太っちょ先生
ある日に起きた小さな出来事は、いつまでもくすぶり続けた。
そしてある日それは最悪な方向に転がり落ちてしまうかもしれない。
「よし!各自防具をつけて組手の準備!」
キャプテンは全体に対して大きな声で言った。
空手の防具は、
・グローブのような拳サポーター
・足の甲に当てるサポーター
・すね当て
・胴当て
・透明なヘルメットのようなメンホー
これらの防具をつけて実際に戦う稽古を組手という。
組手にはルールがある。
伝統派と呼ばれる空手道の組手はいわゆる寸止めだ。
一言で世の中に空手といっても実はたくさんの流派がある。
その流派によっては、全く別の空手が存在しているのだ。
伝統派空手の組手は、オリンピックの種目に選ばれた空手である。
組手の試合はポイント制の試合になっている。
簡単に言えばパンチで1ポイント、お腹へのキックで2ポイント、頭へのキックで3ポイントとなっており、最終的にポイントが多い方が勝ちとなる。
ボクシングなどの格闘技とは違って強く打つと反則をとられ、更にノックアウトすると、ノックアウトした方が負けになるのだ。
安全面を考慮しつつ、最大限実戦に近い形をとった結果こうなったのだと思う。
とは言うものの、実際にはやや曖昧で寸止めといっても、実際には少し当てている場合がほとんどだ。
要するにノックアウトするために、打ち抜くのではなくて、攻撃を当てた瞬間に引く事によって相手へのダメージを与えないようにするのだ。
伝統派空手の戦い方はまるで剣道のように、とんでもなくスピードが速い。一瞬で勝負がつく。
ゆっくりと動いていてはとてもじゃないが、ポイントが取れない。
なのであっという間に相手との距離を詰めて一気に攻撃を仕掛ける。
攻撃が決まると試合は止まり、ポイントが与えられるのだ。
これが伝統派空手における組手稽古、つまり組手の試合だ。
キャプテンの指示で、組手の準備を終えた部員はみんな自分の道具を付けて、体育館中央に整列をし直した。
そこから全部員30名が2列に並び順番に組手の戦いをして行くことになる。
一人目が終わると、一人ずつ回って基本的に毎回違う相手と戦う事になる。
事件が起こったのは、その組手稽古が始まって割とすぐだった。
「いってぇ‥‥。」
うめき声が聞こえて、膝をついたのは海老名先輩だった。
「悪い!悪い!よし次!」
キャプテンは仕方ない思ったのか軽い感じで言った。
どうやらキャプテンの突きが、海老名先輩にまともに入ってしまったらしい。
これは本来は反則行為であるが、お互いカウンター気味に入ってしまったりする場合にはよく起こる事故だ。割と日常茶飯事なのであまり気にする事は通常であればないのだ。
そして次のメンバーの入れ替えを指示した。
「ちょっと待てよ!オイ!てめぇ!」
海老名先輩がブチギレて、キャプテンに掴みかかった。
キャプテンは掴みかかられても微動だにせず、ただじっと海老名先輩を見ていた。
その態度に海老名先輩はより一層怒りを顕にした。
「てめぇ!わざとやりやがったな!」
海老名先輩はキャプテンの道着の襟首を掴むと持ち上げようとした。
「わざとな訳ないだろ!」
キャプテンも掴みかかる海老名先輩の腕を抑えつつ、反論した。そこに町田先輩がキャプテンに言った。
「お前、何なんだよ。3年でお前認めてる奴はもういねえ!お前の事を仲間だと思っている奴は誰もいねーよ!」
町田先輩は怒りの表情でキャプテンに文句を言った。
「ふざけるなるなよ!マジで!」
海老名先輩は、町田先輩の言葉に押され、キャプテンを更に押し込もうとした。
キャプテンは襟首を掴んでいる海老名先輩の腕を振り払いながら、足払いをかけた。
海老名先輩はまるでテコの原理の応用みたいに激しく転倒した。
「なんだそりゃ!てめぇ!!」
横に居た町田先輩は、キャプテンに殴りかかった。
キャプテンはすっと身を引いて構え直すと、掌底で町田先輩の顔を一度叩くとそのまま町田先輩を押して、町田先輩の体勢を崩した。
おそらくこれは町田先輩にとって屈辱的だったと思う。
町田先輩は顔を真っ赤にして、キャプテンのところに向かった。
同タイミングで海老名先輩も立ち上がり、キャプテンに殴りかかろうという勢いだ。
この時、僕と松崎も他の3年の先輩も慌てて3人を引き離そうとした。だが、3人とも空手道部の実力者で体がデカイ。
松崎は海老名先輩を抑えていたがアッサリと突き飛ばされた。
僕はキャプテンの前に行き、先輩たちが来たら押さえるつもりだった。
「どけ!」
町田先輩は僕に怒鳴った。
「先輩!落ち着いてください!」
僕は大声で呼び掛けた。
町田先輩は僕の肩に手をかけたと思ったら、そのまま僕の肩を踏み台のようにして、キャプテンにパンチを浴びせた。
キャプテンはギリギリでかわしたが、その時に体勢を崩した。
すると松崎を振り払った海老名先輩が、凄いスピードでキャプテンとの距離を詰めると、殴りかかった。
部内で一番スピードのある海老名先輩の突きを、キャプテンはなんとか受け止めたが、完全に体制が崩れていた。
海老名先輩は連続で突きを放とうとした。同時に町田先輩はキャプテンに向けて怒りの表情で、中段蹴りを放った。
二方向からの攻撃は流石のキャプテンも避けられない。
棒立ちのキャプテンは、覚悟を決めたような、諦めのような表情だった。
その瞬間だった。
キャプテンの前に突如何かが割って入った。と言うよりも何かが突然出てきたというか、ワープしてきたかの様に現れた。
キャプテンは後ろに消えて代わりに「それ」が現れた感じだ。
二人の先輩は、あっ!と言う表情を浮かべたが、海老名先輩の突きも、町田先輩の蹴りもフルスピードだったので、とても止められるタイミングではなかった。
二人の攻撃は物凄いスピードでその「何か」に同時に直撃した。バコン!と大きな音がした。
その何かは、そのまま回転しながら数メートル吹っ飛んだ。
吹っ飛ばされたそれは、どうやら人だった。
「うわ!?」
「な!?なんだ!?」
実際に攻撃した二人も非常に驚いていた。
思わず二人とも動きも怒りも止まったようだった。
時間にしたら数秒だと思うが、かなり長い時間シーンと静まり返ったようだった。
その人はむくりと起き上がると、にこやかな笑みを浮かべた。
「いやー、びっくりしちゃたなー」
そう言って殴られ、蹴られた筈なのに何事もなかったかのように、すたすたと僕らの前に現れた。
その人は空手の道着を着ていた。
年は30才くらいだろうか。
きりっとした涼やかな目は優しげで、髪の毛は黒々としフワッと後ろに流していた。。
やや細い眉毛と整った顔立ちだ。
だが、空手衣とは不釣り合いな体格というか、強烈な違和感。
背は大人の割には小柄であったが、横幅は相当に大きかった。
一言で言うと「チビデブ」と言う言葉がピッタリだった。
そしてニコニコしながらこう言った。
「今日から君たちの監督をする事になりました!皆よろしくな!」
僕らは全員唖然とした。




