夏の始まり
太っちょ先生が来て1週間が経った。
先生はいつも部活が始まる4時近くになるとやってくる。
僕たちはスパーリングのダメージがあるかも知れないという理由で、組手の練習は禁止だった。
なのでひたすら型の練習に取り組んでいた。
みんな組手が好きなメンバーだったので、消化不良だったが、太っちょ先生の指導は面白かった。
徹底的にデジカメやビデオを持ち込んで、どこがダメで何が良いのかを見せてくれた。
元々型が上手だった海老名先輩や渋谷先輩は、たった1週間で見違えるように上手になった。
ビデオ撮影するとか普段の練習では、今まで見たことなかったけど客観的に見れるのは非常に勉強になった。
また大会が近いといういことで、組手の練習は割と実践的な事が多かった。
中でもキックミットと呼ばれるパンチやキックを受けれるミットを持参してきて、実践的な動きを徹底的に練習した。
ちょっと不思議だったのが、太っちょ先生は太っているのに、殆ど汗をかかないということだ。
結構激しく動いても、汗一つかかない。結構謎の多い先生だった。
ふとっちょ先生の指導方法は、ほぼ長所を伸ばす指導だった。
なので否定的な発言が殆どなかった。
何かに付けて「素晴らしい!いいねそれ!」等と声をかけていた。
太っちょ先生の指導が始まって2週間ほど過ぎた。
いよいよ身体能力的には大きく変わっていなかったけど、意識と実戦感覚という意味では、これまでと比較できないくらいに大きく変わった。
いろんな練習方法があって、毎日の練習が新鮮に感じた。
そして先生の話は、いつも面白くて、自然と先生の周りには人が集まった。
あと太っちょ先生の観察力は凄いものがあった。
例えばちょっとした動きが鈍いという所から、ある生徒が風邪をひいていることを見抜いたり、声がいつもとちょっと違うという事で、女子生徒が母親と喧嘩した事をズバリ言い当てたりしていた。
この人は本当に何なんだ?
空手部の中では先生の信頼が増す一方で、疑問な点も多く出てきた。
臨時の空手部監督の代理だから正式な先生もないので、授業を受けるとかではないけど、こんな先生がいたら楽しいだろうなと思った。
そんなある日のことだった。
「ねえ!ちょっと体育館にこれ持って行くから手伝ってくれない?」
クラスメートのサラに、僕と松崎は声をかけられた。
見ると大きな箱が5つ置いてあった。
「ああ、いいよ。でかいな。なにこれ?」
僕はサラに聞いた。
「チアで使う道具だよ。結構重いの。ね!お願い!」
彼女は僕たちに手を合わせて、にっこり笑った。
「お、、ああ、、いいよ。」
僕たちは、この笑顔に断る選択肢なんてなかった。
ちょっと小悪魔っぽいところがあるのか、誰に対しても物怖じしないのが彼女だ。
常に堂々としていて、困っている人を放っておけない下町のチャキチャキな女の子だ。
正直言って、僕らは彼女のことが大好きだった。
所謂三角関係とかではなく、事あるごとにさりげなくサラにアピールしまくっていた。
それを知ってか知らずか、僕らは上手く利用されている気がする。
だけど僕らにはそれが心地よかった。
僕らは5つの箱をいっぺんに体育館に運ぼうという事になり、ボクと松崎が2つずつ箱を持ち、サラは一つだけ箱を持つことになった。
彼女は一つだけ重たい箱を持った。重いのは僕が持つと言ったのだがガンとして譲らなかった。
こういう頑固なところがあった。
「オイ!気をつけろよ!」
僕はサラに声をかけた。
彼女はヨタヨタと箱を持って階段を降りようとしていた。
「大丈夫!大丈夫!こう見えて結構力あるんだから!」
と、彼女は無理に笑顔を作ってこっちを向いた。
ちくしょう!かわいい。
僕も松崎も彼女には敵わない。
ちょうど彼女が体育館に入るための階段を下りかけた時だった、元々不安定な感じだった所に、走ってきた男子生徒が軽くぶつかってしまった。
彼女は弾みで大きくバランスを崩した。
「あ!」
「サラ!!」
僕と松崎は青ざめた。
ほんの5メートル程度の距離、まだ間に合う!!
僕はダンボールを投げ捨て、猛ダッシュでサラを掴もうとした。
あと30センチくらいのところで掴めなかった。
彼女の体は耐えようとしたことがアダになって、まるで舞うように階段下に転落しそうになった。
間に合わない。彼女の体が視界から消え、そのまま数メートル下の硬い床に叩きつけられてしまう。
僕は声も出ずに、全身から力が抜けるのを感じた。
だがその瞬間黒い塊がすごい勢いでしたから飛んできたかと思うと、ガッチリと彼女の体を受け止めた。
更に重たい箱もあっさりと片手で受け止めた。
「危ない危ない!大丈夫かな?」
見ると太っちょ先生だった!
異常に素早い身のこなしで、サラが落ちるところを寸前で受け止めたのだった。
太っちょ先生は、サラを床に下ろすと荷物を下に置いた。
「お!なんだなんだ!お前らいたならサッと助けなきゃ!」
何も知らない太っちょ先生は、太ってるくせに爽やかな笑顔で僕らに言った。
そして手のひらをヒラヒラさせて「じゃあ後で」といって去っていった。
そもそもそんな人間離れした動きを、普通の人間ができると思っているのだろうか?
でも、サラが無事だったのは本当に良かった。
「サラ!平気か!?」
「大丈夫か!?」
ボクと松崎は慌ててサラに駆け寄った。
「誰‥‥?あれ‥‥」
サラは呆然としながら、先生を指さして言った。
「ああ、あれは空手部の代打の監督だよ。凄いだろ!太ってるけどね」
「あの人すげー面白いんだぜ。デブだけど」
僕と松崎がちょっと得意げに言った。
そういえば、チア部と最近一緒じゃなかったから知らないのだと思った。
「‥‥素敵‥‥」
サラは太っちょ先生の居なくなった方を、乙女の目で見て呟いた。
「ええ!?ウソだろ!!?」
ボクと松崎は、ほぼ同時に大声を上げてしまった。
今日はちょっと日差しが強くて体育館の外には、ちょっと気の早いセミの声が聞こえた。
僕は今年の夏が暑い夏じゃなければ良いのにと思った。




