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「ひとが噛み千切った、と考えるのが妥当かな」
女傑の言葉に、ウォルシュの顔からざぁっと血が引いていく。
彼だけではない。隣に控えたジェラールさえも、同じ顔をしていた。
まれに科学捜査兼検死室の人間は臆せず常識を越えた物言いをする。
「……冗談だろ」
「なら良いんだがね」
やっとの事で言葉を絞り出したウォルシュをジェーンの冷たい声がばっさり否定する。その声は呆れをも感じさせるほどに凍りついている。
「そんな猟奇的な話が、と思うだろうが今はここまで。あと半日もすれば結果が出るさ」
そうのたまう声は、既に結果を知っているかのような素振りを伺わせた。
話は以上、と言わんばかりにその場を離れた彼女は部屋の隅に置かれたキャビネットをがさごそと漁り始める。色気のない白塗りの扉からティーポットとカップが顔を覗かせた。
ウォルシュがいまだに青い顔を携えながら、ためらいがちに声をかける。
「……なあ」
「ん」
「……なにしてんの」
少女のように無垢な表情が振り向いた。
「暇潰しにケーキでも食うかと思って」
苺ソース掛けのショコラを捉えたジェラールの喉から短い悲鳴が鳴った。
「――いやぁ、あれが今世間で話題のショコラだったとは! 世の女性たちがこぞって並ぶ店なだけありますね! フルーティーで濃厚な味わいの美味しさでした!」
「あっそう……?」
渦中の事件を思わせるおどろおどろしい色の完熟苺ソースに喉が引きつったものの、いざ上司等を敬う精神と逃れられぬ気迫から勇気を振り絞って口にした一欠片にそそられたが最後、その美味に一片残らず平らげたのがつい先ほどの話である。
ウォルシュとしては先ほどまで鬱蒼とした様相であったジェラールの高低激しい情緒に若干の不安を覚えたが、体育会系のような印象を与えるこの青年は意外にも周囲を見て行動する男であるのだろう、と結論付けた。
半日後にあの傷口の要因が判明すると言えども既に18時を回った頃から残務をするつもりもなく、明日以降の予定を立てるため署内のカフェテリアに歩を進めた。
通報者や被害者の周囲への聞き込みや現場検証さえもまだ半ばであり、早々に結果が分かったところで、その他の業務が多々あることに変わりはなかった。
足早に注文を済ませ、外の街灯をすべて取り込むほどの大きな窓ガラスに囲まれたテーブル席に腰を掛ける。
「さて、まずは明日10時から通報者のご自宅で聞き取りだなぁ。ああ、アポはもう取ってもらってある。それ次第だけど、終わったら現場近くでそのほかに目撃者がいないか探ってみようか」
「通報者のお名前は……ふむ。フランソワーズ・クーパーさん、ですね」
運ばれてきたカフェラテをウエイターから受け取りながら肯定の目配せを送る。
「中央公園の近所に住むご婦人だそうだ。何でも中央病院に勤務する看護師で、夜勤明けにあの現場を発見したらしいんだわ。第一発見者ってことになるな」
「……それは」
「ま、災難な話さ」
つらつらと手のひらサイズの手帳にペンを走らせていく。最後は相手の顔を見ることなく、努めて無感情につぶやかれた。
感傷的になっているジェラールへの僅かな気遣いでもあったが、何よりウォルシュは元来、他人の感傷に触れることを好まない性質であった。新人に近い若者に気の効いた言葉も見つからず、事務的に処理をすることが現在の彼にできる最大限である。
ずずっ、乾いた喉に熱いカフェラテを流し込む。
「あー、なんだ。とりあえずジェーンの方は朝一には結果がわかると思うし、万が一それが遅れた場合でもこっちの予定をずらす必要はないからさ。ああ、あと聞き取りは初めてだろうからとりあえず俺に任せてくれれば大丈夫。お前さんは」
「ウォルシュ警部……」
「大丈夫、大丈夫。俺と一緒にいてくれれば平気だから。いきなりお前さんになんでもかんでも任せることはしないって」
「あ……」
「今の段階でさえイカれた事件だろ? お前さんに危険なことをさせる訳にもいかないし、何かあれば」
「ウォルシュ警部っ!」
黙々と言葉を並べていたウォルシュの耳に鋭く響いた雷鳴。反射的に顔を上げるとジェラールの瞳が真っ直ぐにウォルシュに突き刺さった。男の眠たげな眼がぎくりと開かれる。
「……ウォルシュ警部。私は経験も少なく、この通り、感情に流されやすい若輩者です。ただ今回貴方と一緒にこの事件を担当させていただく者として……せめて」
おずおずとした物言いに反して強い意志を持った青く光る瞳が訴える。声は固く、わずかに震えている。
「私も一緒に務めさせていただきたいのですっ! 何にせよご迷惑をお掛けすると思いますし、足らぬところは多いと自覚しておりますが……」
最後は苦笑が混じり、強い光を持った瞳は手元のカフェラテに落とされた。
ジェラールの言葉を真正面から浴びたウォルシュは、一頻り彼の言葉を咀嚼し、そして、一呼吸置いて己を恥じた。
――表向きは彼に心理的な負担を掛けまいと選んだ言葉の中に混じったものを読み取られたのだ。
「……いや、その、違う……」
場違いな程に狼狽える。
「違うんだ、俺は……」
――お前が辛い思いをしないようにと。
お前が辛い思いをしないように?
「……いや、違う。……すまん、その、あの、決して君を軽んじたわけじゃ……」
――違う?
「……そうだ」
――違うでしょ、ウォルシュさん。
「あの、ウォルシュ警部……」
「ああもう!」
顔色を青くさせながら俯きがちに独り言をぶつぶつと言ったあげくに大声を上げたウォルシュに、ついにジェラールが戦いた。反動で控えめに差し出された手が宙に浮いて固まる。
「ジェラール」
丸い背を正した男がジェラールに向き直る。
「は、はい」
キッと向けられた重い瞼の眼が、青の瞳を捉える。
「都合の良いおじさんですまないが、さっきのは忘れてくれない? そして……、その」
上手く言葉が紡げない。口ごもり一瞬眼を逸らしそうになる気持ちを叱咤する。
「明日から、俺と一緒に……。この事件を解決するために、バリバリ働いてくれるかい?」
「は……はい! もちろんです! ウォルシュ警部!」
カフェテリアの大きな硝子に反射した街灯が、きらりとジェラールの碧眼を輝かせた。
先の言葉に矛盾しているようであったが、これも正真正銘、ウォルシュの本心であった。相手にどう思われようと、少なくとも目の前で花のような笑顔を携えた青年が、自分と共に明日も仕事をしてくれるということに心が安まった。すっかり温くなったカフェオレが心地よく胃に流し込まれた。
「改めて、よろしくお願いいたします! ウォルシュ警部!」
ジェラールはこの日、ウォルシュの瞳が翡翠色であることを初めて認識した。