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作者: 嘉多野光

 木内悠香は先ほど親に自分がレズビアンであることをカミングアウトした。帰省する度に結婚はまだかと急かされ、精神的にもつらく、三十歳を過ぎてこれ以上隠し通すのは限界だと思った末のカミングアウトだった。

 悠香は、母親が否定し、父親は多少の戸惑いはありつつも受け入れてくれると思っていた。母はボーイッシュなものが好きな自分の趣味を昔から否定してきた「典型的な女性」だった。一方、父は食べ物や旅行先など、何でもあまりこだわらない人で、いつでも家族に合わせてきた。しかしカミングアウトの後、予想外のことが起こった。実際には、母親はあっさり受け入れたものの、父は断固として理解しようとしなかったのだ。

「ゆうちゃん昔から男の子っぽかったし、女の子が好きなんじゃないかなあって思ってたよ」

 母は手を頬に添えながら、少し切なそうに微笑んでいた。好きなものの趣味と性的指向を混同している母の理解は間違っている。それでも、悠香には母が自分のことを否定しないでくれたことが有難かった。

 孫を所望していた母には少し申し訳ない気持ちもある。しかし、自分の人生なのだから、自分の好きなとおりにしたいという思いの方が悠香には強かった。だからこそカミングアウトしたのだ。

 問題は父だ。悠香がカミングアウトをすると、父は「女が女を好きなんて、悠香は病気だ。病院へ行こう」と夜中にも拘わらず悠香の手を引いて病院へ向かおうとした。悠香が「病気じゃないよ」と言っても、病気だ、おかしいんだ、治さないといけないの一点張りだった。

 父の表情は本気だった。本気で自分のことを病気だと思っている。勿論、自分は病院に行きたくないし、行ったところでどうしようもない。このままでは父と会うのが億劫になり、絶縁することになるかもしれない。完璧に理解して受け入れて欲しいとまでは思わないが、せめて同性愛が病気でないことくらいは理解して欲しい。

 悠香は、こういうときにはどうしたらよいだろうかと、何度も読んだLGBTQカミングアウト報告のサイトを眺めると、新着記事があった。トランスジェンダー男性であることを家族にカミングアウトした記事だった。悠香とはケースが違うが、読んでいるうちに当事者が使用したという、気になる商品があった。


 脳麹。考え方を柔らかくする人間用麹。

 シャンプー、リンスを使用した後にヘアケア用品のように使用する商品。ただしこの商品はあくまでケアヘア商品ではなく、脳に作用する商品だ。

 酒粕のにおいがする脳麹ペーストを、頭皮をマッサージするように塗る。ラップをして最低十分ほど、最長で半日放置する。その後すすぐと、頑固な考えが取れて考え方が柔軟になる。


 当該記事には、トランスジェンダー男性のカミングアウトを拒否した母と兄に脳麹を使用したことで、二人がトランス男性のことを少しずつ受け入れられるようになったという。この家族の場合は、一回だけ漬けるのではなく、一回十分使用するのを何度か行って、だんだんと考え方が柔らかくなったらしい。

 悠香は早速この脳麹をネットショッピングで購入した。公式通販サイトによれば、カミングアウト以外にも、新しい提案に首を縦に振らない上司相手にヘアケア商品だと偽って使わせて提案を了承させるといった使い方もあるらしい。

 三日後には実家に商品が到着した。悠香は自分の部屋で包みを開いた。外箱から脳麹だとバレないように、プリントのないシンプルな段ボールに、発送者は個人名のような名称になっている。

 また、中身にも脳麹という商品名は記載されておらず、いくつか用意されているデザインの中から選ぶことができた。悠香の場合、発毛商品っぽいデザインの商品を選んだ。これで父が疑うこともないだろう。ちょうど一週間後は父の誕生日だから、誕生日プレゼントとして渡せば気付かれることはないはずだ。

「お父さん、来週誕生日でしょう。これ、誕生日プレゼント」

 悠香はリビングに戻り、新聞を読んでいる父に脳麹を渡した。カミングアウトしてから、父は少し悠香のことを避けるようになっていた。カミングアウトした翌日も父は悠香を病院に連れて行くと言って聞かなかったが、母が「そういうものじゃないんだよ、同性愛ってのは」と珍しく真っ当なことを言って抑えたのだった。

「お、おう」父は戸惑いながらも悠香から脳麹を受け取った。「ほお、発毛か。ちょうど最近気になってた頃だったんだ。たまには俺もこういうのをやってみるかな。ありがとう」

 その日の夜、父は早速使用した。高い効果を期待したのか、父がラップを頭に巻いたまま寝室に入っていく姿を悠香は目撃した。どうやら半日頭を漬け込むようだ。元来父は真面目だから、説明通りに使用しているらしい。

 翌朝、リビングで悠香は父と顔を合わせた。

「おはよう」

 父は悠香の姿を認めると、新聞から顔を上げて挨拶した。すでに頭にはラップが巻かれていなかったから、起きた後にシャワーで流したのだろう。前日は悠香がリビングに足を踏み入れると隣の和室に移動したから、前日よりは悠香のことを避けていないようだ。

「おはよう。昨日あの発毛のやつ、使ってくれたんでしょう? どうだった?」

 悠香がそれとなく聞くと、父はニコニコと笑った。

「発毛の具合はまだ分からないけど、すごく頭がスッキリした気がするよ」父が顔を新聞に隠した。「それにちょうどセクシュアルマイノリティの人の記事が今朝新聞にあって気付いたんだけど、悠香は病気じゃなくて小さい頃からそういうものだったんだよなって、ようやく少し分かったよ。病院に行けなんて言って悪かったな」

 悠香は父が受け入れてくれたことが嬉しくて、思わず泣きそうになった。


 悠香は、一度だけでなく何度も父が使用することを想定し、脳麹を十回分購入していた。麹の新鮮さを維持するため、一回使い切りパックで個包装されている。だからまだ九パック余っている。

 悠香にはもう一つ脳麹を試したい相手がいた。勤め先の社長だ。

 社長はワンマンで、あらゆるものの好き嫌いが激しい。部下からの提案も、中身の善し悪しではなく部下の好き嫌いで決めるところがある。そして、あえて空気を読まずに、強気で言うべきことを言うことをモットーにしている第一秘書の悠香は、社長にとっては目の上のたんこぶだった。そもそも、商品開発部に所属していたのに「いい商品提案が上がらない」という理由で、悠香は三年前に秘書部に異動となったのだった。

 三日後の年末年始休暇明け、悠香は社長に「これ、最近巷で人気のヘアケア商品なんです。使用感が好きなんですが、社長も良かったら使ってみてください」と言って渡した。

「確かに最近のアンタ、髪つやつやだよね」睨むような横目で社長室の机に座る社長は、悠香をじろりと見た。「まあもらっておくわ。ありがとう」

 翌日の五度目となる新規事業会議、会議室には張り詰めた空気が流れていた。

 普段であれば、商品開発部の社長のお気に入りである上林課長の提案が採用されるのだが、上林が最近気に入らないのか、提案は悉く却下され、かといって他の人からの提案が受け入れられるわけでもなく、会議の回数だけが増えていたのだった。悠香は商品開発部ではないが個人的に提案を二、三度していたが、これも却下されていた。

 社長が入室した。途端に全員が立ち上がりお辞儀をした。

 最初に上林が五度目の提案を発表した。ネタを出し尽くしているのか、前回の提案とあまり変わりない。これでは「前と変わらないじゃない」と一蹴されるだけではないか、と悠香は懸念した。

「うーん、まあ悪くないんじゃない」いつもの熱の籠もった目ではなかったが、社長は上林の提案を否定しなかった。「まあやってみてもいいと思う。次」

 その後、悠香を含む三人が発表をした。そのどれもが却下ではなく「まあやってみてもいい気がする」という曖昧な返事だった。

「社長、今回の会議で提案された提案をすべて採用とのことですが、四つとも一緒にプロジェクトを進める予算はないので、一つに絞らないといけません。どれにしますか」悠香は会議終了前に立ち上がって社長に質問した。

「ええ、いや、別に私却下してないってだけで、オーケーも出してないよ」頭を掻きながら社長がふにゃふにゃと答えた。

「どういうことですか?」

「うーん、否定するほどでもないけど、これで行こうっていうわけでもないというか」社長の返答は何とも歯切れの悪いものだった。

「では、今決めていただかないと」

「今は決められないなあ」社長は立ち上がった。「今度決めましょう」

 社長は、社員が止めに入るのも聞かずに資料を持って、ゆっくりと会議室を出て行った。社員は「あの何でも自分の好き嫌いでぱっぱと決めるワンマンが、どうしたんだろうね」と互いに首をかしげていた。悠香もあんなに決めきれない社長の姿を見るのは初めてだった。


 悠香は帰宅後に改めて脳麹の口コミや使用感を調べた。すると、脳麹のデメリットとして「優柔不断になる」というものがあった。何でも、考え方が柔らかくなりすぎて自分の考えというものがなくなり、何事にもどうでも良くなってしまうのだという。

 「頭が柔らかい」というのは、自分の考えがないということではないのではないか。悠香は、父も自分のことを必ずしも真に受け入れて理解してくれたわけではないのかもしれないと思うと、心底がっかりした。

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