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幼年の日の冒険

作者: 新井 のなめ

 人通りの多い時間帯、駅の固い床からは様々な足音が聞こえてくる。ハイヒールの高い音、革靴の小気味の良い音。靴の種類だけではない、その人の体重や歩く速度によってさまざまな音が聞こえる。

 春が終わり、空気が湿気を含みだす六月の金曜日の夜。駅を行く人々は一週間働いた自分の身体を労いながら、週末の過ごし方に思いを馳せている。夜だというのに、皆足早になっている。

そんな中、瀬川渉は靴底を引き摺るように歩ていた。その癖のせいで靴底はすり減り、就職してから五足は履きつぶしていた。皺の入ったワイシャツに丈の少し長いズボン、しかも、お尻の部分が擦れてニスでも塗ったかのように光っている。整髪料は落ちかけ、脂と混ざったその髪型は現代の落ち武者と呼ぶにふさわしいものだった。


 渉の週末に予定はなく、ましてや今晩の飯さえ決まっていなかった。仕事が特別忙しいわけでもなく、職場の人間関係が悪いわけでも無い。しかし、何かをやろうという気力は湧いてこない。どうして他の人はそんなに活力的なのだろうと日々、疑問に思っている。渉は職場の後輩がバーベキューに行くと嬉しそうに話していたのを思い出した。いいな、とは思うが行きたい、とは思わなかった。

渉は頭の中で自分の明日の過ごし方を想像する。十時ごろに起きて、昼過ぎまでそのままベッドでスマホをいじって、カップラーメンを食べて。きっと気が付けば日曜日の昼すぎになっているのだろう。自分が先週の週末を何して過ごしたかさえ思い出せないし、きっと来週には明日明後日の事なんて思い出すことすらないだろう。

電車の広告に、人生は四千週間しかないのだから今を生きろ、という自己啓発本の売り文句を思い出す。不意に焦燥が込み上げる。小さい頃はゲームをして一日中過ごしたいと考えていたのに、大人になってからは時間の浪費だと感じるようになってしまった。


 ため息を吐く。次の電車まで少し時間がある。いつもと違う事をしようと、改札を出て、駅構内を歩いてみる。食品サンプルの並ぶ食堂が視界に入った。唐揚げ、ハンバーグ、カレー、オムライス、ラーメンと誰もが好きなメジャーなメニューばかりが並んでいる。

 ふと、昔ここで食事をしたことを思いだす。くたくたの体で、それこそ摂取と呼ぶに相応しい食事だった。事の経緯は、そう、一本の電話だった。半ば無理矢理とも思える冒険だったが、今思えば、確かにあの日は充実していた。




 その電話は夏休みのお昼に冷やし中華を食べている時だった。電話に出た母のよそ行きの声が渉は嫌いだった。そのわざとらしいその口調が聞こえないように、中華そばを大きく啜る。パンパンに頬張ったその口に、さらに細切りにされた胡瓜とハムを押し込む。自分の咀嚼音で音量を下げられたテレビの音は聞こえなかった。

「今から!?」

母の苛立ちと驚きの混じった声に咀嚼を止めた。図工の時間に作った風鈴がちりんといった。

「えぇー、無理よ。今日は、徹のお迎えに行かなきゃいけないって言ったでしょ?」

 母が受話器を持っていない方の手で自分の腰をとんとんと叩いた。受話器の向こうで落胆する声が聞こえた。

「取りに返ってくることは出来ないの?……そう、それがないとどうしてもだめなの?はぁ、分かった。じゃあ我が家の秘密兵器に頼むことにします。え?おばあちゃんじゃないわよ。おばあちゃんは今友達と旅行に行ってるもの。そう、そのまさかです。それじゃ、16時に駅に着くように向かわせるから。じゃ」

 受話器の向こうからわぁわぁと喚く声が聞こえる。危ない、とか、まだ小学生だぞ、とかそれら一切合切を無視して母が電話を切った。そして、私の方を向き直って言った。

「ワタちゃん、今からお使いに行ってほしいんだけど」

 渉は知っていた。母が笑いながら語りかけてくるときは決定事項だということを。


 母の書いたメモを頼りに電光掲示板を見る。読めない漢字が多くてまるで絵合わせのようだった。駅には至るところに時計があり、メモに書かれた時間通りに電車が来るので、それほど難しいことではなかったが、上を見上げすぎて首が少し痛かった。背中のリュックには父の仕事の書類が入っているらしい。

 ホームに電車が止まる。電車の行き先とメモを照らし合わせる。母が書いてくれたこのメモには乗る駅と降りる駅だけでなく、その電車の終点とそれぞれの時刻が全て事細かに書かれていた。慣れないパソコンを使って必死に調べてくれたのだ。

リュックの肩紐をぎゅっと握って電車に乗り込む。隣の扉に親に手を引かれて乗り込む同年代の男の子を見かけた。渉は少しの優越感に浸りながら、目はメモ、耳は車内アナウンスに集中させた。


「お父さん!」

 駅で心配そうに首を振っている父親の姿を見つけたときには走り出していた。行き交う雑踏の中から渉を見つけた父は腕を広げ、抱きとめた。

「よく来たな!すごいぞ!」

 暑いのに背広を着た父親からは、汗と煙草のにおいがした。リュックの中身を渡すと、父親はありがとうと大袈裟に言った。

 帰りは大丈夫か?と聞いて来た。

「うん、これ、お母さんが書いてくれたやつがあるから大丈夫。あ、でも切符だけ買ってほしい」

「おう、分かった。じゃあ、切符買ってくるからちょっとここで待っててな」

 そう言って小走りで父は行ってしまった。渉はリュックの中で一人ぼっちになってしまった水筒を取り出した。その水筒には、母が特別だと言って入れてくれたポカリが入っていた。口に含むと、ポカリの甘さと少しお茶の風味がした。

 父が戻ってくる。切符を渉に渡し、特別だからなと言って、買ってきたお菓子をいくつかリュックに詰め込んだ。

「もし迷っちゃったらお母さんに電話するんだぞ。電話番号は分かるか?」

「分かる!ここに書いてある。それに迷わないし」

「よし、それじゃパパはもう行かないとだ。本当に助かったよ、ありがとう」

 そう言って父は渉の頭を数回撫でた。


 帰りの電車では、リュックのお菓子を食べながら移り行く景色を眺めた。もちろん、頭の中では降りる駅を唱え続けている。この時期の17時は昼過ぎと言っても過言ではないほど日が高い。ぎらぎらと降り注ぐ太陽光線も、窓越しに見ればのどかな陽の光である。大きな駅を超えてからというもの、穏やかな田園風景が続いている。色の濃い雲が車窓を流れていく。

食べ終えたクッキーの包みをリュックにしまう。渉のいる車両には人がまばらで飲食をしても咎める視線はない。冷房の効いた車内に、お菓子にポカリ。そして、それらを目いっぱい謳歌しても後ろめたさがないほど、自分は良いことをしたのだという大義感が渉を包んでいた。

 膨れたお腹のせいか、渉の瞼が徐々に下りてくる。電車特有の心地よい揺れも手伝って、渉は完全に寝入ってしまった。次に渉が目を開けたときには、日は傾いていた。

 飛び起きた渉は、辺りを見回す。少し人の多くなった車内は、それでもまだ涼しげがあった。車窓には見たことのない風景が流れている。知らない田んぼに知らないあぜ道に知らない電柱。夕日だけは見たことがあった。渉は急いで鞄に荷物をまとめ、立ち上がった。

 電車は行きの方向と帰りの方向がある、ということだけ渉は知っていた。つまり、行き過ぎてしまったのなら逆の帰りの方向の電車に乗れば行きたい駅に戻れる、という算段だ。やがて車内のアナウンスが聞いたこともない駅の名前を呼び、ドアが開く。空いたドアの前に立ち、一歩駅に踏み出した瞬間、すぐに戻してしまった。こんな田舎駅に降りて、今乗っている電車が行ってしまったら、もう二度と電車が来ない気がして、取り残される気がして動けなくなった。乗降する人はおらず、それでも他の人から注目されているような錯覚に陥る。


 『渉のわは度胸のわ!』


 いつだったか、母親がふざけて言っていた言葉を思い出した。たしか小学校の運動会で注目されるのが嫌だと言った時だったか。「わぁぁあって言いながら走っちゃえばいいんだよ。そしたら何とかなるからさ」と。そんな無責任な言葉でも小学生の渉にとっては母からの言葉である。運動会当日に律儀にそれを実行し、こけて、クラスのみんなに笑われた。膝の痛みで泣いたのか、悔しくて泣いたのかは思い出したくもない。

 電車のベルが鳴る。車掌のアナウンスが聞こえてくる。勝手に足が動いた。

「わぁあああああ」


 小学生が発狂しながら電車から出て行く様に車掌が驚いた。後から母親が続いて出てくるかと扉を閉めるのを躊躇したが、母親は出てこず、どころかその小学生はホームの向かいに止まっていた電車に入っていった。本部に連絡するか逡巡し、腕時計を見る。訝し気にしている乗客の顔が脳裏に浮かび、そのまま扉を閉め電車を発車させることにした。


 先程と逆側に流れていく風景に渉は心底安堵した。このまま来た道を戻ってくれれば母親の書いてくれたルートに再び戻ることが出来る、とメモを探す。右ポケット、左ポケット、鞄の中、何処にも見当たらない。メモがなければ乗る電車も家の電話番号もわからない。慌てて、鞄をひっくり返す。水筒とお菓子だけが座席の上に広がった。はっと顔をあげる。寝過ごしたあの時にきっと落としたのだ。渉は顔から血の気が引いていくのを感じた。

 このまま家に帰ることは出来ず、母にも父にももう会うことは出来ないのだと思った。知らない街で子供が一人生きていくアニメを思い出す。陰鬱とした場面が多くて、あまり好かなかったが今になってその主人公の気持ちが痛いほどわかった。

目に涙を浮かべながら、八つ当たりをする様に鞄を潰した。くしゃりと音がした。急いで音のなった場所を探すと、鞄の内ポケットから連絡網カードが見つかった。小学校で書かされたものだ。そこには出席番号が前後の人の電話番号と自分の家の電話番号が書いてあった。地震や台風があった時のためにどうたらこうたら、と先生が言っていたのを思い出した。いざというときにこんなカードが役に立つわけない、と話半分に聞き流し、丸めて鞄のポケットに突っ込んでいたのだ。太腿に押し付けながらしわを伸ばしてやり、これからは額縁に入れて部屋に飾ってやろうと思った。

 渉はとにかく頭の中で唱えていた次の乗り換え駅、おおみや駅だけは覚えていたので、いつその駅が来てもいいように扉に寄りかかって待つ。電車が駅に着くたびに扉の開く方向へ駆け、目的の駅かどうかを確認していた。


「次の駅はぁオオミヤァー、オオミヤァー」


 来た、と思った。渉は人を掻き分け駅に降りる。駅には多くの人で溢れていた。電車を出るとじっとりとした熱気が肌にまとわりつく。この駅はとても大きく、ホームがいくつもあり、それらを行き来するには一度屋内の二階へと上がる必要があった。

 階段を掛けあがる。冷気が入れ替わるように階下へと降りていくのを感じた。流されるままに歩き、流れがぶつかる潮目のような場所で放り出された。もはやこの人の流れに戻れる気がしないほど隙間のない混雑だった。その上、どのホームでどこ行きの電車に乗ればいいかさえわからない。

 しかし、渉には握りしめた一枚の連絡網カードがあった。

 周囲を見渡して公衆電話を探す。緑のつるつるとしたその電話機は改札の端にひっそりと立っていた。急いで駆け寄る。背伸びをして受話器を取り、小銭を入れる。駄菓子屋に通っていた渉にとって大金である、駄菓子三個分のお金を入れ、連絡帳に書いてあった自宅の番号を押す。無機質な呼び出し音が三回鳴った後、声が聞こえた。

「お母さん?」

「違う、徹。渉?」

 電話の向こうからバラエティ番組の音が聞こえてくる。

「そう、お母さん居る?かわってほしいんだけど」

「今お前を探しに行ってる。たぶん五分後にまた電話かかってくる。今どこ?」

「おおみや駅。の改札の中」

「分かった。じゃあお母さんが電話して来たらそう伝えるから、十分後にまた電話して。十分後、わかる?」

「わかった」

 渉は受話器を置いて、すぐに数を数え始めた。一分が60秒であることは知っていたので、60秒を数える度に指を折っていき、両手の指全て数え切ったら10分だ。

 自分が泣かないで電話出来たことで、これは迷子ではなく冒険であると渉は信じていた。この電話はゲームで言う所の救援要請である。カービィがワープスターで帰っていくのと同じなのだと言い聞かせていた。

 十分後、再び家に電話をしたら徹が、「すぐに迎えに行くからそこで待ってろだって」と言った。電話を切った後に、救援要請は成功だ、と一人呟いた。

渉は公衆電話の横に座り込んで母を待つ。行き交う人々の足元がよく見えた。仕事帰りの革靴、部活帰りのローファー、遊びに出かけるシューズに、母に手を引かれるまま歩く子供靴。


「お嬢さん、お腹は空いていないかい?」


 肩を叩かれる。母親だ。近づいてくる姿が見えていたので驚きはしなかったが、その芝居がかった言葉に少し虚を突かれた。


「悪いね、ヘタをうっちまった」


 渉も、ゲームのキャラクターを真似てそれっぽい事を言ってみた。


「どうってことないさ。任務は達成したんだろ?」

「……俺にかかれば朝飯前さ」


 母親に連れだって歩く。様々な足音の中に自分の足音が混じる。雑踏の一部になれた気がした。


「ご飯食べて帰ろうか?」

「え、いいの?徹は?」

「もう中学生なんだし我慢できるでしょ。それに徹の分はテイクアウトすればいいよ。ほら、おいしそうじゃない?」

 母親が指さす先には、食品サンプルたちがショーウィンドウに並んでいた。ハンバーグ、唐揚げ、ラーメン、オムライス、渉の好きな食べ物ばかりだった。


 たしか、あの時食べたのはオムライスだったか。ケチャップをスプーンの背で伸ばして食べようとすると、母親にもったいないからそのまま食べな、と注意されたのを今でも覚えている。

 気が付けば、公衆電話の前に立っていた。腰をかがめて受話器を取る。財布から百円を入れて、電話を掛ける。数コールした後、よそ行きの母親の声が聞こえてきた。渉が名乗ると急にトーンダウンした。

「何だい、急に電話かけて来て」

「いや、どう?元気?」

「元気だけど、あんたは?」

「いやまぁ、どうだろ。はは」

「ご飯は食べてる?」

「食べてるよ」

「じゃあ、体は平気?」

「あぁ、平気」

「そ。それじゃあ一体どうしたんだい」

「いやぁ、はは」

「これ、公衆電話からでしょ」

「何で分かったの?」

「スマフォに映ってたもの」

「あ、そ」

「ま、いいけど。いくら入れたか知らないけど、その間だけ待ったげる」

「なにそれ、別になんもないよ」

「……」

「いや、本当無理だったらいいんだけど、実は今週、帰ろうかなって思ってるんだけどさ」

「うん」

「いや、まぁ、それだけ」

「そう。じゃあ、迎えに行こうか」

「いいよ、子供じゃあるまいし」

「そう?」

「あとご飯は食べていくから用意しなくていい」

「はい、わかったわ」


 そこでちょうど時間切れだった。受話器を置いて、来た道を引き返す。たぶん、家に着くのは金曜ロードショーが終わるころだろうか。

なかなか遠い帰路に、それでも足取りは軽かった。


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