小夜子と石のシマちゃん
自分が特別な子だと気づいたのは、小夜子が小学校に入った頃でした。
小学校では、みんなが手洗い場に並んで、手を洗います。決まってみんなが、ハンカチを取り出して手を拭きます。
けれど、小夜子はハンカチを持っていません。ぶんぶん手を振って、スカートで拭いて、終わり。
「どうしてみんな、ハンカチを持っているんだろう」
小夜子は賢い女の子でした。授業ではたくさん手を挙げました。テストでは満点ばかり取りました。
でも、宿題は、よく忘れてしまいます。みんなは、毎日出る宿題を、毎日ちゃんと提出します。
「どうしてみんな、宿題を忘れないんだろう」
滑り台の順番を待っているとき、ブランコの順番を待っているとき、小夜子はつまらない気持ちを持て余します。
暇つぶしに、小夜子は前のお友達の髪の毛を引っ張ったり、腕をつねったりしました。
お友達は、悲鳴を上げて嫌がります。小夜子はその様子が面白くてたまりません。けれど、小夜子以外の誰も、そんなことはしません。
「どうしてみんな、こういうことしないんだろう」
みんながすることと、小夜子がすることは、なんだか違うのです。
小夜子は、なんだか……「とくべつ」。
小夜子は一人で学校から歩いて帰ります。誰も小夜子と一緒に帰りたがりません。
ひとりで帰る小夜子は、道端の小石を蹴って帰るようになりました。
「今日は、この石に、決めた」
校門を出たところで、小夜子は石をひとつ決めます。小夜子は、その石を蹴りながら帰ります。
石は、小夜子に文句を言いません。小夜子が蹴った方に飛んで、小夜子が追いつくまで、そこにじっとしています。
ころころ転がったり、びゅーんと飛んだり。
家までずっと蹴って帰れた時は、「大成功」。
けれど、それは、たまにしかありません。
大体、あとちょっとのところで、石は道の脇の用水路や、側溝の蓋の向こうに落ちてしまいます。
その時、石は小夜子の目の前から、あっという間に、消えてしまうのでした。
学年が上がるにつれ、小夜子は、小学校の嫌われ者になっていきました。
忘れ物ばかりの小夜子。いじわるばかりする小夜子。自分勝手な小夜子。
みんなが小夜子を嫌います。小夜子はそれが、自分が特別なせいだと考えました。
だって、相変わらず、勉強は群を抜いて優秀で、運動だって得意で、何をしても困るということがありません。
みんなは小夜子が羨ましくて、彼女を避けるのではないかしらと、思うことすらあるのです。
その年の冬のある日、小夜子は、お友達のひとりを突き飛ばして、泣かせてしまいました。
お友達が横入りしようとしたのだから、小夜子は悪くありません。
先生にきつく叱られても、小夜子は謝りませんでした。
小夜子はひとり、保健室に連れていかれました。
ストーブの上で、やかんがシュンシュン音を立てています。
そこで、プリントを渡されました。
「これをやって、反省しなさい」
小夜子がしぶしぶプリントをやっていると、担任の先生と、保健室の先生が、こそこそ声で話し始めました。
小夜子は耳をそばだてました。切れ切れに先生たちの話が聞こえてきます。
「まったく強情な子ですよ、上級生になっても幼くて」
「仕方がないですね……ほら、家が……」
「とは言ってもねえ」
「まあまあ、先生。かわいそうな子なんですよ」
かわいそうな子、その言葉が自分を指していることに、小夜子は気づきました。
帰り道、校門を出た小夜子の頭の中には「かわいそうな子」という言葉がぐるぐる回っていました。
小夜子のどこがかわいそうだと言うのでしょう。
「それって、どういうことなんだろう。誰か、教えてくれないかなぁ」
小夜子が呟いたその時です。
「ねえ、ねえ」
小さな声が、足元から小夜子に呼びかけました。
小夜子は下に頭を向けました。
すると、そこに落ちている小石が、彼女に話しかけているではないですか!
「ねえ、君、知りたいことがあるみたいだね? 僕が教えてあげるよ」
小夜子はびっくりしました。
「あなたが答えを、知ってるの?」
「うん。もちろん、知ってるよ」
「教えてちょうだい!」
しゃがみこんだ小夜子の膝の上に、石はぴょんと飛び込みました。
「今から、僕の言うこと、ぜーんぶ、聞いてくれたら、きっとわかると思うよ」
(ほんとかなぁ)
小夜子は疑いながらも、石の言うことを聞くことにしました。
「じゃあ、まず僕に名前をつけてよ」
小夜子は唇を尖らせました。
「石は、石だよ!」
「そんなんじゃあ、ずっと、答えは、わからないままだよ」
「どんな名前をつければいいのか、わからないよ!」
「かわいくて、かっこよくて、すてきで、何よりも、僕らしい名前だよ」
小夜子から見れば、石は石です。石は、小夜子の帰り道、ずっと小夜子の相棒でした。雨の日も、風の日も、石を蹴っている間、小夜子はそのことだけに集中できました。家まで連れていきたくて、どんな石がいいか、知恵を絞りました。
大きすぎなくて、丸っぽくて、重さがあって、つるつるしていれば、最高です。このおしゃべりな石も、丸くてつるつるしています。それから、しましま模様が入っています。
「じゃあ、しましま模様だから、シマちゃん!」
「いいね」
石のシマちゃんは、満足げに頷きました。
「シマちゃんは何で話せるの?」
小夜子が聞くと、シマちゃんはにやりと笑いました。
「流れ星に願ったからさ」
「そんなの、聞いたこと、ないよ」
「みんな、知ってるよ」
「私は、特別だから、知らないの」
小夜子はシマちゃんを手の平に載せて、帰り道を歩き出しました。
家に着くと、シマちゃんは一番に、小夜子に「手洗いとうがいをしてね」と言いました。
「やだ、そんなの、めんどくさいもん」
「いいから、いいから。僕の言うこと、きくんでしょ」
小夜子が手を洗う間、シマちゃんはそばで見ています。
「小夜子ちゃん、せっけんの泡、ふわふわだねぇ。上手に、指の間も、爪まで洗えるねえ」
「そんなの、言われたこと、ないよ」
小夜子は困ってしまいます。
シマちゃんは笑って、手を服で拭こうとする小夜子に言います。
「そこのタオルで手を拭こうよ、きっと上手にふけるんだろうなぁ、僕、見たいなぁ、小夜子ちゃんのかっこいいところ!」
「しかたないなぁ」
小夜子はタオルで手を拭きました。
リビングのテレビからは、いつものドラマの再放送が流れてきます。
小夜子は、ソファに丸くなって、テレビを観始めました。
「小夜子ちゃん、一緒に宿題、やっちゃおうよ」
「やだ、そんなの、めんどくさいもん」
「いいから、いいから。僕の言うこと、きくんでしょ」
石のシマちゃんが、うんせ、うんせと玄関からランドセルを運んできます。
小夜子は見かねて、自分でランドセルを持ってきて、中から宿題のノートを取り出しました。
「小夜子ちゃん、ありがとう! 小夜子ちゃん、やっぱり、優しいね」
「そんなの、言われたこと、ないよ」
小夜子は困ってしまいます。
シマちゃんは笑って、宿題のノートを開きました。でも、シマちゃんには、算数は難しすぎるみたいです。小夜子はシマちゃんから鉛筆を取り上げると、すらすら問題を解いていきます。
「うわあ、あっという間にできちゃうね! 小夜子ちゃんは計算が早いなあ。ついでに、時間割と、持ち物もやっちゃおうよ。僕と一緒なら、すぐできちゃうよ」
「しかたないなぁ」
小夜子は終わった宿題をランドセルに突っ込み、時間割表を取り出しました。
明日の準備が終わると、もうやることはありません。
「小夜子ちゃんは、お家で何して遊ぶの?」
小夜子は答えました。
「テレビ観て遊ぶんだよ」
シマちゃんは、ちょっと寂しそうに「そうなの」と言いました。
それから、家のどこからか、トランプを引っ張り出してきました。
「小夜子ちゃん、トランプで、ババ抜きして遊ぼうよ」
「やだ、めんどくさいもん」
「いいから、いいから。僕の言うこと、きくんでしょ」
シマちゃんがトランプを配り始めます。あんまり遅いので、途中から、小夜子がトランプを配りました。
ババ抜きが始まると、シマちゃんは大騒ぎです。
「え~!? その札、とっちゃうの!?」
「うわ~、ババが、来ちゃったよ!」
「どれ取ったらいいか、わかんないよ~」
小夜子の手から一枚トランプを抜くたびに、シマちゃんは百面相。
それを見ているうちに、しぜんと、小夜子もにっこり、笑いました。
「小夜子ちゃんの笑っている顔、とっても、すてきだね、僕、だ~いすき」
「そんなの、言われたこと、ないよ」
ババ抜きはシマちゃんが負けました。
「あー、面白かったね、小夜子ちゃん」
小夜子は、不思議に思って、聞きました。
「シマちゃんは、負けたのに、楽しかったの?」
シマちゃんは、「楽しかったよ」と大きく体を弾ませました。
「小夜子ちゃんと、一緒に遊べたから、僕、とっても楽しかったの。だから、もっと、一緒に遊びたいなあ」
「……しかたないなぁ」
ババ抜きは三回やって、三回ともシマちゃんが負けました。
シマちゃんは、ずっと楽しそうでした。
「小夜子ちゃん、順番、よくわかってるね」
「小夜子ちゃんは、同じ札を見つけるのが、早いね」
「小夜子ちゃん、あと五枚だね!」
ずっと、ずっと、小夜子をよく見て、小夜子のことを話していました。
それから、小夜子とシマちゃんは、一緒におやつを食べました。
おやつの前に手を洗うのも、椅子に座ってお皿におやつを入れるのも、合わせて飲み物を準備するのも、小夜子には初めてのことでした。
「小夜子ちゃん、おやつは量を決めて、食べようね。晩御飯、いっぱい食べるの、大事だからね」
「そんなの、言われたこと、ないよ」
シマちゃんの話は続きます。
「食べたら、はみがきするんだよ。虫歯になったら、大変だから」
「やだ、めんどくさいもん」
「いいから、いいから。僕の言うこと、きくんでしょ」
小夜子が口元を汚すと、よいしょとティッシュを引き抜いて持ってきます。
いつものスナック菓子が、なんだか今日は、特別においしく感じます。いつもより、すぐにお腹が膨れてきます。
シマちゃんは小夜子を見て、にこにこ笑います。
小夜子が笑うと、シマちゃんはもっと笑います。
シマちゃんが笑うたびに、どんどんお腹がいっぱいになって、どんどんお腹があたたかくなります。
小夜子は、賢い子供でしたから、おやつが特別においしい理由がわかりました。
小夜子は、賢い子供でしたから、自分が特別な子供である理由も、わかりました。
特別の反対言葉は、ふつう。
ハンカチをみんなが持っているのは、誰かがハンカチを持たせてくれるから。
宿題をみんなが忘れないのは、誰かが宿題を見てくれるから。
友達の嫌がるところをみんなが面白がらないのは、誰かが思いやりを教えてくれたから。
誰か。そばにいて、目をかけて、手を添えてくれる誰か。
そんな誰かが、シマちゃんみたいな誰かが、子供のそばにいるのが「ふつう」なのです。
みんなが「ふつう」で、小夜子が「とくべつ」なのは、みんなには「誰か」がいて、小夜子には「誰か」がいないから。
小夜子には、そんな「誰か」がいない。だから、ふつうではない「かわいそうな子供」なのです。
小夜子は今まで、けんかをしても、みんなが悪いと思っていました。みんなが小夜子のことをわかっていないのだと。
何もわかっていないのは、小夜子のほうでした。
小夜子だけが、ひとりぼっちなのです。
ものすごくみじめで、悲しい気持ちが、小夜子の心にあふれてきました。
「小夜子ちゃん、どうしたの?」
「うるさい!」
小夜子はシマちゃんを手に掴みました。
心配そうなシマちゃんを見ると、猛烈に怒りがこみ上げました。
「答えなんて、わからないままのほうが、よかった!」
小夜子は、窓を開けて、外に向かってシマちゃんを投げ捨てました。
「うるさい! だまれ! だまれ!」
小夜子はおやつを入れたお皿を机から払い落としました。
トランプをびりびり破りました。
ランドセルをめちゃめちゃに蹴りました。
すると、開いたランドセルから、宿題のノートが出て、ページが捲れました。
それは、小夜子とシマちゃんが一緒にやったページです。
白いページの端っこに、シマちゃんがガタガタの字で書いた落書きがありました。
『えらい すごい』
『じょうず』
『はなまる』
『だいすき』
小夜子は、立ち尽くしました。
手が、足が、じんじんと痛みました。
それから、お腹が、いえ、それはお腹の少し上、奥の方──心が、何よりも激しく痛みました。
「シマちゃん!」
小夜子は外に飛び出しました。
草がぼうぼうに伸びきった小夜子の家の庭の、どこにシマちゃんが消えたのか。
小夜子は庭のあちこちを探します。
白く粉を吹いた膝をすりむき、真っ赤になった手に傷をこさえ、顔は泥だらけになりました。
学校からの帰り道、家まで蹴ってこられた石は、ほとんどありませんでした。
石のほとんどが、小夜子の目の前で消えていきました。
待ってよ、行かないで、戻ってきて。
戻ってきてよ、シマちゃん!
シマちゃんが見つかったのは、すっかり日も落ちたあとでした。
「シマちゃん!」
小夜子は、急いで見つけたシマちゃんを拾い上げました。
シマちゃんは土で汚れ、ただの石みたいに、小夜子の手の上で、じっとしています。
「シマちゃん、ごめんね、ごめんね」
小夜子は暗闇に目を凝らし、顔を近づけました。
「小夜子ちゃん……」
鈴みたいに小さな声で、シマちゃんが言いました。
「ごめんね、小夜子ちゃん。僕、嘘ついたんだ。小夜子ちゃんが知りたいことの答え、僕、知らないの。知っているふりをしたら、小夜子ちゃんのそばにいられると思ったから」
「えっ」
「僕ね、小夜子ちゃんが、毎日、石を蹴って帰るところ、見てたんだ。いつもひとりで、さみしそうだった。どうして、こんなに、さみしそうなんだろうって、そればっかり考えてた。いつか僕が、小夜子ちゃんの石になる日が来たら、小夜子ちゃんを笑わせてやろうって、ずっと思ってたんだ」
だからね、僕、流れ星にお願いしたの。
「ごめんね、小夜子ちゃん、答え、教えてあげられなくて。ごめんね、小夜子ちゃん、嘘ついて」
「ううん、シマちゃんは、嘘、ついてないよ。教えてくれたよ、答えよりも、一番たいせつなこと」
小夜子が言うと、シマちゃんは小さく震えました。シマちゃんは、笑ったみたいでした。
「僕、うれしくて、がんばりすぎちゃったみたい」
「シマちゃん、どうして、こんなにがんばってくれたの?」
「どうしてかなぁ。小夜子ちゃんのこと、気づいたら、だいすきになってたから」
「そんなの、聞いたこと、ないよ」
「……あ、そうだ、あれ言ってよ」
「あれって?」
「この石に決めた、って。学校から帰るとき、シマちゃんに、僕、言われたかったの」
「そんなの、いくらだって言うよ! シマちゃんに決めた! もう絶対、シマちゃんに決めた! これからずーっと、シマちゃんに決めた! シマちゃんだけ、私の石!」
「わあ、うれしいなあ」
だからね、僕、流れ星にお願いしたの。
お星さま、僕をあの子の石にしてください、って。
シマちゃんの上に、小夜子の涙がぽとぽと落ちます。汚れがすっかり洗われて、しましま模様が冬の冴えた月の光を浴びて、ぴかぴか光りました。
「小夜子ちゃん、夜の空を見上げてね。流れ星を見つけたら、叶えたい望みを願ってね。一瞬で流れ星は消えちゃうけれど、願いは、きっと叶うから、思いは、ずっと消えないから」
小夜子の中で、シマちゃんが大きく震えました。
「うん、うん、わかったよ、わかったから、シマちゃん、シマちゃん!」
しましま模様が細かく揺れて、それきりシマちゃんは静かになりました。
「シマちゃん!」
小夜子が何度呼んでも、シマちゃんは答えてくれませんでした。
まるで最初から、ただの石ころだったとでも言うように。
次の日、泣きはらした目で学校に行った小夜子は、相変わらず嫌われ者のままでした。
泣かせたお友達に、小夜子は謝りました。お友達はびっくり顔で「もう、いいよ」と言いました。
先生は、小夜子の宿題ノートの隅の落書きを見つけましたが、何も言いませんでした。
それからのことです。
小夜子は毎晩、空を見上げます。
小夜子の手には、シマちゃんが握られています。
小夜子はもう特別な子供ではありません。
流れ星は、あっという間に消えていきます。
けれど、思いは消えず、流れ星にかけた願いは、きっと叶うということを、彼女は知っているのです。
お読みいただきありがとうございます