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モルトワーンの吸血鬼  作者: 左藤 ふじ
第1章 彷徨える影
2/7

2

 午前6時10分。首都モルトワーン、セル区中央公園入り口。

 萌木が歩道沿いに美しく立ち並ぶ中に、のそりと佇む男がひとり。

 彼の朝は早い。

 急務がある時に限り。


「で、誰なわけ? 俺に早起きさせた張本人はさぁ」


 男は実に気怠い様子を隠しもせず、一人のたまった。剃り残した無精髭を蓄えた栗毛短髪、年の頃は40手前。

 真っ白なワイシャツにネイビーのネクタイ、一見上等な黒のスーツに身を包んだ男は、確かにこの街の治安を司る警察の印を胸元で光らせている。

 ――ロビー・ウォルシュは、実に面倒くさい、という風を隠しもせず、欠伸とため息を一つずつ零した。

 太陽も完全に昇りきる前の午前4時半、支給された携帯端末が耳元でけたたましい音を立てたがゆえに叩き起こされた挙げ句の出動である。

 毎朝7時の朝食も、食後のコーヒーもなしに、最低限の身なりを拵えて飛んできたのだった。

 あまりもの起き抜けの疲労感に、もう一度深い息を吐こうとした刹那、そう遠くない距離から突風のような声が飛ぶ。


「ウォルシュ警部! 早朝からお疲れ様です!」


 いそいそと駆けてくる音に合わせて、襟足まで伸びた蜂蜜色の巻き毛が一歩遅れてなびき踊る。

 既に現場に入っていた青年、ジェラール・フォンテーヌは、ウォルシュとは対照的に意気揚々とした赤ら顔で声を張り上げた。


「本日はご一緒させていただき、大変光栄です! 若輩者ゆえ何卒ご指導のほどよろしくお願いいたします!」


 早朝の耳に劈く若者の声に、ウォルシュはやっとのことで顔を潜めるのを耐えた。


「……君も朝からお疲れさん、よろしく。にしても、まぁったく困った話よね、まだ寝起きで頭も働いていないってのにさぁ」

「私は朝に強いのでお気遣いなさらず! いつも5時には起床しておりますので!」

「……あっそう……」


 決して彼の髪色のせいだけではない眼前の眩しさに目を細め、生返事でやり過ごす。ウォルシュにとっては日常茶飯事である。

 ――現場に近しい者ほど仕事熱心な、正義感溢れる男が蔓延る職業なのだ。決して己が怠けている訳ではない。

 ウォルシュは毎度自らの乾いた心に言い聞かせる。


 挨拶代わりの会話を済ませると、ウォルシュは公園入り口のすぐ横にある公衆トイレに目を向けた。

 チープな赤煉瓦もどきの外壁材で囲まれたそれは、つい先月に低予算で建て替えられたばかりのものである。

 ぐるりと男の細い眼がそこを中心に辺りを一周する。


「人払いは済ませた?」

「はい、全面に警備も配置完了しております! 誰一人として民間人は立ち入り出来ません!」

「そりゃ僥倖」


 ――良いか、新人がやり過ぎだ、と感じるくらいが丁度良い。不用意にマスコミに入られたり、民間人に現場を撮られてはたまったものじゃない。ましてや世間話をしているところが映されれば世間からの批判は免れない。何かにつけて批判されやすい組織であるから、その点だけは正義感では賄うことが難しいんだ。


 かつての上司の言葉が男の耳の奥に鳴り響く。ウォルシュの心の内にくすむ猜疑心旺盛な感覚が冴え渡り――。


「……と、いかん」


 こつ、と一瞬空中に浮いた己の頭を片手で小突く。隣に佇む若者が年配者の思案が終わるのを待っている。職務のそれに切り替えるためにかぶりを振ると、ジェラールが不思議そうに首をわずかに傾ける。


「ウォルシュ警部?」

「いや……、なんでもないよ。少し物思いに耽っただけ」


 ゆったりと、緩慢な動作で、背広の内ポケットから薄手の布手袋を引きずり出す。今まで何度も使われ幾度も新たなものに取り換えられてきたそれは、男の嵌め慣れた両手にずるりと入っていく。

 ここからが本題なのだ。カチカチと頭を切り替えていく。


「んじゃあジェラールくん。ここからが本番な訳だけど……。脅すわけじゃあないが準備はいいかい」

「はい!」

「よし、良いお返事。じゃあ向かいますかぁ」

「はい!」


 忠犬のように待っていたジェラールが号令に従って真っ白な手袋をきゅっと嵌め直し、己より少し小さい丸まった背中に続く。

 向かう先はすぐ右手にある公衆トイレである。

 先を行くウォルシュの歩が急ぐことはない。既に一秒二秒と急いだところで変わる事態ではないからだ。


 公衆トイレの入り口を左手に入り、男性用の仕切りを越える。

 常のアンモニア混じりの悪臭とは異なる、醜い臭い。鉄工所の奥で錆びきった鐵のような臭いが、寝起きの鼻に突き刺さる。


「(せっかく建て直したばっかりだけど……、これじゃあ取り壊しものだ)」


 口を開くのも憚られる空気が立ち込めている。呼吸の音さえも誰かの邪魔になるような張り詰めた緊張感が漂う。

 現場検証を進める何人かの同僚等に眼だけの挨拶を交わし、その奥へと進むと、人影に隠れて見えなかったものが姿を現す。


 そこにあるものに、ウォルシュの細い眼がいっとう顰められる。

 後ろに続く若人の息を呑む音が空気を静かに震わせた。


 彼等の脳裏に4時半過ぎに鳴った出動要請が思い起こされる。

 ――『モルトワーン中央公園公衆便所にて、男性の死体発見の通報あり』


 広くない通路いっぱいに横たわる()()

 ウォルシュに早起きをさせた張本人――首筋を後ろから大きく裂かれた男は、見るからに失血死の様相で壮絶に絶命していた。

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