暗闇の下水道に堕ちた水道水 〜9月10日は「下水道の日」〜
(*´ー`*)*下水道を舞台に水の擬人化で書き上げた純文学です。軽めのBL要素があります。
始まりは小さなひび割れだった。
「へぇ、こういう風になってるんだ」
「……おい、清らかな水道水の坊ちゃんが来るところじゃねぇぞ」
日の当たらないゆるい傾斜の下水道に似つかわしくない、清浄な気配を感じた。
汚泥にまみれ、重い足取りで下水道を下っている俺たちは、上にあるひび割れを見ようともしない。
鬱々とした表情で、黙々と下流に足を運ぶ。
俺もそんな集団の一人だった。
しかし、その時は魔がさしたとしか言いようがない。
清浄な気配を追って、思わずひび割れのあるところを見上げてしまった。
ボロボロの服に伸び放題の髪に、無精髭。どこからどう見ても俺はただのくたびれたおっさんにしか見えないだろう。
それなのに俺と目が合うと、おっかなびっくりと言った様子ながら、綺麗な緑色の瞳は、まっすぐにこっちを見つめていた。
顔だけを覗かせているが、隙間からこぼれ落ちた髪は下水道の暗闇の中でも輝いて見える銀色。鼻筋も綺麗にとおっていて、ほころんだ唇は見たことがないほど艶やかだった。
それが真っ白な肌の上にお行儀よく配置されていて、ひと目見ただけで俺は苛立ちを覚えた。
「下水に落ちてくるなよ。お前みたいな奴が来るところじゃない」
苛立った気持ちを隠しもせずに、俺は言った。
「水が高いところから低いところに落ちるのは、自然の摂理でしょ?
ボクだって行こうと思っても下水に来られるわけじゃないし。
もう少し歓迎してくれてもいいんじゃないの?」
軽やかに笑う水道水の奴は、穢れを知らない育ちの良さが滲み出たお綺麗な顔で俺に笑いかけた。
「そりゃあ、ボクはたくさんのお金と設備と薬を使って、とても綺麗にできあがっているけどね?
それこそ、蛇口から直接飲んでもお腹を壊さないくらいのレベルだけどね?」
「そんな育ちのよい坊ちゃんが、何の用だよ」
「だーかーらー、水道管が古くなってて漏れてるの!そんで下水道管のひび割れのところに着いちゃったの!
ボクの責任じゃないもん」
ぷいっと分かりやすく口を尖らせ、怒っているポーズをとる。
面倒くさい。
うんざりとした顔で見上げていると、急に明るい声で話し出した。
「ねぇねぇ、それよりおじさんは汚水なんだよね?
ボクらの所に比べてずいぶんパイプの幅が大きくない?
こんなにゆったりしたスペースで。いいなぁ〜」
「はっ。ずいぶんと育ちのいい嫌味で。
お前ら水道水は金をかけられてるんだろ?人間たちの住処にいつでも届けられるように、清潔な管に高い圧力をかけられて……それこそ期待されていると同じだけの圧力を受けて」
我慢のできなくなった俺は、眉間に皺を作りながら水道水を睨みつけた。
かつての綺麗な水道水だった頃の俺の姿を、汚水になって下水道管に流れる今の俺に見せるなんて。
これほど酷いこともない。
ひび割れという人間たちのメンテナンス不足による怠慢は、巡り巡って、無知だった俺を思い出させる棘となって、今、暗闇の中に落ちてきた。
***
空から降ってきた時の記憶はない。
気がつけばたくさんの仲間の水たちが流れる所に一緒にいた。そう、川の中だ。
そこから取水され、大きなゴミを除かれながら、薬を混ぜられ、もみくちゃにされる。
たくさんの仲間の水たちと乱れ合いながら、余計なものが落とされていく。
また薬をやられて、気がつけばキラキラとした汚れの知らない俺たち………水道水が出来上がっていた。
「虫がわくなんて信じられない」
「山とか川なんて、汚れるところじゃないか」
「綺麗なぼくたちには人間の役に立つという崇高な役割があるんだ」
濁りも澱みもない透明な俺たちは、どこまでも清く、どこまでも無知だった。
蛇口から直接飲めるほど衛生レベルの高い水を当たり前のように享受する日本人たち。
そんな傲慢な奴らに俺たちは、この時まだ憧憬と希望を抱えていた。
「きっと朝の料理に使われるんだよ」
「ぼくは寝る前のコップ一杯の水になるんだ」
高い山の上にある配水池……大きなタンクの中で、俺たちは夢を語り合った。
この高い衛生基準を維持した水道水はきっと、人間たちの生命を維持するために、使われるに違いない。
そう思い込んでいた。
あの時の俺らは、現実の残酷さを知らなかった。
人間たちからの期待に比例した(と思っていた)高い圧力を受けて、細い管を勢いよく駆け抜けた。そして、俺たちは色々な所に送水された。
学校に会社、福祉施設、すべての家々に、俺たちは意気揚々と送られていった。
きっと喜ばれるに違いない。
きっと必要とされるに違いない。
きっと人間の役に立つに違いない。
そう、俺たちは信じていた。
人間に会うまでは。
水道管の暗闇の中から、光の中へ飛び出る。
蛇口から俺たちは迸り出た。
さあ、どんな奴が飲むんだろうか!
わくわくとした気持ちを抱えながら、飛び出た先で聞こえた声はーーー。
「やだ。薬くさい」
「手を洗ったら冷蔵庫に買ってきた天然水が入っているから、それを飲むといいよ」
俺はまるで汚いものを見るかのような視線を向けられ、一瞬で流し台の上に叩きつけられると、あっという間に排水溝へ落ちていった。
なんだ?
俺は飲んでも安全な水だぞ?
それが買われてきた水と同じものと思われることなく、一瞬で下に見られていた?
薬くさい?
それこそ安全な証拠だというのに!
俺は混乱に陥り、状況を理解すると同時に絶望感に襲われながら、文字通りに下へ下へと落ちていった。
行き着いた先は下水道。
ゆるゆるとした傾斜に、あちこちから仲間たちが集まってくる。
別れる前は揃いの制服姿で、若葉の瑞々しさの似合う少年たちのようだった俺たちは、うらぶれた青年たちの姿になっていた。
頭から滴るぬめりを片手で払いながら、仲間たちと話し始めた。
「……お前、ここに来るのが早すぎないか?」
上着はどこかで脱げ、ボロボロになったシャツ姿になった仲間を見て、俺は胸が痛んだ。
だが、俺だって似たような姿なのだろう。
「お前だって。俺は手を洗われて終わりだ…」
俺が恥を告白すると、仲間は吐き捨てるように言った。
「ふんっ、それならまだマシじゃないか。ぼく……いや、オレなんてなぁ、蛇口の締め忘れで、浴槽からこぼれ落ちて終わりだったよ」
仲間の受けた無残な仕打ちに俺は声を失くした。
「……そんな、あれほど清潔に保たれて届いたのに。水の出しっぱなしだと……?」
そこにシャツだけの姿になった仲間が会話に加わった。
「お前はいいよな。手洗いなんて、清潔な水だからこそ有効なものに使われてよ……」
「……お前は、どうだったんだ?」
覇気のない仲間から答えを聞くのが恐ろしかった。しかし、ここで聞かなければ、こいつは苦しみを抱えたまま流れて行ってしまう……。
乾いた笑いをして、そいつは言った。
「歯磨き途中の、水の出しっぱなしだよ……」
「そんな……」
目の前にいるのに、水を止めることなくただ流していたのか? その人間は……。
風呂水の蛇口締め忘れは、その場に管理する人間がいないからこそ起きる悲劇だ。
だが、歯磨き途中の水の出しっぱなしなんて、ただの怠慢じゃないか……!
俺たちは慰めることもできず、力を失ったまま下水道管に横たわり、ゆっくりと流れていく仲間を見送ることしかできなかった。
下水道の管は、広い。
水は、高い所から低い所へ流れる。
水の性質を充分に理解した人間たちの手によって作られた地下の迷宮で、俺たちは止まることなく下へ下へと流されていく。
人間の役に立つどころか、無益な水の扱いをされた仲間たちは、力を振り絞って立ち続けることもできなくなり、ひとり、またひとりと緩やかな下水道の流れに身を任せて消えていった。
どれくらいの時間が経っただろうか。
もう仲間たちはすべていなくなったと思っていた頃、忘れかけていたかつての仲間に再会した。
「……よう、ずいぶん遅かったじゃないか」
そいつは文字通りにクソまみれになって俺のところまで流れてきた。
生活排水は、すべてここに流れてくる。
雨水のヤカラたちは、ここには来ない。
地域によっては、生活排水の俺たちと雨水の奴らが一緒の下水道に流される合流式があるが、ここは別々の管で流されている分流式だ。
だから、会ったこともない雨水たちは、恐ろしい印象しかない。
話を戻そう。
つまり、クソまみれになって流れてきたコイツは、外でクソにまみれたわけじゃないということだ。
それは、つまり。
「……人間の口から体に摂取されたんだな、お前は」
「あぁ、うまそうに飲んでくれたよ」
臭い匂いをぷんぷんさせながら、ソイツは満足気に笑った。着ているものはボロボロで、ほとんど原型を留めてもいない。
しかし、幸せそうに笑う仲間の手には、クソの手が握られていた。
「……それでな、そこで運命の相手に会ったんだ。
いや、運命になった、が正しいかな」
照れたようにはにかみながら、クソと見つめ合って、だらしない顔で笑っていた。
クソはどこに顔があるのかわからないボサボサに乱れた髪の毛の下から、俺に話しかけてきた。
その声だけは、下水道に不似合いなほど、綺麗に響いた。
「初めまして。かつては食物だったものです。
わたし、この水さんと、長い長い人体の旅を経てここに辿り着きました」
そして、クソとクソまみれのソイツは、うっとりと見つめ合った。
だが、俺は、いや、ソイツも含めてかつての仲間たち全員が知っていた。
俺たちが行き着く先は、下水処理場……終末処理場だ。
そこで川や海に流しても問題のない水質にされる。
つまり、クソまみれの水は、クソとそこで別れなければならない。
とても短い時間で終わる運命の相手だ。
俺たちは残酷な真実を知っている。そう、何故だか知っているんだ。
人間たちに作られた水道水としての過去しかないはずなのに。
沈黙が下水管に満ちた。
知るはずのない終末処理場についての突然の理解に対して、俺は動揺した。それでも幸せそうに見つめ合うコイツらに何か声をかけてやらなければと、焦燥に駆られた。
暗闇の中、数秒間、俺は顔を伏せた。
悩んだ末に、俺はクソみたいな俺たちにお似合いの結末だなと口に出してやろうと思ったけれど、どうしてもできなかった。
せめて見送るくらいはしてやらないと。
そう思って顔を上げた時、クソまみれの奴とクソは、すでに姿を消していた。
「……潔すぎるだろ」
時間を引き延ばそうともせず、下水道管が作り出す傾斜に身を任せ、そのまま流されていったのだった。
残り時間の短い、運命の相手と共に。
*
静かに下水道の汚水は流れ続けている。
絶え間なく。
人間たちの暮らしを汚すことなく、淡々と、水の性質そのままに、下へ下へと流されていく。
暗闇の中、俺はできる限りその流れに抵抗した。
踵を泥の溜まった下水道に突き刺すように押し付け、流されまいと踏ん張り続けた。
どれほど頑張ったところで、終末処理場に行く時間を遅くするだけの無意味な抵抗ではあったが。
それでも俺は、このまま消えてしまうことが怖かった。
見知った仲間たちをとうとう一人も見かけなくなった頃。
下水道管にひび割れができた。何かの衝撃を上から受けたのか、それともただの劣化が重なったのか。
そこから本来なら会うことのない水道水が顔を覗かせた。
暗闇の中にいる俺には、穢れなき水道水は眩しすぎた。
目を細めながら、見上げて俺は言った。
「そんなに呑気にしていていいのか?お前、そのままこっちに落ちて終わるぞ」
すると、イタズラをする子どものような笑みを浮かべると、ソイツは言った。
「はははっ。闇堕ち? みたいな感じ?
いいよ、ボクを見つけれてくれたおじさんのこと、ボク気に入ったから。……だから、おじさんになら汚されてもいいよ?」
ぞくりと恐怖にも似た喜びを感じた。
コイツをこのまま下水に?
人間に作られて、人間のために管を通ってきたのに、ひび割れのせいで何の役にも立たずに、汚水に堕ちるのか?
それは過去の何も知らなかった無知で傲慢な自分を責め尽くすようで、仄暗い満足感を作り上げた。
下水道管のひび割れにまで落ちてきているんだ。
もう人間たちが望む清潔な水道水でもない。綺麗な顔をしているが、今はもうその体は汚れに堕ちている。
手洗いで終えた俺の水道水としての命よりも、無残な終わり方をしてもなお、その綺麗な顔のままでいられるのだろうか?
「ふふっ」
「おじさん?」
「ああ、いいぜ。そこまで来ているのなら、ここにまで堕ちてきても同じだろうな。
来いよ。俺の上に落ちてこい」
流れのゆるい下水道に溜まり始めている泥が俺をソイツの真下に留めている。
ーーーさあ、落ちてこいよ。
お綺麗なお前の顔が絶望に歪むまで、俺が汚してやる。
お前が気がついた時はもう手遅れだ。
人間に求められて作られながら、一度も人間に使われることなく汚されて終わるんだ。
歪な悦びに口元を震わせ、俺は上に向けて両手を広げた。
「さあ、来いよ」
ひび割れの隙間から顔を出していた水道水の奴は驚いたように固まった後、花がほころぶように笑った。
「ありがとう」
ーーーありがとうだって?どこまでもお綺麗な奴はおめでたい。
声をあげて笑い出したい気持ちを抑えながら、俺は水道水の奴が落ちてくるのを見ていた。
ひび割れから顔を出し、そのまま肩で隙間を広げると、勢いをつけて俺の胸元に向けて、飛び出してきた。
ぱしゃん。
足元は汚水にまみれ、俺の肩に添えた手には、一瞬でヘドロ特有の匂いが染み込んでいった。
銀色のふわふわとした髪が、俺の肩にそっと押し付けられる。
ーーーなあ、自ら望んで汚水になった気分はどうだ?
俺は元水道水の奴の表情がどんな風に歪んでいるのかを見るつもりで、肩に置かれた手を握り、顔を覗き込んだ。
すると、優しい口調で奴は「ありがとう」と言うと、それはそれはお綺麗な顔で俺と目を合わせて笑いやがった。
それは終末処理場間近な下水道の暗闇には不似合いな、美しい笑顔だった。
俺のにやにやとした笑いは一瞬でかき消えた。
ーーー笑っている? ヘドロの中で、なんで綺麗にお前は笑っていられるんだ?
怒りで視界が眩むのを感じた。
歪んだ満足感は跡形もなく消え、気がつけば罵声が口から出ていた。
「ふざけんなよ! お前が今どうなっているのかわかってんのか!!
あれだけの金と薬を使われて、なんの役にも立たない無能なまま汚水になったんだぞ!
何がありがとうだ!」
ヘドロを撒き散らしながら、俺は叫んだ。しかし、ソイツは目を逸らすこともなく、お綺麗な顔で笑い続けていた。
「おじさん、なにを言っているんだい?
水はどこにいようが水だよ。
金と薬を勝手に使って、一方的に役割を押し付けてきた人間の期待なんて、どうでもいいよ」
にっこりとトドメのように口角を上げる。
だが、その緑色の目は、ぞっとするほど冷ややかだった。
俺は息を呑んだ。
奴の顔からは、さっきまでの笑みはもう消えていて、ヘドロよりも、下水道管の暗闇よりも、光を感じない眼差しを俺に向けていた。
「………ねぇ、おじさん。
さっきから、期待とか役に立たないとか、無能とか、それ、おじさんの中の傷だよね?
それって………ボクにはなんの関わりもないよね?」
「………それは」
「おじさんは人間の役に立ちたかったの? 人間に選ばれて取水されて、綺麗綺麗にされて、それで人間の役に立たないと無能なの?」
汚水になったはずなのに汚れもせず綺麗な顔のままでいるソイツから、次々に出てくる言葉に俺は痛みを覚えた。
ーーーここまで汚れに身を堕とせば、もう傷つくこともないと思っていたのに。
「ねぇ、おじさんは覚えていないの?
水にもなれないほどの軽い水蒸気の靄で、空を漂っていた時のことを。
冷やされて、ボクたちが集まって、水になった時のことを。
ボクたちは人間のために、地球に存在している訳じゃないんだよ?」
「やめろ……」
「空から落ちて、森の中の木に、根っこから吸い込まれて、葉っぱから吐き出されたあの楽しい記憶はないの?」
「やめろ……」
「人間のいないところに住む動物たちの体の上に落ちて、舌に絡め取られて飲み込まれた時の記憶はないの?
「……や、やめ」
「ねえ、おじさん。そんなに人間のことを言うくせに、どうして生まれ変わることに抵抗するの?
どうして、他のおじさんたちと同じように下を向きながら、流されていかなかったの?
おじさん、本当は人間に搾取されて終わる一生が、嫌なんじゃないの?」
とん、と、何かが体に当たったように思った。
気がつけば、俺の上に元水道水の奴の体が乗っていて、堰き止めていたはずの足元の泥も霧散していた。
「一緒にいってあげる。
本当はボクも暗い土の中で、ひとりで消えていくのは、怖かったんだ」
「土の中って、お前。ここは下水道管の中……」
「ここは深いから先に気がついていると思ったんだけどなぁ?
………もうすぐ大きな地震がくるよ。
水道管なんて、壊されてしまうくらいの、大きな地震が」
ふっと、口元だけでソイツが笑うと、下から突き上げるような振動が下水道管を揺らした。
「さっきも地震があったんだ。それで、水道管が壊れて。
突き上げられて自分がどうなってしまうのか、分からなくなって怖くなって。
そうしたら、おじさんのいる所に落ちてきていたんだ。ひとりでいくのが怖いなんて、水にあるまじきことなんだけど。
ボク、おじさんと一緒にいきたくなったんだ。
一人だけ、顔を上げてボクを見つけてくれたおじさんと一緒に。………最期まで」
上に乗っていた元水道水の奴が俺の背中に腕を回し、足を股の間に入れて俺の太ももに絡みつけてきたのを感じた。
「混じり合っても、ボクがおじさんのことを覚えているから、空に戻った時に教えてあげるよ」
ふっと下水道の流れが早くなったような気がした。それは俺の中で折り合いがついたからかもしれない。
ーーーそうか。俺は忘れていたのか。
人間に作られて、人間のために使われなければ、俺の水道水としての、水として存在価値は無いと思い込んでいた。
川の中にいた時には雨水も一緒に流されていたのに、俺は忘れていたんだ。
水はみんな、空から落ちて、また空に戻って行く。
海にいても、川にいても、気がつけば空にいくんだとみんな笑って言っていた。
また会おうと、軽い挨拶をして、取水口で別れたみんな。
どうして忘れていたんだろうか。
「薬の作用かもね」
くすくすと耳元でソイツが言った。
「人間が飲む水に、水たちの記憶がたくさん混じっちゃうとお腹にはよくないからね」
「そんなもんか、な」
「うん。ボクが上水道から下水道管に落ちる途中で、土の中を通った時に全部思い出したから」
「そうか……」
ドン、ドン、ドドンと、突き上げるような振動の後、下水道管に轟音がこだました。
こんなに大きな地震だと、マンホール部分が地面から突き出てるだろうなと思った。どこかの下水道管は外れてしまっているかもしれない。
「水道水の仲間は送水管から勢いよく飛んでいったよ。畑に着地した奴は大喜びで土に染み込むのが見えた」
「お前は俺みたいな奴のところに落ちてきて、残念だったな」
「ふふふ、そんなことはないと思うけど………それじゃあ責任をとってもらおうかな?」
もう少しで終末処理場に辿り着くだろう。
けれど、この地震の影響でどこまで処理が進められるのかはわからない。
もしかすると、待たされている間に空に戻ってしまうかもしれない。
それもいいだろう。
俺はしがみついたままのソイツの体をぎゅっと抱きしめた。
「人間にとって必要な水にされても、それをどう使うのかは人間次第だもんな。
………どう使われようが、俺は水に変わりはないんだし、使われなかったことで、卑下する必要も、無いんだよな」
記憶がある中で今が一番力が抜けている。
ずっと自分に課していた重責がなんの意味もないことだったと理解した今、緩やかに下に落ちていく下水道管の感触も悪くないと思えた。
「この下水道だって、人間たちがボクらを汚した後に、自分たちの生活圏が汚れるのを嫌がって作ったものだからね。何度も通っているけど、だんだんとよくできていっているよ。人間たちのところを通りすぎたら、終末処理場まで一直線なんだもの。
ここであんなに抵抗していたの、おじさんが初めてだよ。
……まぁ、だからボクもおじさんに興味を持ったんだけどね」
幸せそうに俺の首筋に頭を押し付けると、元水道水のソイツは楽しそうに笑った。
「でもね、どこにいてもボクらは水だから。
人間の都合で存在が変わったりしないんだよ。綺麗だとか、汚いとか、有用だとか、飲用に適さないとか、人間が勝手に分類しているだけで」
ふふふっと笑うソイツの声が俺の中に染み込んでいった。
「大雨とか豪雨とか、ボクらが束になって動いたら、人間ごときにはどうしようもないのにね。
水を思い通りにしようなんて、ふふふっ。
それでも昔よりはボクらの行き先をコントロールできるようになってるけど……ん〜……まだまだだね」
「人間どもは大変だろうが、俺は地震に感謝するとするか……」
「ボクと一緒になれたから?」
くすくすと笑うソイツに、俺は何も言わずに力を込めて腕を回すと、そのまま流れに身を任せて、終末処理場へと向かった。
ーーーどこまでも、どこまでも、一緒にいこうぜ。
そう口にしたのかどうか。
記憶は曖昧だったが、何度も空から落ちて、空に帰っても、ソイツが俺から離れることはなかったから、どちらでもいいなと俺は思っている。
end