟の気持ちは嬉しいに決まっている。思わず胸がジンと熱くなる。
「……そうだな。すまなかった」
「いえ、せっかくのご厚意を申し訳ありません」
「宿に部屋をとってある。ゆっくり休むといい」
アベルは差し出した手を仕舞うと、こちらに背を向け去っていった。




