作り笑い②
クラリッサは今日もシンと静かな湖面を眺めながら、思いにふけっていた。このあいだローランから言われた言葉は、今も胸に刺さったままだ。
(思えば、私ってヘラヘラしてばっかりの人生だな……)
今日も釣果はゼロだった。昨日は一匹。一昨日は二匹。やっと釣れた貴重な魚は、なるべくローランとばあやに食べてもらう。彼等にひもじい思いをさせるわけにはいかない。
しかしクラリッサも人間、お腹は空く。こうして釣りをしている間にも、きゅるる……とお腹が悲鳴をあげている。
誰もいなくて良かった。派手にお腹の音を鳴らしていい場所なんて、クラリッサにはもう湖くらいしか無いのだ。屋敷では平気なフリして「私は大丈夫!」と強がっている。姉として、ローランには気を遣わせたくなかった。
今日こそ、魚を釣り上げなければ。それも沢山。道端で待ち構えるハリオに『お困りでしょう?』なんて言わせないくらいに――
『君は我が家に頼らないと、この町で生きていけないでしょ?』
会う度に、ハリオからはそのような優越感が透けて見えるのだ。
ローランからの指摘を受けて危機感を覚えたクラリッサは、あの後、町長一家に断りを入れた。
しかしこちらが何度拒否をしても、ハリオの不遜な態度は変わらなかった。住民達からの視線も、もう二人の結婚は揺るがないものだと物語っている。
この小さなカルボの町で、立場としては圧倒的に彼の方が上だ。生活に困窮しているクラリッサが何を言おうと、無駄な気さえさせられた。
(私がヘラヘラしているから、なめられるのかしら)
愛嬌があるのは自分の美徳であると思っていたけれど、それが裏目に出てしまった。今さら態度を変えたところで、あまり効果はなくて。
思わず、アベル王子を思い出した。
彼は孤高の人だ。一貫してまったく笑わなかった。擦り寄る者がいても、好意を寄せる者がいても、惑うこと無く一切なびかなかった。
彼をコントロールできるのは彼自身だけだった。アベルなら、軽んじられることなんて一度だって無いだろう。まあ、王子というだけでそんなものとは無縁なのかもしれないけれど――
(教えを乞いたいわね……どうしたら、そんなに強くいられるものなのか……あっ)
湖面で、浮きがツンツンと揺れている。
魚が食い付いている!
待ちに待った瞬間に、クラリッサは釣竿を握りしめたその時――
「おや、クラリッサさん、ここにいたんですね」
背後から一番会いたくない人物が現れた。
「……ハリオさん」
「釣れましたか? もう、釣りなんかしなくてもいいのに。うちが助けてあげるのだから」
白々しい声にゾクリとした。まさか待ち伏せでは飽き足らず、町の外まで追ってくるなんて。
せっかく食い付いた魚は逃げた。かわりに、彼のじっとりとした足音が近付いてくる。二人きりだ。こんな、森の奥で。
「な、なにか御用ですか」
「御用だなんて……いつまで他人行儀でいるつもりですか、クラリッサさんは」
クラリッサは思わず後退る。しかし彼と向き合えば、背後は湖だ。これ以上逃げられない。
「もうすぐ夫婦となるのですよ。僕に遠慮しないで」
「私、あなたとは結婚しないとお伝えしたはずです! ごめんなさい、でも無理です」
「恥ずかしがらなくてもいいのに」
「恥ずかしいわけじゃありません! 嫌なんです、結婚が!」
「素直になったほうが良いですよ、そろそろこんな生活辛いでしょう?」
(話が通じない……!)
何度断ったところで、受け入れてはもらえないらしい。彼との距離はますます近付いて、泣きたくもないのに涙が出そうになる。
泣いてはだめだ。ハリオは追い詰められたクラリッサを見下ろしながら、薄ら笑いを浮かべている。これ以上、こんな男に弱味を見せてはだめなのに。
どうしても足がすくんで――
「あなたには私の妻になってもらわないと。ねえ、女神様」
「……え?」
「噂になっている女神様は、クラリッサさんなのでしょう?」
ハリオからはとうとう腕を掴まれた。痛い。腰が抜ける。動けない。
そのまま押し倒されたクラリッサは、彼の瞳に映る自分を見た。銀髪にブルーグレーの瞳、母から譲り受けた金の指輪――言い伝えられてきた女神そっくりの姿。
「ち、違います。あれは勘違いされて」
「誤魔化しても無駄ですよ。クラリッサさんが来てからなのです、女神の噂が立ったのは。さあ、どうやって奇跡を起こすのです? もしかしてその指輪の力なのですか? その指輪があれば、私の願いも叶いますか」
「あなたの願い……?」
ハリオは欲深い瞳でクラリッサを見下ろしている。
まさかとは思うが、彼はクラリッサにそのような力があると思い込んでいるのだろうか。だから、こんなにもクラリッサに執着しているのだとしたら――
「私は富も名声も欲しい」
「富と名声……? な、何を言っているの」
「私はこんな田舎町で終わりたくない。あなたは生涯、私の隣で願いを叶え続けるのです」
怖い。
彼の黒い本性が、クラリッサにまとわりついてくるようだ。ゆっくりと彼の顔が近づいてくるのに、クラリッサの唇は震えることしか出来なかった。
男の腕は強くて、羽交い締めにされれば逃げることも叶わなくて。でも恐怖で、声も出なくて……
(誰か、助けて……!)
目前に迫るハリオ。
絶望を感じたクラリッサは瞼を固く閉じ、全力で拒んだ。
それでも、お構いなしに頬へかかる吐息。身体をまさぐる手のひら。なぜ、こんなことに――
(やめて!!)
目の前が真っ暗になったその時。
すぐ側で鈍い音がすると同時に、大きな悲鳴が上がった。
「ぎゃあ!!」
クラリッサの上から、重い身体が離れていく。そしてその大きな身体は草むらに倒れ込み、離れたままのたうち始めた。どうやら叫び声は、ハリオのものであったようだ。
(な、何が起こったの……?)
彼に組み敷かれていた手も、ようやく解放された。
何がなんだか分からないクラリッサは、瞼を薄く開け、こわごわとその光景を目に入れる。
そこには――
「……アベル殿下?」
もがき苦しむハリオの向こう側に、なぜかアベルが見える……気がする。
彼は鬼のような形相をして、苦しむハリオを何度も踏み付けている……気がする。そのままでは今にも殺してしまいそうな勢いに、影からトルエノまで現れて。我を忘れて怒り狂うアベルを、なんとかして諌めようとしている……ように見える。
恐怖のせいで、とうとう頭がおかしくなってしまったのだろうか。王都にいるはずのアベルが、こんな場所にいるはずもないのに。冷静沈着で感情に起伏のない彼が、このように激昂するわけないのに。
でも……
「あ、ありがとうございます……アベル殿下……」
幻でもいい。彼らのおかげで助かった。ハリオの前では我慢し続けていた涙が、ようやく目尻から溢れ出す。
(だ、だめ、涙が……)
アベルやトルエノの前で、こんなみっともない姿を見せたくはなかった。
けれど朦朧としたクラリッサの頭はもう限界を迎えていて。ギリギリのところで繋いでいた意識は、暗転とともに途絶えてしまった。