6
ウォルシュは穴底に落ちるような不快さを以て眼を覚ました。
6時過ぎを指す時計、窓から覗く太陽の差し込み。宿舎の何も主張しない白壁が明るく照らされている。
「……寝た気がしねぇなぁ」
ゆっくりと身体をベッドから起こしながら、寝癖のついた髪をガシガシとかき混ぜる。ひょいと跳ねた癖毛が寝癖を巻き込んでいく。ヘアセットはこれで完了だ。
のそり。暖かな床を抜け出す。
冷蔵庫から丸パンを一つ、電子レンジで温めブルーベリージャムを付けてコーヒーを一杯。
顔周りを整えいつもと変わらない身なりをクローゼットから引き出す。
壁に備え付けられた液晶から聞こえる若い女の声が天気を知らせる。晴れ。
2日振りの朝食はほぼ味がしなかった。
始業時間ちょうど、8時30分。出勤者の往来が激しい廊下で誰しもが立ち寄ることはない一室。
科学捜査兼検死室の重厚な扉が固く閉ざされ、音が遮断される。
「おはよう、ウォルシュ。あんたが一番遅かったよ」
「そら毎朝5時起きの若者と一緒にしないでよ」
「ウォルシュ警部、おはようございます!」
「ああ……朝から元気ね……」
昨日と同じ人間が集る。遺体の死因解析が完了し、ウォルシュとジェラールはその結果を聞きに訪れたのだった。
招集は昨夜10時頃に通達されたが、集合を始業時間にしたのはジェーンの心遣いといえた。
彼女の瞼には昨日よりも薄い碧のシャドウが乗っている。
「さて、残念ながらあれはひとによるもので間違いなかった」
微塵も残念そうな感情を乗せない抑揚が告げる。
一瞬息を飲んだウォルシュとジェラールも、昨日のような動揺は少なかったが朝一の陽光は影を潜めた。
ひと息ついて、
「……具体的には?」
ウォルシュが続きを促す。
「まず遺体に付着していた唾液はすべて。傷口周りの変わった傷跡には歯形が確認された」
「歯形、ですか」
己の理解を超えた内容にジェラールが眼を丸くした。
ジェーンが淡々と続ける。
「そう、要は歯列さ。歯列っていうのは動物によって特徴があるものでね。結果、今回のものはひとのものということさ、生物の新発見でもない限りね」
「な……なるほど」
「おまけにちょっと変わった歯だ」
女傑の鋭い眼がぎらりと光る。
無機質な机に置かれた昨日と同じレポートのページが開かれる。変わらず引きつった傷口とその開口部が示されている。赤い爪が引きつった傷の部分を指さす。
「上顎の歯の先が鋭すぎる。自分のものを触って分かる通り、普通は触れただけではなんともないが、この歯形はほぼナイフに近い。まるで研磨されたかのように」
「ちょ……待って、待ってよ。それ本当に人間なの?」
常識外の物言いに、ウォルシュは半ば祈るような気持ちで問いかけた。
「それが問題さ。歯形は完全にひとのものと言って良い。だがその凶器たらしめた部分は、余程通常のひととは欠け離れている」
「人間に似た何かということはないのですか?」
ジェラールの素直な疑問に、女傑が一層眼を輝かせた。刺されんばかりの視線が彼の青の瞳を射貫く。
「へ、変なことを言ってしまったでしょうか」
「いや、やはり若い視点は役に立つ。フォンテーヌくん、それさ」
「は……はい……?」
「ひとつ」
戸惑いを隠せない顔前に、赤い指先が天を指す。
「ひとつ、ひとでそれが出来得る存在がいるとしたら」
無機質な室内がしんと鳴る。
一瞬憚られるような仕草ののち。
「そいつは“吸血鬼”だろうね」
無表情に愉快さを隠せない瞳が激しく光る。
息を詰まらせたジェラールの前にウォルシュが身を乗り出す。
「ジェーン、それ本気? ……冗談?」
じろ、と瞳だけをウォルシュに向けた顔は詰まらなそうに鈍っている。ため息が一つ。
「……冗談の分からない奴だな。そういう猟奇的嗜好のやつによる可能性も捨てきれない、ということが言いたいのさ」
「な、なるほど……」
ジェラールの意識が現実に戻ってきたことを確認してウォルシュがほっと息をつく。瞳の閃光を解いた女はパイプ椅子にどかりと腰を下ろす。
「ま、正体がどうであれ、誰かさんの項に噛みつくような奇天烈怪奇なやつには変わりないだろうさ」
誰しもが理解している事実が並べられる。
男たちはそれにかける言葉もなく、ただ目の前に広げられたレポートを凝視した。凝視すれば何かが浮かび上がってくるという淡い期待があった。
物言わぬ紙の束を眺めながら、ウォルシュは辟易とした。今までも難儀な事件はあったが、それらを遙かに越える何かを感じていた。
空気が鉄壁を震わせる静寂が響いている。