End Days 〜再会〜 下
加筆・修正という名の改造を繰り返すうち、文章が当初考えてきた原型の倍ぐらいの分量になり、下がこんな分量になってしまいました。相も変らぬ駄作ですが、お付き合いください。
「………時瀬、話がある」
「…………はい?」
翌日、教室に顔を出すなり、俺は時瀬にそういった。
時瀬は俺の問いの意図が正確につかめないのか、いつもどおりの笑みにわずかな困惑を混ぜて、
「――――いったいどういう風の吹き回しですか、片原君? あなたのほうから僕に話しかけてくるだけでもかなり驚きなのに、あまつさえ『話がある』?」
椅子をスライドさせ、俺のほうに全身を向ける。
「一体、何があったんです?」
順当な問いだろうな、と内心で思う。
普段はつかみどころのない態度でこちらを受け流しつつも、本気で何か用があるときは決して逃げない。それがこの、時瀬貢という名の人物が持つ性質だ。付き合い自体は相当長いものだが、その付き合いの中で最も気に入った時瀬の性質といえばこれぐらいだろう。後は―――妙に勘が鋭い一点だけか。
なら、
「いろいろあった、とだけ言わせてくれ」
このわかりにくい言い方でも、深く詮索したりはしないはずだ。
案の定時瀬は考え込むようにあごに手をやり、そして少しの間を持つと、
「……………考えうる可能性はいろいろありますが―――突っ込みは抜き、ということにしておきますよ、片原君」
それだけ言うと、姿勢を崩した。
「それで? 僕に対して持ちかけたい話というのは、一体何なんですか?」
俺は手元にもったままになっていた学生鞄を探り、それを取り出した。
一冊の、大学ノート。
高浜幾夜の、『あいつ』の世界。
「――――とりあえず、これを読んで判断してくれ」
これを読めば、時瀬にもわかるだろう。
同じ時間をすごしていた、こいつなら。
「……………なんですか? これは」
「それもとりあえず、読んでから判断してくれ」
怪訝な表情を浮かべつつ、それでもきっちりノートだけは受け取ってくれる時瀬。こういう細かい点に関しても律儀なのが、こいつの美点なのかもしれない。
「………………………わかりました」
言いながらノートを机の中へ。
「授業中の空き時間にでも、読ませていただきますよ。聞きたい事は、これを読めばおのずとわかるんですね?」
「――――ああ」
その点だけは保障する。間違いなく、時瀬はあの一点に気づくだろう。
――――あの後、俺はあの泉を訪れた。
意味は特にない。単なる感傷なのかもしれないし、情けない逃走なのかもしれないし、もしかするとここへ来ることで何かが起こることを期待していたのかもしれない。とにかく俺は、あの後本当に病院へ行って(メモの内容に嘘はない)、そしてあの泉に向かったのだ。
俺の家で飼い猫と化している、拍手の手によって発見された泉。
病院へ行って来るという書置きを残し、家を出た俺の足はどういうわけかそこに向かい、特に何もすることなく、かえってきた。
帰ったとき、幾夜の姿は消えていた。
和室の中に残っていたのは、律儀にたたまれた布団が一組と、俺の鞄がひとつ、そして新たな書き込みがされたメモだけだった。
内容は、こうだ。
『読んでくれたなら、全部わかったよね?
最後の夕方、あの崖で待ってる。
どんな結果になっても、私は後悔しない。
リョウ君も、そのつもりで決断して。
どっちが生きることになるのか、決めるつもりがあるなら』
最後の日の夕方。
あの崖。
そこで、全部が決まる。
決める。
残された、一日ちょっとの間に。
「……………しかし、なんというか――――」
ため息交じりに、時瀬。
「幾世さんに会ってからまだ片手で足りるだけの人数しか経っていないのに、随分と入れ込んでいますよね、片原君」
「……そうか?」
ため息ではなく、今度はあきれたような笑みを浮かべる時瀬。
「ええ。一人の人物、しかも女性に対して友好関係を結ぶなんて、大きな変化じゃないですか。少し前の片原君なら、絶対にそんな事は自分に許容していませんよね」
…………。
そうかも、しれない。
俺は実際、異性と話すのは苦手だ。
事務的な会話を二三交わす分には問題ない。ちょっとした世間話程度なら、何度かしたことがある。しかしそれ以上となると、精神のほうに拒絶反応が出てしまうのだ。
ある程度の関係になって、向こうがこちらに対して好意を持ってしまったら――――
考えたくもない。
それだけ多くの影を、『あいつ』は俺の人生に落としているのだ。
「『彼女』を思い続けるのは結構です。しかし、そこまで強烈に思い続けるとなると、もはやそれは想いではなく呪いと呼ばれてしかるべきではないですか?」
「…………………」
呪い、か。
言いえて、妙だ。
「『彼女』の葬儀の直後、僕はひとつのことを恐れたんですよ」
「何をだ?」
「片原君の、死です」
…………。
「『彼女』を失ってしまい、周囲からそのことを責められ続けた片原君は、正直なところ旗から見て気の毒なほど磨耗してしまいました。そしてその中で、間違いなく膨大な罪悪感を抱くであろうことを、僕は予想したんです」
大当たり、だ。
「どうすれば留められるか、考えましたよ。で、行き着いた先が……正直なところ、かなり言いづらいものでした」
それは、
「僕も、片原君を責めることにしたんです」
なるほど………………
あの葬儀で聞かされた言葉の中で、俺がもっとも奇妙だと思ったものの答えがこれだ。
あの、時瀬の言葉。
時瀬は何かを押し付けることを絶対にやらない。何かをやらせたいときは絶対に本人がやる気を出すような言葉をかけるし、善意は無理に受け取らせない。
だから、あの日の言動は妙だったのだ。
明確にものを言わず、はっきりとその責任の所在を明らかにしない時瀬が、明らかに俺を責めていた。
『あいつ』が死んだ責任が、お前にもある。だから、そのために行き続けろ、と。
それは、そういう意味だったのか?
「効果は、抜群でしたね」
いつもどおりに、時瀬。
「よく今まで、生きてくれました」
「……どうしてだ?」
「はい?」
「どうして俺を、生かそうとした?」
責めるつもりはない。だが、知っておきたい。
何であの時、時瀬は俺を生かすような選択をしたのかを。
ゆるゆると、首を振る。
「友人を生かそうとするのに理由が必要ですか、といいたいところですが、今回のにはちゃんと理由があります」
「だから、その理由はなんなんだ?」
「単純な話ですよ。僕は、二人分の記憶を背負って生きる自信がなかった――――」
…………。
「二人分の、記憶?」
「ええ、二人分の記憶です。正確に言うと、自分の記憶、足すところの二人分の記憶ですから、実質三人分ですね。
故人を思うがゆえに、その人物のことを常に考えながら行動する。そんな状況を一章続けるだけの自身が、僕にはなかったんです」
「だから、俺に生きていてほしかった、と」
ええ、と時瀬はうなずく。
「片原君が生きてくれていれば、僕が背負うべき記憶は二分される。『彼女』の記憶は僕と片原君、二人の中に生きることになり、背負うべき重荷も、激減する。だから、僕は片原君を生かしたんですよ」
「―――――てめえ………」
つまりそれは、それをはっきりと宣言できるという事は、
お前にとって、『あいつ』の死はどうでもよくて、
『あいつ』の記憶はどうでも良くて、
ただ自分が可能か不可能化だけに感心があった、
そういう、ことか?
「どこまで…………自分勝手なんだよ……!」
ふつふつとした怒りが湧き上がる。このまま右のこぶしを眼前でニヤニヤ笑っていやがるこのいけ好かない男の顔面にぶち込んでやりたい、徹底的に破壊して二度と笑みなど浮かべられないようにしたい。
「………おっと、僕は一言も、『彼女』の存在がどうでも良かったなんていってませんよ、片原君」
あと一歩、残り数瞬の間があれば行動に踏み切っていたであろう俺を、時瀬は一言で止めた。
「それはあくまで、片原君を生かそうとした理由です。僕にとっても、『彼女』の死はかなり堪えた――――それは事実ですよ。
しかし、その後に考えたことが償いではなく自分の保身であった辺り、片原君の予想は、正しいのかもしれませんね」
視線をそらし、ノートに目をやった。
「いつも、そうなんです。僕という人物は、ね」
そして感慨深げに一言つぶやいたかと思うと、
一瞬だけ、確かに時瀬は悲しげな表情になった。
いつもならば決して見ることの出来ない、その表情。
俺はその表情に何かをつかんだような気になり、声をかけようとして口を開
――――チャイムが、なった。
タイムリミット。
こうなってしまった以上、時瀬はもう口を割らないだろう。
「じゃあ、時瀬。ノートに関する話は、また時間が空いたときに。遅くとも、昼休みまでに聞かせてくれ」
「了解しました」
言うが早いか、俺はさっさと自分の席に着席する。
…………眠い。
昨日は考えにふけるあまり、結局一睡も出来なかった。
午後からは用があって学校を抜けることになるのだ。それも確実に。だったら午前中ぐらい休息に使ったってかまわないだろう。
そう思い直して、鞄を机の横にかけて机に突っ伏す。
本日の欠席者、二名。
見知らぬ人、一名。
友達 一名。
今日という日は、それほどがんばりたくなかった。
× × × ×
俺が時瀬にたたき起こされたのは四時間目、教師の都合とかで自習になったらしいその時間のことだった。
ほとんどの生徒が教室から出て点でばらばら、自由奔放な時間をすごしているとき、それも人気が少ないころを見計らって起こされたらしく、周囲に人の姿はない。ちなみに俺は二時間目終了時に目が覚め、その後三時間目の授業を真面目に受けた後、四時間目が自習になったという知らせを聞いた後に再び夢の中に落ち込んだのだ。
よくこんなに眠れたものだ。
やはり見えないところで心労でもたまっていたのかもしれない。ここのところストレスの要因には事欠かないような生活を送っているのだ。それぐらいは、もしかすると当然なのかも。
そのおかげなのか、やたらと寝起きはよかった。俺の寝起きは殺人的なまでに悪い。普段なら、まず会話など成立しないほどの寝起きの悪さだ。悪夢を見たときなどは別だが、今回のは特に悪夢を見ることもなく、寝起き特有のぼんやり感もなし、頭の隅まで澄み渡っているかのような清涼感まで伴っていた。
「…………驚きですよ。実に、ね」
俺の正面から、しかしいつもどおりの慇懃無礼な挨拶を割愛して、時瀬。
どうでもいいが、寝起きの男に、しかも目が合った瞬間それなのか。
俺の寝起きの悪さを知ってるくせに。
まあ、今回のは特別よかったからかまわないけど。
「何が、そんなに驚きなんだ?」
机に伏せていた顔を上げる。
「…………決まっているでしょう」
1+1の答えを問われたときのような表情をする時瀬。
………なんだろう。それほどにまでわかりやすいことなのだろうか。
「で、これをお前はどう見る?」
これほど明確な異常もなかろう。
言われた時瀬は、呆れたときなどによくやる風に首をゆるゆると振り、
「どうもこうも、」
たまたま空いていた(と、言うかこの教室に今現在いるのは俺と時瀬を除けば一人しかいないので空いているのは当然だ)俺の正面の席に座る。
「あなた、僕が落ちかかったときの話をこれを描いた人物に聞かせましたか?」
これの作者、つまりは幾夜か。それなら、
「ああ、話した。けど、これを渡される一日前だぞ?」
「それなら納得できないでもありませんけど………」
「けど、何だ?」
自然と身が前に出る。
「それにしては、あまりに似ていると思いませんか?」
ノートの表紙から目を上げ、俺と目をあわす。
「俺たちに、か?」
「ええ」
時瀬は首肯した。
「片原君、あなたはその人にどこまで話しましたか?」
「話したのは、さっき言った程度だ。それ以上は話してない」
「だとしたら、かなり妙なことですね………………」
考え込むようにあごに手をやる。
「なら、どうしてこの作者は僕があなたに、『物知り』が『彼』にいってしまったことを知っているのでしょうか?」
おいおい、書いてあっただろう。
時瀬は見た目どおり聡明な男だ。やる気がないため成績自体はそれほどいいものではないが、こういうやる気が自然と出るようなものに対しては滅法頭もいい。
の、だが。
どうやらその評価は下方修正するべきらしい。
「そりゃ、後半に書いてあっただろう」
書いてあることの意図を読めないなんて、馬鹿にもほどがある。
すると時瀬はきょとんとした表情になり、
「後半? 崖の上でのあたりですか?」
「違う。下だ」
下? と時瀬はつぶやく。
もしかして、こいつ…………
「そんなシーン、ありましたっけ? 僕の記憶によれば、落下してその場で終了だったはずですが……………」
まさかとは思っていたが、やっぱりか。
「すまん。説明不足だったか。お前の読んだ部分で終わりじゃないんだ、それ」
言って、時瀬の手からするりとノートを抜き取り、件のページへと進めていく。
「ここだ」
ちょうど始まりの部分を指し示す。
「なるほど。確かに、見落としていたようですね。拝見します。五分ください」
いいだろう。その間、お前の表情の観察でもやっているさ。そんな趣味ないけど。
俺に言うが早いか、すぐさま熟読体制に入る時瀬。こいつはこの状態になったら周りのことが一切見えなくなるほどの集中力を見せるのだ。その間、こちらの言葉には一切反応しなくなり、周りの状況すら見えていないことも容易にうかがえる。
そんなわけで少しの間退屈することになった俺は、とりあえず時瀬の表情観察でもやっていることにした。
真剣そのものの表情。
一切の周囲の状況を締め出すことにより生まれる、驚異的な集中力。
それによって作られた、究極的なまでに真剣そのものの表情。
崩れることは、たぶんないだろう。
その予想が裏切られたのは、十五秒後のことだった。
それは、歪みだった。
こいつは大抵、笑ってる。
今回のように思い切り集中しているときや、一人でいるときを除けば、人と接するとき、まず笑っていると言っていい。
笑い方自体は微妙に含みのあるような、わずかに愛想笑いと思えるようなものなのだが、こいつはそれ以外の表情を他人がそばにいるときに見せることはない。
仮に不愉快になったとしても、俺以外のものの前で見せるのは不愉快な表情などではなく、いつも苦笑だ。だからこいつは怒らないやつ、という印象がついており、女子生徒からも多大な人気があるのだが、それはこの際関係なく、用はいつもこいつは笑っており、みょーに心の許容範囲が広く物事に動じないやつで、冷静なときの表情以外ほとんど見たことがないということだ。
その時瀬の顔が、驚愕にゆがんでいた。
現象に対する驚愕、ではない。
『なぜこれがこんなところにあるんだ』といった、現象に対する、巨大な不自然、理解不能なものに対する驚愕だった。
そんな表情を形作るとすれば、それはつまり、
――――こいつは、その話が本物だと知ってるのか?
わけがわからない。
俺は今、時瀬の手にあるノートに書かれていることが本物だと理解できているのは『アコヤ』が目の前に現れたからだ。そうでなければ単にリアルな空想小説だと一笑の元に忘れ去っただろう。
つまり、本物だという証明が、現実であるという根拠がないのだ。
早い話が、証拠がない。
証拠がないとはつまり、現実ではないという根拠になるということ。
それに対してこの理論で塗り固められているような男が驚愕する? 驚愕したということは、つまりその物語の中に現実であるという根拠を見出したということだ。
それは、なんだ?
どこから現実を見出したんだ、この男は。
俺はその疑問を抱えながらも、声をかけることはしなかった。
あの分量だ。すぐに読み終わるだろう。終わってから、質問すればそれでいい。
事実、そこから読了までに要した時間はわずかに一分だった。
「………………ずいぶんと驚いてたな、お前」
「ええ……………驚愕せずには、いられませんよ」
時瀬はノートの、『それは女の子だった』という一文を指し示す。
「特に、この少女については」
言って時瀬は、それまで驚愕にゆがんでいた表情に笑みをたたえた。いつもの微笑ではなく、飛び切り凶悪な、肉食獣を思わせるような笑みを。
「さて、聞きたいことは大筋検討が付きました。約束どおり、乗れるところまで乗らせていただきますよ、高城君」
笑みを浮かべたまま、余裕たっぷりの表情。
それよりこいつ、
さっき、俺のことをなんて呼んだ……?
「その前にちょっと待て」
「なんです?」
いつもなら不審そうな顔をするところなのだろうが、今日のこいつは笑みを崩さなかった。
「お前、これは小説だぞ? けど、何で意見交換じゃなくて質問だって断言できるんだ?」
「簡単な話です。つまり、」
これが現実にもありえると知っているから、
「…………ですよ」
「―――――――――――――っ」
コレガ
ゲンジツニモアリエルト
シッテイルカラ
「さて、聞きたい内容については大筋察しが着いています。ですから、それについて、僕なりの回答を述べさせていただきますよ」
言いかけた言葉を完全にさえぎられる。
「恐らく、高城君が聞きたいのは『自分がどちらを選ぶべきか』ですね」
「………………っ」
言葉を詰まらせる。
肯定も否定も耳にすることなく、時瀬は続けた。
「高城君は自らの命を差し出したい、しかし『彼女』はそれを受け取らない、早い話、自分を殺してくれない。両者の望みが相反するものであるがゆえに、どちらを優先するべきなのかを決めあぐねている。そうでしょう?」
「―――――っ」
そうだ、と肯定することも出来ず、俺はただ言葉を詰まらせるだけだ。
「では、それに対して僕なりの回答を述べさせてもらいますよ」
ノートを机の上に放り出した。
「自分の選びたいほうを選べば、それでいいんじゃないですか?」
自分の選びたいほうを、選べ?
つまりそれは、早い話。
向こうの意思を無視しろ、ってこと――――
「けど、あいつは――――」
そんなことを、しない。
俺を殺してくれは、しない。
時瀬は断言するように、続けた。
「彼女の望んでいるいないに何の関係があるんです?」
実に的をいた意見だった。
「人が望んでいることをかなえることに何の意味が? それが自分にとって最悪のデメリットを生むとわかっているのに、それをかなえるのは愚者のみですよ」
席を立つ。
俺に背中を向ける。
「最後にひとつ、言っておきます。
僕は、二人分の記憶を背負って生きることなんか、したくない。
先ほども言いましたが、僕はあなた方二人の記憶を背負うなんて事は絶対に出来ない」
でも、
「どうしても決められなかった場合は、どうぞお二人のお好きなようにしてください。これは、僕のわがままなんですから」
「………何が言いたいんだ?」
「何、ちょっとしたヒントのようなものですよ。役に立つかどうかはおいといて、ですが」
二人分の記憶を背負う、ということは早い話、俺と『あいつ』、その二人が同時に死亡した場合のパターンだ。つまりそれを上kると言う事は…………
「俺が、心中するとでも思ってるのか?」
「最終的にはそれもありだといっただけですよ。では、僕は昼食に向かわせていただきます。明後日も、無事に会えるといいですね」
そんなことと、
冗談めいた笑いを残し、
時瀬は教室から出て行った。
「…………………………」
はっ、と俺は笑う。
まったく、相談なんてするものではない。まったく話が進まなかったどころか、余計にややこしくなってしまった。
「自分の選びたいほうを選べ、か」
それができないから、相談しているのに。
おまけに最終手段としては心中もありだってか? そんなことすれば、本気で共倒れじゃないか。出来るわけない。
「あ〜、わけがわからん」
結局、あいつはどっちを望んでるんだ?
俺が残るほうか、それとも『あいつ』が蘇るほうか。
あるいは、どちらでもかまわないのだろうか。あいつにとっては両方友人だし、どっちが残ったとしてもあいつの背負うものは何一つ変わらないのだから。
一人分、その半分の、記憶。
分量も何一つ変わることなく、あいつは生きることが出来る。
なら、あいつに決断の相談を持ちかけたのは間違いだったのだろうか。
「……………………」
あいつは、どちらでもいいと言った。
しかし、
――――あの人なら、なんていうだろうな…………
なんというかは、不明瞭だ。
しかし、恐らく。
時瀬とは違った、明確な回答を導いてくれるはずだ。
俺は無心で眼前のノートの裏表紙をめくった。
そこには、文字。
『あいつ』の筆跡で書かれた、言葉。
俺はそれを少しの間眺め、
「………………」
無言で携帯電話を取り出た。
× × × ×
最後の日の夕方、全部決めよう。
私は、もう決めたから。りいも、決めて。
どんなことになっても、後悔しないから。
いつもの場所で待ってる。
P.S 必要なら、ここに電話してください。
きっと助けになるから。
××××―××―××××
× × × ×
プルルルルルル プルルルルルル
プルルルルルル プルルル
ガチャッ
『――――もしもし?』
「………………お久しぶりです、××さん」
『………誰、でしょう?』
「…高城、リョウです」
『――あなた……………!』
「昼間から、連絡したりなんかしてすみません。どうしてかけてきたかは、聞かないでください」
『………………………………』
「あの時は、すいませんでした。俺の不用意な行動のせいで……」
『………………………………』
「俺を責めてくれても、このまま電話を切ってくれても、かまいません。でも、その前に聞きたいことがあるんです。かまいませんか?」
『………………………………』
「…………っ。申し訳ありません。俺、考えてみれば××さんと話す資格なんて、ないですよね。俺のせいで、随分と…………」
『――――いえ…いいんですよ、もう。私も、あの子のことであなたに随分とひどいことをしてしまったから』
「いえ、こちらも、それは受け入れてます。責任は、俺にあるんですから」
『責任があるとは言っても、いくらなんでもあれは、やりすぎだったわ』
「いえ、いいんです――――」
『………そう………なら、せめて会って話させてくれない?』
「今から、ですか?」
『ええ。そちらの都合が付けば、だけど』
「大丈夫です。でも、どうして――――?」
『あなたと同じで、私にも聴きたいことがあったから、この機会に。………かまわない、かしら?』
「…………………………かまいません。どこで、お会いすれば?」
『駅前で、どう? 出てこられる?』
「ええ。時間は、どうします?」
『十五分ぐらいで、そこまでいけるから、二十分後に』
「わかりました。では、二十分後、また」
ピッ
ツー、ツー、ツー
× × × ×
どこの町でも、駅前というのは大抵活気があると相場が決まっている。流通の通信、移動手段として最も足るものである電車がデイ入りする駅は、どこでも重要なものになるからだ。
駅があるところなら、それはどこも変わらない。
それはつまり、俺の町でも。
オープンカフェ 『アルギノーニ』。
そこで、俺は待ち人を待っていた。
電話をかけてから、すでに十八分。
ダイヤグラムのとおりに運行されているとすれば、あと一分でバスが来る。
午後に入って、一時間。つまりは昼の一時。
交通の中心である駅前といえど、この時間帯はいつもガラガラであり、それがさらに平日ともなれば閑散としていて当たり前である。
当然、午後の授業はサボってここへ来ている。
が、そんなことはどうでもいい。
そんなこと、もう下界の都合だ。
今は、あの人を待っていればいい。
ホットコーヒーの水面を見つめて。
向こうが、話しかけてくるのを。
…………大型車両の、エンジン音が聞こえた。
茶色みがかった黒の水面が、わずかに振動で揺れる。
ブレーキ音。
ドアの開く音。
足音が一組。女性のものだろう。音が男物の靴ではありえないほど硬く、そして軽い。
ドアの閉まる音。発車音と再びエンジン音。
近づいてくる、足音。
その足音は俺にじっくりと近付いてくる。
そして、
「……………久しぶりね」
声が、かかった。
反応し、俺は顔を上げる。
薄手のシャツに、デニムのズボン。足元はローファー。年齢不詳の、何処か若々しい印象の女性だ。
「………ええ。三年ぶりぐらい、でしょうか」
彼女が、俺の正面の席についた。
寄ってきた店員に、紅茶を注文する。
そして俺は、その人物に向き合い、
「…………あらためまして、
お久しぶりです。片原さん」
俺は、『あいつ』の母親と挨拶を交わした。
俺が『片原』を名乗っていたのは、それが『あいつ』の苗字だったからだ。
昔、俺は思った。自分はきっと、このままでは『あいつ』のことをすぐに忘れてしまう、俺が『あいつ』と関わっていた証が消えてしまう、と。
なら、忘れないようにするにはどうすればいいのか。
思いついたのが、これだった。
『あいつ』の名前を名乗ること。
それが、まだ小さかった俺にできた最善の策だった。
それが今まで続き、その当時からの友人や、事情を知っているもの、あるいは誰かがそう読んでいるのを耳にした人物、例えば時瀬や幾夜、保健教師などは俺を『片原』と呼ぶ。
だが、今はもう必要ない。
一時的にせよ、『あいつ』が蘇ってきている以上は。
俺はもう、『片原』である必要がない。
「電話でも言ったけど、話というのは、あの子のことよ」
「あいつの、ですか?」
俺は今、『高城』だ。
「まず、言わせてくれるかしら? 私は、もうあの子のことで、あなたを責める気はないって」
「…………それはまた、どうして?」
コーヒーを一口。
あの日のことを、俺はよく覚えている。
あの日、俺は片原さんに思い切り殴り倒された。
『あいつ』の葬儀の際、片原さんに対して俺はすべての事情を話した。時瀬の言葉のこと、俺がどう思ったか、そして『あいつ』に対してどんな風に接したか。
そしてすべての説明が終わったとき。
俺は頬に痛みと強烈な衝撃を感じ、気がつけば床に倒れていたのだ。
そして、耳にした言葉。
『許さないから』。
罪悪感しか、感じなかった。
痛みも、悲しさも、辛さも、いたたまれなさも、何一つ感じることなく、俺はその際に罪悪感の固まりになっていたのだ。
一生許される事はないだろう。そう思うほどの。
しかし今、
俺は、許された。
『あいつ』の、母親に。
特に間を挟むことはなく、片原さんは言葉を続けた。
「忘れるわけじゃない。けど、このままではいけないと思ったから」
片原さんも紅茶を一口。ストレート派らしく、砂糖もミルクも入れていなかった。
「確かに、そのほうがいいのかもしれませんね……………」
過去をいつまでも引きずっていては、ならない。
過去というのは、文字通り『荷物』なのだ。
「言っておきたかったのは、そのこと。
私はもう、あの子のことを『過去のこと』にした。
あなたも、そうしたほうがいいんじゃない?」
意外な一言だった。
俺にとって『あいつ』は友人だ。だから俺のせいで死なせてしまったという強烈な罪悪感さえなければ、きっともうとっくに忘れてしまっているだろう。
しかし、片原さんは違う。
片原さんにとって、『あいつ』は『一人娘』なのだ。
それも『他人の手によって死んで』しまった、存在。
それを、果たして三年間で過去に出来るものなのだろうか。
虚を付かれ、一瞬反応が遅れた。
「――。俺も、ですか?」
「そう。あなたも、ずいぶんとあの子に縛られているでしょう? あなたの友達から、聞いたわ」
言って片原さんは俺の左手首を見た。
袖口からちらりと覗く、白い包帯。
それだけで、連想のキーワードとしては十分すぎるだろう。
「……いつですか?」
「……………昨日のことよ。あなたが、あの子が帰ってくるのなら自分の命でも投げ出してしまいそうだ、って。
びっくりしたわ。あなたがそこまで罪悪感を抱いてるなんてね」
「ええ…………」
だから、
「罪悪感だけでなく、喪失感も、覚えました。死んでしまいたいと、思うぐらいに……」
「……………………そうだったの」
実のところ、俺は心のどこかで時瀬を恨み、また感謝もしていた。あいつの言葉があったからこそ、俺は今日という日まで生きてこられたのだから。
そうでなければ、今の体験はない。
『あいつ』との、再会は。
「――――私も、一度だけそう思ったわ」
「片原さんも、ですか?」
持ったままだったカップをソーサーに戻す。
「ええ。一昨年の、あの子の誕生日に」
「……………それで、どうしたんですか?」
いたずらっぽい笑みを浮かべる片原さん。
「見ての通り、生きてるわ。死んだら、あのこのことを覚えてる人が減ってしまうし、それに、あの子はそれを望んだかしら? そう思えてきて、ね」
「―――――――」
やっぱり、片原さんは俺より大人だ。
自らの望みと他人の望みを天秤にかけられ、そしてその結果がどれだけ自分にとって辛いことでも、思っている人の望みを優先できる人。
できることなら、俺もそんな風になりたかった。
俺のそんな心中を呼んだのか、片原さんは苦笑した。
「関心なんて、しないでね。単に度胸がなかっただけだから」
「いえ、けど、そう思ったのは事実なんでしょう? 俺も、そんな風に選べれば…………………」
あくまで推測だが、恐らく今俺が直面してる問題が俺にとって最悪の選択がなされる形で解決されてしまった場合、今度こそ俺は壊れてしまうだろう。
しかし、そちらを選んだことで変化するのは俺の心中。
どんな精神状態になるにせよ、俺はまだ生きているだろう。
そしてそれこそが恐らく、『あいつ』の望みなのだ。
「……………、……………じゃあ、そちらの用件に移りましょうか」
「俺の、ですか?」
ええ、と片原さんが上品な仕草でうなずく。
「私か、あの子のことで何か聞きたいんでしょう? 電話でもそういっていたじゃない」
「…………………………」
俺の用件は、つまるところひとつだけだ。
「聞きたいことが、あるんですよ」
「それは、あの子のこと?」
コーヒーを一口。
「はい、『×××』のことで、二つほど」
「――答えられる範囲でよければ、答えてあげる。
それで、何が聞きたいの?」
「たいしたことではありませんけど、
『アコヤ』という言葉に、聞き覚えはありますか?」
「……………『アコヤ』?」
そう、アコヤだ。もしかすれば、あの陰のような少女は片原さんのところにも訪れているかもしれない。
可能性としては極々低い。
しかし、万が一片原さんの下にアコヤが訪れていて、
億が一、すべての事情を教えられていて、
兆が一、それを現実だと認識していたとすれば、
果たして、そこで何を願うんだろうか。
過去の存在となった自分の娘に、再び会いたいんだろうか?
もしそれを望んでいるのなら、俺は……………
「……………………………よく、覚えてないんだけど。去年、あの子の遺品を整理してたら、小さな包み、というか袋が出てきたの。そこの中に、小さなメモが入ってて、そこに確か『アコヤ』と…」
メモ?
袋?
いったい、なんなんだ?
「その包みの中に、ほかに入っていたものはありますか?」
「確か、小さな、ピンクパールが入っていたと……………」
ピンクパール…………?
「そんなものを持っていたという記憶はないんですか?」
「ないわ。あの子、そういうのほしがらなかったし、私も持ってなかったから」
なおさら不可解だ。
「それ以外で、『アコヤ』という言葉は?」
「聞いたことは、ないわね」
「そうですか……………」
と、なるとあの少女は片原さんには接触を取っていないわけだ。
直接的に相談するわけにはいかないだろう。
あいつが帰ってきたら云々も、まずいかもしれない。
せっかく過去のことになりかかってるんだ。下手に思い返させないほうがいいだろう。
しかし、こればかりは聞いておかねばなるまい。
「もうひとつ、いいですか?」
「何かしら?」
「もし、あいつが蘇ってくる手段があったとして、」
一息の間。
「片原さんなら、どうします?」
「……………………」
片原さんは、沈黙していた。
考え込んでいるのだろうか。
それともこちらの心中を模索しているんだろうか。
あるいは激怒する前触れなのだろうか。
そのどれでも、俺は受け入れてしまいたい。
それは、片原さんの中で、あいつがどう変わったかの答えになるのだから。
そして、
片原さんが、どっちを望んでいるかの答えになるのだから。
「………………………」
ずいぶんと長い間沈黙している。
何を考えているんだろう。
バスが一台、到着する。そしてそこで乗客を吐き出し、再び出発。
それだけの間をおいて、ようやく片原さんは口を開いた。
「……………どうも、しないんじゃ、ないかしら」
「どうして、ですか?」
「もし、そんな手段があったとしても、あの子は帰って来たいと思うかしら? きっと、あの子のことは、このままにしておいてあげるのが一番じゃないかって、思うの」
「……………………」
「それに、もし帰ってきたとしても、つらいだけじゃないかしら? あなたにとっても、私にとっても、ね」
返す言葉もなかった。
確かに、そうだろう。
あいつに会い、贖罪の言葉を並べ立てたいという衝動に、ほんの数日前の俺は常にさらされ続けていた。
さらされ続けていて、いつか本当に狂ってしまうのではないかと心配されるほどに。
けれど、その後は?
今まで存在しなかった人間がそこに存在するとしたら、それはただの苦痛にしかならないのではないか?
「自分の望みと、人の望みはいつもすれ違うものよ。自分にとっての最善が、相手にとっての最悪になっているかもしれない。相手がこちらを思って行動した結果が、自分に傷を負わせることにつながっているかもしれない。
何かを望むって言うのは、そういうことよ。
だから、私はきっとあの子が帰ってくることを望んでいたとしても、それをかなえる手段があったとしても、使わないと思うわ……………」
ポツリつぶやき、辺りを見回す。
「どうかしました?」
「いえ、きっと気のせいね。
とにかく、私はそれができたとしても、それをやらない。それに、そういった行動には絶対何かしらの代償が付きまとうものよ。その代償を払うだけの覚悟が、私にはないわ…………」
片原さんは、とても辛そうな表情をしていた。
今にも、泣き出してしまうそうだと、俺が感じてしまうほど。
「聞きたいことは、それだけかしら?」
普通の表情を装い、俺に尋ねてくる。
それが俺の罪悪感を刺激し、妙に居心地が悪くなったような気になった。
「…………はい。今日は、すいませんでした……。こんな時間に、こんな話をするために呼んでしまって……………」
コーヒーを一口。
片原さんは微笑んでから、俺と目を合わせた。
「いいのよ。私も、そろそろあなたと話しておかなければ、って思ってたし。ちょうどいい機会で、こっちも助かったわ」
向こうも紅茶を一口すすりこむ。そしてカップをソーサーにおいて、
「そちらさえよければ、学校の事を聞いてもかまわない?」
「いいですけど、なぜ?」
「いえ、ちょっとした興味本位よ。電話してきたあなたの友達、あまりにもあの子にそっくりだったから、確認に」
「…………………………………」
× × × ×
夕方になって、俺は例の場所にいた。
例の、崖の上だ。
普段なら、絶対にこんなところにしょっちゅう来ることになるとは思わなかっただろう。
しかし、この数日の間に状況はずいぶんと変わった。
動くはずがないと思っていたものが動き、変わるはずがないものが変わった。することがないと思っていたことを行い、考えるはずのないものを考えた。
ずいぶんの密度の高い数日だったと思える。戻ってきたあいつとあった日、その次の日からあいつの隠されていた部分に触れ、その次の日にここへ来た。そしてその次の日、なんと昨日のことだ。あのノートを渡され、現実を知った。
そして、今日。俺は片原さんと再会した。
ありえないと考えてきたことばかりだ。
ここで、明日。さらにありえないことが起こる。
俺は、どちらを選ぶべきなんだろうか。
俺は『あいつ』に殺されたい。
殺されて、俺が奪ってしまった命を『あいつ』に返してやりたい。存在したはずの人生を取り返すことは出来ない。しかし、この先を与えてやることぐらいは出来るだろう。二度目の人生を与えることぐらい、できるだろう。
しかし、『あいつ』は俺を殺さない。
望みが、俺と比べて純朴だからだ。
ただ、俺と数日を過ごしたかっただけ。
何日かを過ごし、そこで幸せをかみ締めたかっただけ。その後に続くことをまったく望まず、だからこそ俺を殺すことなんて考えない。
望みは、完全に相反している。
そして俺の望みをかなえるためには『あいつ』の手が不可欠で、
『あいつ』の望みをかなえるのに俺の手はいらない。
ならば、俺たちはどうすればいい?
あいつに俺を殺させるには、どうするべきだ?
まったくもって、わけがわからない。
この期に及んで、俺は、何一つできないのか?
自分のふがいなさに苛立ちが募った。
『自分の望みと、人の望みはいつもすれ違うものよ』
片原さんの言葉が頭をよぎる。
そのとおりだ。だから、迷う必要なんかないはずなのに。
「もういい」
俺はそうつぶやいた。
誰に言うでもなく、ただつぶやいた。
「………もう、悩むのはやめだ」
悩んだところで、もうどうしようもない。
俺は、望みをかなえられないのだ。
かなえることを、許容されていないのだ。
だったら、俺にはどうしようもない。
だから、せめて最後まで傍観させてくれ。
どんな結果になっても、受け入れるから――――
「あきらめるには、まだ早すぎる」
「…………え?」
ほうけた声が、口から飛び出る。
間違いない、この舌足らずなくせに大人びた口調、背後にあるあるようでない気配、異常がそこにある感覚。これらが示す存在は、
「――――アコ、ヤ………?」
「ええ、私」
どうなっている? アコヤは俺に告げるべきことを告げた。迫るべきことを迫った。そしてその後に、俺にも選択する必要があることを告げるとそのまま消えたはずだ。
俺はもう、全てを知っている。
なら、どうしてアコヤがここへ来る?
何の用もないはずなのに、どうして……?
「何で、」
「現れたかは特に疑問視するべきじゃない。重要なのは、私が何をしに来たか」
確かに、正論だ。
「なら、何しにきたんだ」
俺に、もう用はないはず。
だったら、現れる理屈もないだろう。
俺の言葉をどう取ったのか、アコヤが俺の真横まで移動してくる。
相も変らぬ、影人形。
しかし今回はその顔に当たる部分に、なんとなく翳りが見られるような気がした。
そこでふと思い出す。はじめてあったときのやり取りを。
『その問いには答えられない』
『どうして』
『私もわからないから』
あの時も、ちらりと、この影人形は表情を歪めていたような気がする。案外このアコヤという存在も、完全に無感動というわけではないのかもしれない。
しかし、何で今回はこんな表情になっているんだ?
他人事なのに。
「……………あきらめて、ほしくなかったから」
「へ?」
ポツリと、アコヤがつぶやく。
「あきらめたら、そこですべてが終わる。どうせ終わるなら、最後の最後まであがいて、最後の最後まで考えて、最後の最後のまで行動して、最後の手段まで使い尽くして、そしてそれでも駄目になってからはじめて、あきらめて」
まだあなたには、やれることがある。
そう、アコヤは続けた。
「まだ、やれることがある?」
「ええ」
「まだ、何かできるのか?」
「ええ」
「まだ、俺の望みはかなえられるのか?」
「さっきから、そういってる」
まだ、何かできる? 俺が? でも『あいつ』は俺を殺せない。俺が殺してしまった少女。俺が死なせてしまった少女。どうすればあいつに俺を殺させられる?
むりだ。
いや、
できるはず。
思考をこらす。アコヤの言葉を思い起こす。
最後の最後まであがけ最後?それは明日の夕方それまでに可能な手段すべてには意味があるはずあきらめるな今日俺がしたこと時瀬との会話片原さんとの対話そこにはたいしたものがなかったならその前朝ならどうだ?俺は何かを忘れていないか?最後の最後最終手段禁じ手いかなるものでも行って掴み取る相手を殺すその定義は何だ?どうすれば『あいつ』は俺を
「………なるほど」
そういうことか。
「つまり、俺の望みをかなえたければ――――」
立ち上がってアコヤを振り返る。
向こうも俺の言わんとしていることがわかっているのか、何処か達観したような様子で立っていた。
……………しかし、横に並ぶと小さいな、アコヤって。
が、そんな事はどうでもいい。
「 ?」
今は、
「 、 、 、 」
言葉を交わせ。
「 、 ?」
「 。 」
俺の望みを、かなえるために。
自分のためにすべての意思を無視しろ、他者が何を思おうと、自分の願望を突き通せ。
それが、望みをかなえるということだ。
「―――――そうか」
手段は、見つかった。
後は、実行するだけ。
しかし、本当にいいのだろか?
これを実行するという事は、真の意味で『あいつ』に対する命の押し付けになる。そうであるとしてもなお、俺にはこの願望をかなえる気概があるのだろうか。
…………当たり前だ。
そんなもの、もうとっくに持っている。
『あいつ』が俺の前から消えてしまった、三年前から。
「――――決まったのね?」
アコヤが、いつもとまるで変わらない冷淡な様子でたずねてくる。
「ああ、決まった」
と、なると、俺には少しばかりやるべきことがある。
アコヤに背を向け、慣れ親しんだ森の中へ歩を進める。
っと、その前に。
「……アコヤ、」
「何?」
怪訝な声。それもまあ、当然だろう。
「ありがとな、こんなこと、教えてくれて」
アコヤは何か考え込むように少しの間黙り込み、
「――――気にしないで」
そっけなく、少しぶっきらぼうに返事を返した。
× × × ×
味のない自作の夕食と、眠りのない夜を経て、朝。
とうとう、この日を迎えてしまった。
最後の日。
俺の最後なのか、あるいは『あいつ』の最後になるのか、それは今日どういう流れになるか次第だろう。しかし、今日という日の中に、必ず何かひとつが、ひとつの命が、
終わる。
…………。
しかし、俺の心はどこか晴れ渡っている。
悩みから開放されたから、なのだろうか。
それとも自分の願望をかなえる手段を発見できたからなのだろうか。
あるいは、罪からの開放を喜んでるからなのだろうか。
それらのうちどれなのかは、定かではない。
いつもどおり、足の指まで含めても数え切れないほどの画鋲が入っていた上靴を履き(もちろん画鋲は抜いた)、教室へ。
最後だと思うと、このいつもどおりの風景もどことなく感慨深い。すれ違う何処かで見た覚えのある人物(多分同じクラスの連中だ)の向けてくる奇異なものを見る目線も、いつもなら邪魔だとしか思わないような壁も、そう思ってしまえばどことなく心地よい。
この分なら教室の中の弾幕も、それほど怖いこともないな、などと思いつつ教室のほうへ向かっていく。
教室の前で時瀬に出くわした。
「おはようございます、高城君。今日は最後の日、ですね」
いつもと変わらぬ雰囲気で、いつもと分目の上だけでは変わらない挨拶を受ける。しかし、その声音が少し殺伐としているような気がするのは俺だけか? いつもと、微妙に雰囲気が違う。
「どうかしたのか? 時瀬」
ゆるゆると首を振る。
「いいえ、何も。ただ単に、友人を確実に一人失わなければならないとわかっているがゆえに不愉快な気分になっている、とだけ言わせていただきますよ、高城君」
律儀な奴だ。本人が望んでいても、それをちゃんと悼んでくれるのか、こいつは。
こいつが友人であって、良かったのかもしれない。
「それはそうと、高城君」
何処かで見たような、そうそう、包帯のことをたずねてくる直前の冗談を言う寸前の表情になって、時瀬。
なんとなく、いやな予感といい予感の二つを同時に感じ取った。
多分、その予感は両方当たってるんだろうなぁ…………
「恋人がお待ちです。早く入ったらどうですか?」
入り口を塞いでいたのはどこのどいつだ、と言わせてくれさあ早く。
と、言うか、こいつ今なんて言った?
「恋人…………?」
「ええ、恋人です」
「…………………」
「The LoversでもYour Loveでも結構ですよ?」
「そんな事は聞いてない」
と、言うか『The Lovers』はタロットで言うところの『恋人たち』で、『Your Love』はどっかの小説の『My Love』のもじりだろう。確かに両方とも似たような意味だが、微妙に違うぞ?
「誰のことかなんて言うまでもないでしょう? 待たせていないで、早く行ってあげなさい」
ドアの前からどけて、手で指し示す。
「……………………」
つまり、そういうこと……で、いいんだよな?
期待と不安半々の気分を抱えつつ、開けた。
中から帰ってきたのはいつもとまるで変わらぬ目線と、空気。それに加え、
「あ、リョウ君。おはよう」
過去の友人であり、俺の罪悪の象徴、俺のリストカットの理由を知っている数少ない人物であり、そして俺にとっての大切な人、
高浜幾夜が、そこにいた。
変わらぬ様子、変わらぬ雰囲気。時瀬と違って妙な雰囲気を漂わせたりすることなく、いつもとまったく変わらないよう様子でそこにあり、そしていつもと変わらぬ様子で、微笑んでいる。
「よう、幾夜」
いつもどおり、挨拶を交わす。が、俺の心中はどこか複雑だった。
数時間後、俺は、選ばねばならない。
そのための手段も発見し、その瞬間を迎えても選ぶことが出来るよう覚悟も固めた。それは俺と同じ選択を迫られている向こうも同じはず。
しかし、幾夜はいつもどおり、知り合ってから数日しか経ってないが、俺の記憶にある『あいつ』と同じように、笑っているのだ。
「? どうかした?」
そういわれて、俺は始めて気がついた。
あいつは、幾夜は、今日という日を楽しもうとしているのだ。
どちらに転ぼうとも、どちらかが消えてしまう。
俺たち三人がそろっていられる最後の日を、思う存分楽しもうとしているのだ。
ならば、俺が拒む理由はない。
それが最後に求めるものだというのなら、
俺は、それを与えてやる。
「いや、べつに。それより、今日は弁当ありか?」
俺は笑いながら問いかける。
幾夜はそれで安心したのか、いつもどおりの大きな笑みを浮かべた。
「うん。私も、結構楽しみにしてるから」
そりゃ重畳、と俺が答えると、幾夜は少し照れくさそうな表情を作る。
「お前の弁当、うまいからな。場所はいつもどおりか?」
「そのつもりだけど、他がいい?」
「いや、あそこでいい」
あそこ、結構気に入ってるし。
「じゃあ、昼休みにそこで」
「ああ」
「ちょっと待ってくださいよ、お二人さん」
げ。
油断した。
「なかなかいい雰囲気になっているところを邪魔したくはないのですが――――」
じゃあ言うなよ。
「『いつもの場所』? やっぱり、そういう関係だったんですか? そういえば、さっき僕が二人の関係を『恋人』と称したとき、否定しませんでしたねぇ……? もしかして、もうそんな関係だったんですか?」
しまった。せめてその点だけは否定しておくべきだったか。
後悔よ、もう少しがんばって現実よりも先に立てるようにしてくれ。それが出来れば苦労はしないけど。
「いや、別にそういうわけじゃ……………」
「ならどういうわけなんですか? いつもの場所と呼べるような場所が存在し、あまつさえ手作り弁当を二人で仲良く、ですよ? これだけ場数を踏んでいて、そういう中でないと表明するほうが困難だと思いますが?」
畜生、しくじった。いつぞやのグランギニョルの再来か。それと違う点があるとすれば、今回は白状することが出来ないという一転だけだろう。ただ一点なのに、この点が違うだけでここまで変わるとは…………
恐るべし。
「ちょっ、時瀬君? 私たち、別に――――」
「幾夜」
頼むから黙っててくれ。お前が時瀬相手に勝てるわけがない。下手に口を出せば、余計に状況が悪化するであろうことが目に見えている。
しかし、俺一人でも何とかできるかどうか。こうなった時瀬を留めたことなど、数年間の付き合いの中でたったの一度しかない。
畜生、八方塞りか。
――――いつもの福音が聞こえた。
ああ、神よ、感謝します。
「ほら、予鈴だ。さっさと席に着け」
少し勝ち誇った様子で時瀬に顔を向けると、いつもどおりの不満そうな顔をしていた。
「………………なんだか、いつもこのパターンで逃げられてる気がしますね…………まあ、かまいませんけど」
言ってさっさと着席する時瀬。そういえば、あの時瀬もうちの担任にだけはかなったことなかったな。案外相性というものもあるのかも。
流れ的に幾夜と同時に歩き出し、二人ほぼ同時に着席する。
しかし、考えてみれば誤解を招いてもしょうがないのかもしれない。もしかして、幾夜と学校で過ごす時間、ものすごく長くないか?
今となってはどうでもいいけど。
さて、
本日の欠席者 一名
見知らぬ人。
いつもどおりの流れ、しかし、いつもとまったく違う感覚の元で、
終末の日が、始まる。
× × × ×
本当に、今日が最後なのだろうか?
もう幾度目になるだろうか。この疑問が脳裏をよぎるのは。
昼休みになるまで何度もよぎった疑問を、今一度脳が反芻する。
いつもと何一つ変わらなかった。
そこそこ真面目に授業を受けて、途中で何気なく幾夜のほうへ目をやってみたらかなり真面目に授業を受けているのが目に入って、その様子をばっちり見ていたらしい時瀬に合間の時間に冷やかされて、気がつけばほとんどのクラスの連中が俺たちがどういう関係図になっているのかを知っていたり、いつもとまったく変わらない、日常の中で日々が続いていた。
本当に、何も変わらなかった。
変わらなさ過ぎた。
べつに陰惨な日になることを期待してたとか、そんなことじゃない。日常の延長線上としての最後の日、そうなったところで決心は揺るがないだろうし、突きつけられる現実は変わらないのだ。なら、その瞬間まで日常が続いてくれたほうがありがたい。
しかし、その中で感覚してしまう。
このまま、何も起きないままに今日という日が終わってしまうのではないか、と。
そうなってくれれば、どれほどいいだろう。
そうなってしまえば、どれほど楽だろう。
しかし、そうなってしまえば。
俺はこの現実を、疑ってしまう。
いうなれば物事を疑う直前の段階、その位置にあることが、俺を不安に駆り立てるのだ。
が、その不安も続いたのは昼休みまで。
本来なら、いつもの体育館裏にいるはずの時間なのに、
俺は今、田舎道を歩いている――――
昼休み、いつも通り例の場所へ一人向かおうとした俺を、幾夜は引き止めた。
いつもの場所ではなく、ほかの場所のほうがいいと思うから、一緒に来て、と。
どこへ行くのか、大体は想像がついた。
そして、そこで何をするつもりなのかも。
しかし俺は、特に反対もしなかった。
反対する意味がなかったから。
だから今、俺は歩いている。
二度ときたくないと思っていた道を、二度と歩けるはずのない人物とともに。
「………………………………」
幾夜は、無言だった。
俺が話し出すのを待つかのように、何度か言葉を紡ごうとするかのように薄く口を開けたりはするものの、躊躇うばかりで言葉を出さない。
だから、というように。
俺は幾夜に、尋ねてみることにした。
「………………決めたのか?」
なにを、の部分を俺は言わない。
言う必要が、ない。
俺の問いに、
「うん」
幾夜は、即答した。
「そうか……………………」
一息。
「それは、お前にとっての最良なのか?」
「うん」
ならば、俺がとやかく言う必要性もない。自分の大切な人が、最良だと判断した選択だ。それをやめさせることは、出来ない。
たとえそれが、俺にとって最悪の選択だろうとも。
身をゆだねるかはともかくとして、
その選択を否定するつもりは
ない。
少なくとも、俺はそうするつもりだ。
「ちょっと急ぐぞ。このままのペースだと、到着するまでに昼休みが終わる」
「そうだね。じゃ、急ごう」
少しだけ、歩くペースを上げる。早歩きに近い歩調だが、お互い問題はない。
いや、もともと俺たちは、急ぐ必要性すらなかったのだ。
しばらく歩き、森のようになっている場所へ至る獣道に入る。木々の密度は割に高いが、今時分の季節は日差しもきついため、木漏れ日がきれいに見える。
しばらく歩いて、迷うことなく幾夜がたどり着いた場所は例の泉だった。
俺も昨日やってきたばかりの、拍手が発見した泉。
三年前とまるで変わらない姿で、その泉はまだそこにある。
「……………なつかしいね………」
泉のそばに膝をつき手のひらを水に浸しながら、幾夜が、ポツリとそうもらした。
違う。
それは、幾夜ではない。
『高浜幾夜』がここへ来たことは、ない。
つまり、
「そうだな」
もう、『高浜幾夜』の時間は、終わった。
今、ここにいるのは、
「…………ミヤコ」
片原ミヤコ。
俺の手によって殺され、そして蘇った、彼女なのだ。
「うん」
彼女は、その名前を否定しなかった。
「随分綺麗だったよね?」
「ああ。夏だろ? よく遊んだよな、ここで。涼しかったし、入り組んでたし。かくれんぼなんてやったら、一巡するのに一時間はかかってた」
ミヤコは笑い声を上げる。記憶にあるまま、そのままの仕草で。
「そうそう。たしか、私だったよね? 一番長くかかってたの」
「一番早かったのは、時瀬だったな」
ちなみに最短記録は開始後二十七秒だ。あれはいつになっても破れないだろう。
「そうそう、みいだった」
みい。
昔、ミヤコは時瀬のことをそう呼んでいた。
それを知る者は、俺とミヤコ、時瀬以外に存在しない。
実感する。
こいつが、片原ミヤコであることを。
「――――おかえり」
思わずもれた、その言葉。
その言葉に、ミヤコはやわらかく微笑んで、言った。
「ただいま、りい」
俺の、愛称。
最後に呼ばれたのは、一体いつのことだったか。
そしておそらく、そう呼ばれるのは今日が最後になる。
「………………このあたりで、いい?」
泉のすぐそば、そこをミヤコは指し示す。
「ああ、かまわない」
「じゃ、昼ごはんにしようか」
地面に直接弁当を広げ始める。量は、いつものごとく一級の量。それもそのどれもがかなり旨いとなると、体重管理に気を使っている人物にとっては地獄かもしれない。俺は違うけど。
最期の昼食、
一瞬、そんな言葉が頭をよぎる。
…………ああ、そうだ。
だから、何だというのだ?
最期だからこそ、目いっぱい楽しむべきだろう。
悲しんだり無感動になったりして台無しにするんじゃなく、目いっぱい楽しんで目いっぱい心に刻んでそれから最期を迎える。相したほうが、すべてが丸く収まるような感じがするだろう?
「いただきます」
「どうぞ、召し上がれ」
ふつうなやり取りを交わし、俺は最期の昼食に舌鼓を打った。
× × × ×
「この子は、あなたが預かるべきですね。リョウ君」
あまりにも暗鬱な雰囲気をたたえる、広いホールの脇の部屋。
そこで、時瀬は俺にそれを差し出した。
一匹の猫。
茶色に白の縦縞模様、少し細身な可愛げのある表情。時瀬の両手に抱かれたて急に宙に浮かされ、きょとんとした表情で俺を見ている。
慣れ親しんだ、その姿。名前は…………
「………拍手を、俺が?」
両手で尻と脇の下を支え、受け取る。姿勢が落ち着いたためなのか、拍手は満足そうに俺の胸に顔をうずめると、ごろごろとのどを鳴らした。
「ええ、あなたは拍手殿の名付け親でしょう? 膳臣広国。そこからとって、ね」
隣の部屋を覗くかのように、時瀬は壁に目をやった。
「どの道あなたが引き取ることになったと思いますよ? 片原さん、かなり気が滅入っているようでしたから、ミヤコさんの思い出のある拍手をそばにおいても辛いだけでしょう」
「……………………」
俺は、無言だった。
あの日から、わずかに二日後。
普段は絶対に立ち寄ることのないであろうな場所に、俺たちはいる。その役割はどれだけ知識に乏しかろうと、どれだけ状況を理解できていなかろうと、この場に来れば絶対に感づくであろう請け合いの場所。告別の場所にして、人生最終最後の式典を執り行う場所、つまりここは、
葬儀場、である。
誰の葬儀場かは、言うまでもないだろう。
小学生にして、その生涯を閉ざしてしまった人物。
閉ざされて、しまった人物。
俺が、閉ざしてしまった、人物。
片原ミヤコの、葬儀場だ。
まだ朝早いこともあるのか、このホールの中に人の姿はない。内部に存在する人間も、ホールの管理者側の人間か、俺や時瀬のような原因を握る人間、片原の親族といったごく一部の深い関係を持つ人間だけだ。
その控え室のような空き部屋で、俺は時瀬と共にいた。
本来ならば、俺がここにいる必要はない。むしろ片原の親族に撮っていれば俺がここにいることなど疎ましい以外の何者でもないはずだ。事実、俺もそれがはっきりわかっていたため今日ここへ来るつもりはなかった。
告別の言葉など、かける資格がない。
なら、参加してくる意味はないだろう。
そう思っていたはずの俺がここにいるのは、ただ単純に時瀬に呼ばれたからだ。そうでなければ今頃俺はあの崖の上にいただろう。もしかすると下にいたかも知れない。
ともかく時瀬に諭され俺はこの葬儀場へやってきて、すべての経緯の説明を親族の前で行い、そしてその直後、
ミヤコのお母さんに、殴られたのだ。
痛みは特に感じなかった。
あった感覚は、ただひとつ。
罪悪感だけだった。
ああ、俺はとんでもないことをしてしまったんだな、という実感がすべての感覚を麻痺させ、普段ならしばらく悶絶しているであろうその痛みでさえ感じなくなっていたのだ。
この部屋に移されたのは、その直後。親族の中には俺が悪くないと思ってくれている人物も何人かいるらしく、その人の手によっては俺は『ミヤコのお母さんと離れていたほうがいい』という理由の元、この部屋に入れられたのだ。
それが昨日の夜のこと。
以来今になるまで、部屋の外へ出ていない。時瀬は何度か部屋を出たり入ったりを繰り返していたが、それ以外にこれといった行動をすることがなく、特に声をかけたりしてくることもなかった。
それが何度続いただろうか。とうとう夜が明け、辺りが白み始めてきた頃になって…………
「………リョウ君が駄目だというのなら、僕が引き取ります。しかし拍手殿は僕にあまりなついていませんし、拍手殿は行動力もあります。逃げ出してもとの家に帰られてしまっては、本末転倒でしょう?」
利には、かなっている。
しかし、
「…………片原さんとか、いいの?」
時瀬はうなずく。
「ええ。二つ返事で。母君も、かなり辛いんでしょう。リョウ君にあんなことを言ってしまうぐらいですから」
……………。
『許さない』。
ミヤコのお母さんは、最後の言葉で俺を縛った。
お前のした事は許さないと、一生をかけて償えと、俺に宣言した。
なら、俺は償うべきだろう。
俺が出来る、もっとも大きな方法で。
「――――俺がもし死んだら、拍手は……?」
時瀬は怪訝そうに繭をひそめた。
「…………もしかして、リョウ君――――」
一息、
「自殺だなんて、考えていないでしょうね?」
「――――――」
何も言わないでおく。
言う必要は、ないだろう。
これから消える人間に、死人に、口はないのだから。
「……………まったく……」
俺の態度を見てどう思ったのか、時瀬はこれといったことも言わなかった。そして二歩、俺に歩み寄って腕の中にいた拍手を持ち上げて床におろす。
そして、
――――パンッ
乾いた音と、衝撃を頬に感じた。
「…………………」
痛みは、先ほどとほとんど感じなかった。
足元で拍手がこっちを見上げてくる。わけがわかっていないのか、きょとんとした表情だった。
「………………」
時瀬に頬をはたかれたのだと理解するのに、数秒。
感覚がずれているかのような感覚の中、固まったままの拍手を拾い上げるのに更に数秒。
その間、時瀬は何もすることもなくただ俺を見ていた。
冷めた目で。
覚めた目で。
そして、言う。
「この一件は僕のせいでもあります。だから僕は、あなたを責めません。しかし、ちゃんとわかってあげてといったでしょう? なのにあなたは、守らなかった。ならばあなたは、これから先、彼女のためにだけ生きるべきです。
罪は、償われなければならないのですから。
ぼくは自分の罪を償いつつ、生きていくでしょう。だからあなたも、そういう風に生きていきなさい。死ぬなんて、逃走を試みずにね」
カノジョノタメダケニ
イキテイケ
「限界が来てしまったのなら、形をもたせて見なさい。楽に、なりますから」
「…………形を……?」
「ええ、あまり推奨される行動ではありませんけど、何か形を持たせてしまえば、楽になります」
形。
痛みを持つものの、形。
連想されるものは、何だ………?
「――――へっ」
なぜなのだろうか。俺は、その連想に届いた瞬間、
乾いた笑いを、漏らしていた。
「『あいつ』のために、生きていけ……か」
笑いが、止まらない。
「言ってくれるよな、時瀬――――」
乾いた、笑いが。からからの笑いが、
「……確かに、俺はそうしないと死にそうだ。そうさせてもらうよ」
虚々(からから)の、笑いが。
笑ったまま、時瀬を見据える。
冷めた目で。
覚めた目で。
見据えられた時瀬は、
「…………それは何より」
変わらぬ様子で、言った。
「では、僕も別の手段でそうして生きて行かせてもらいますよ、高城君」
「違う」
俺は即答した。
いくら強烈な記憶とは言っても、それを身に刻まねばいつかは劣化する。廃れる。なくなる。
それを防ぐために、最もいいものは何だ?
簡単だ。いつも耳に付くところにそれをおいておけばいい。
そして、それはどこだ………?
「…………………そうですね、違います」
ゆるゆると、時瀬が首を振る。
「では、改めてこれからよろしくお願いしますといっておきましょう。片原君」
そう、俺は片原だ。
あいつを背負って、生きていく。
思えば。
俺はもしかすると、
このときから、もう狂っていたのかもしれない。
× × × ×
ようやく会えたという反動か、それともこの先に待ち受けるものを忘れるためか、俺たちは話し込んだ。
内容自体は、くだらない。まるで長い間帰ってこなかった友人を迎えるため、どこがどう変わったかを教えるがごとく、俺はミヤコに語ったのだ。
町のこと、時瀬のこと、拍手のこと、学校のこと、片原さんのこと、俺の行動様式、高校生活の感覚、自傷行為について――――
と、そこまで語ったところでミヤコがふと漏らした。
「…………そっか―――やっぱり、りいだったんだ――あれ……」
「あれ?」
もうだいぶ減っている昼飯をつつく。
うん、とミヤコはうなずき、
「あの崖の下にいるとき、よくわからない記憶が飛び込んできたときがあったから。学校の授業とか、誰かと話してる風景とか、道の上とか、とにかくそういうの。あれって、りいの記憶だったんだ」
「………なんでそんなこと、言い切れるんだ?」
「ん? 何度か『片原』って呼ばれてたから、なんとなく。会うまでわからなかったけど、片原って名乗ってたでしょ、りい」
にもにも笑いつつ言われてしまったが、随分仰天な自体だ。
どうも俺があいつの記憶を背負おうと傷をつけるたび、どうもその時点までの記憶の一部がミヤコのほうへ行っていたらしい。文字通り、俺はあいつの記憶を身に刻んで生きてきたわけだ。
しかし、それももう終わる。
この後俺じゃなくミヤコが死んだとして、再び俺が傷をつけたところでそれはただの傷にしかならないだろう。
つまり、ここで。
俺とミヤコの縁は、完全に切断される。
終わる。
どれだけ努力しようとも、どれほど世界というものに攻撃しようとも、終わりの前では、電車に砂をかける行為に等しい。そんなことをしても意味はなく、ただ徒労に終わるだけだ。
しかし、それを素直に受け入れるかどうかは、また別問題だろう。
事実、俺はその矛先を変えようとしているわけだ。
そのための手段も模索した、そのための状況も考え出した。
できる事は、もうないだろう。
なら後は、
その手段を行い、その末を受け止めるしか、ない。
だいぶ、日が傾いてきた。
二人でとうとうと三年前から今までに起こったことを話す(主に話していたのは俺だ)内、とっくに昼休みが終わっていることに気づいたのが数時間前。気づいたその瞬間にはもうとっくに授業中となっている時間になっていたので、もうどうしようもないと判断し、会話を続行。気がつけば、もう四時近くになっていた。
夕方が近付くにつれ、ミヤコの表情が硬くなる。
この先にある、離別を想像してしまうのだろう。
無理もない。恐らくこの場を最後の会話の場所に選んだという事は、死に場所を前と同じ、あの崖にするつもりだからだ。
人生二度目の、転落死を経験しようとしている人間の気分など、俺にはわかるはずもない。一度しかやってこないはずの死を、二度も経験しようとしている人間など、今まで存在すらしなかったはずだ。
「………ミヤコ、大丈夫か?」
話の切れ目、表情が完全にこわばってしまったミヤコに、ついつい声をかけてしまう。
「…………大丈夫だよ、りい――――」
普段とは似ても似つかない、思いつめた声音だった。
「――――そう…大丈夫――――りいを……生かしたいんだから…」
つぶやく。まる聞こえだが、気づいてすらいない様子だ。
しかし、俺を生かしたいから………ね…………
ならそのために、今現在存在する自分の命を捨ててもいいのか?
「……………お前は、何がしたくて――――っ」
言いかけて、口をつぐんだ。
何がしたくてあの取引に応じたか?
そんなこと、決まっている。あの物語にも、書いてあっただろう。
ミヤコは、ただ俺に問いかけたいがために、二度目の死を許容したのだ。
『私のこと、わすれていたの?』
俺がNOと答えれば俺を殺し、二度目の死は訪れない。そればかりか一度目の死ですらなかったことにして、再び生涯を歩むことが出来るようにすらなる。
しかし、きっと。
ミヤコは、俺が自分のことを忘れているとは思っていなかったのだろう。尋ねたかったことも、きっとそうではない。
恐らく、尋ねたかったのは理由。
自分の死に場所である崖へとやってきてくれなかった、理由。
それをたずねたくて、二度目の死を許容した。
一体、
一体どれほど思い悩んで――――
「………何、りい?」
「………………いや、」
視線が、泉のほうへと泳ぐ。
そして、
「………ただ、お前に言いたいことがあって――――」
俺は、その言葉を、口にした。
何を言われるのか、予想が付いたのだろう。
ミヤコは、伏せていた眼を俺と合わせた。
茶色の眼。
それを見つめながら、俺は言う。
「――――悪かった…………」
………。
「何もかも、俺が悪かった………
お前が死んだのも、
あの崖の下に三年間も一人だったのも、
こんな風にして、もう一回死ぬ覚悟までさせたのも、
全部、俺が―――――っ」
言葉に詰まる。
当たり前だ。どれだけの罪悪感を抱えてきたと思っている。それだけ量があれば、目詰まり起こすのは当然だ。
「もっと幸せになれたのに、
もっと大きくなれたのに、
もっと楽しいことも出来たのに、
みんなで一緒にいられたのに、
そういう可能性を、俺は全部壊しちまった………」
あの時俺があんな態度を取らなければ、
あんなふうに振り払わなければ、
ミヤコは、あんなことにならなかった。
思っても仕方ない、悔恨。
三年間たまりにたまったそれらが、あふれ出す。もう目詰まりはないな? なら、もう全部出してしまえ。
それを吐き出せるのは、今日が最後だ。
どっちに転ぶにしたって、俺はもうミヤコには会うことが出来なくなる。
だったら、せめてこんな謝罪ぐらいは…………
「許してくれ、なんていわない。
けど、俺の命ぐらいなら。
俺の命なら、ミヤコにやってもいいから。
生きたいのなら、俺の命で、生きてくれ…………」
ああ、なんてみっともない。
こんな風に、相手に縋りつくなんて。
けど、それもいいんじゃないか?
これが、俺の望みだったんだし。
「……………………………」
ミヤコは、先ほどから黙って俺の姿を見つめていた。
その眼に俺は、どう映っているんだろう。
もしかするとあきれているのかもしれない。あるいは憎悪をたぎらせているのかもしれない。
けど、それでもいい。
ミヤコが、自分の口で自分の選択を聞かせてくれるのなら。
どうするのか、宣言してくれるのなら。
そのまま、数分が流れる。
日はもうすでに傾き、色は夕闇だ。
あの日と同じ、金色の。
終わりと同じ、金色の。
「―――――いいよ、りい…………」
ミヤコは、ポツリと言い放った。
その顔に、微笑を浮かべて。
「もういいよ、りい。もう私に、縛られたりなんかしないで。お母さんも、言ってたでしょ?
もう私に、縛られる必要はないんだ、って。
それに、時間のことなら…………」
ミヤコは座ったまま、俺の左手を取った。
そこにあるのは、薄く赤みを帯びた布。
その下には、縦横に走った傷がある。
「ほら、こんな風にして、取り返そうとしてくれたでしょ? それはちゃんと、私に届いてる。それに、昔のことなら私が悪い部分もあるし、お母さんはもう、りいのこと、許してくれたでしょ? だったら…………」
もう、りいは罪を十分償ったんじゃない?
「――――だから、りいは私のために死ぬ必要なんかない。りいは、これから生きるべき人なんだから」
左手首の包帯をなぞりながら、ミヤコは言った。
…………俺は、赦された?
過去のすべてから、ミヤコから?
赦されたら、もう死ぬ理由がなくなる。
だったら、死ぬのは、どっちになる?
俺? それとも、
ミヤコ?
「…………おま――」
「あ、そろそろ、時間だね」
ミヤコは空を仰いだ。
そこには、金色をすかす緑がある。
それを見上げながら、ミヤコは立ち上がった。
制服のスカートを、掃う。
弁当箱を、きっちり包みなおす。
それらの動作を、俺は座ったまま見つめていた。
あきらめの動作と、わかっているのに。
ミヤコが歩き出す。
いつもと変わらぬ足取りで、いつもと変わらぬ雰囲気で、いつもと同じく振り返ることをせず、いつもとまったく違ったところを見せず、行ってしまう。
と、
泉の広場、そこから出る唯一の獣道の入り口で、足を止めた。
振り返りもせず。
「……………………じゃあね、りい」
言って、
――――さよなら
ミヤコは泉の広場から、立ち去った。
行ってしまう。
また、行ってしまう。
行かないで。
そう思っているのに、
足は、動かなかった。
歩み寄ることもできず、
静止させることすら出来ず、
立ち上がることすら出来ず、
ただその背中を眺めるしかない俺をおいて、
行ってしまう。
どんどんその背中は、遠ざかる。当然だ、死ぬ前にどれだけここで遊びまわったと思っているんだ。ここの足元であれば、アスファルトよりも早く歩ける。そもそもアスファルトなんて引っかかりのない地面は歩きにくくてしょうがないし風景にもまったく面白みがない綺麗でもなければ奇妙でもない延々と続いていればそれはかなりシュールだとは思うがその風景に価値があるかどうかとなるとそれは完全に別問題そういえば時瀬言ってたな人工物は面白くはあるが美しくはないなんてわけのわからないこといやわかるんだけどそれほど紳士に考えなかったことあれ紳士って言葉これで感じあってたっけああ漢字って字も違う気がするどんなのだっけしんしって紳士進誌真死芯詩親視心視真摯お最後の当たりかそうだこんなややこしい字だっけでも心視って言うのもいいななんだか便利そうだって姿が見えなくても心が見えればどういう人なのかもわかるじゃんこういう風にして妙な気分を味わうこともないし――――――――
「………………………ミヤコ……………?」
おいおい、冗談だろ?
俺はもしかして、また大事な人を殺しちまったのか?
止めることすらせず、
死にに行くのをわかっていて、見送ったのか?
「ああ…………………」
シニニイクノヲ
「ああああああぁぁぁ…………」
ワカッテイテ
「あああああああああああぁぁぁ…」
トメナカッタノカ?
「あああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!」
ミヤコ。
俺の大事な人。
それがまた、俺の手で?
いやだ。
そんな結末、俺は認めない。
しかし、その結末は、変えられるのか?
俺は物語の作者なんかじゃない。物語を描くことなんて出来ない。それにあがくための手段も、ない。
なら、もうあきらめるしか――――
――――あきらめたら、そこですべてが終わる。どうせ終わるなら、最後の最後まであがいて、最後の最後まで考えて、最後の最後のまで行動して、最後の手段まで使い尽くして、そしてそれでも駄目になってからはじめて、あきらめて
「!」
よぎったのは、アコヤの言葉。
そうだ、俺は一体何をしていたんだ。
あいつを生かすための手段を模索して、考えて、覚悟を固めて、いろいろ心の中で腹積もりもして、実行する前にあきらめる気か?
そんなことして、いったいなんになる?
でもここにミヤコはいない。
――――追いかければいい。
追いつけるのか?
――――歩いていただろう? 追いつけるに決まってる。
向こうの気持ちとか、全部無視で?
――――自分の望みかなえるのに、他人を気にするな!
腹は、決まった。
立ち上がって、走り出す。
走れ大丈夫お前もここで昔走り回っていた。脳は忘れたとしても、体はその感覚をそう簡単には忘れたりしない。地面の記憶がなくても、それに対応するための体はしっかり覚えているだろう? 三年前は長く感じたこの距離、今では歩きで十五分、走れば五分以内に崖までいける。ミヤコがどれだけ急いだとしても、性別から来る体力の差は変えがたい。なら追いつくはずだ。走れ走れ走れ走れ走れ走れ走れ走れ走れ走れ走れ走れ走れ走れ走れ走れ走れ走れ走れ走れ
途中何度か躓きそうになる。だが、そうになっただけだ。大丈夫、転んではいない。まだ走れる。
追いつけ追いつけ追いつけ追いつけ………………
見えた。
崖だ。
ミヤコは………いる。
崖のふちに腰掛けて、
背中を丸めて、何かをしている。何をしているかまでは見えない。視力はそこまで良くないし、何より背中で隠れている。
「ミヤコ!」
その背中に向かって、俺は叫んだ。
ミヤコが、振り返る。
そこではじめて、俺はそこでミヤコが泣いていたことに気づいた。
―――やっぱりか。
死ぬのは、誰だって怖いよな。
ああ、俺も怖い。
けど、それで何か大きなものが得られるのなら…………
明るみまで、あと数十秒。
「ミヤコ! 待て!」
叫びながら、走る。
急げ、ミヤコが、行動を早まらないうちに。
止めろ!
「まだ、時間はあるだろ!」
「…………っ」
明るみまで、あと二十秒ほど。
一瞬、ミヤコがためらうようにこちらを見た。
明るみまで、あと十五秒ほど。
しかし直後に視線を崖に戻し、
明るみまで、あと十秒。
そしてもう一度、こっちを見る。
明るみまで、あと七秒ほど。
そして、一言。
明るみまで、あと五秒。
ア、
あと四秒。
リ、
あと、三秒。
ガ、
二秒、
ト
一秒――――
ウ
届く……………
「くっ!」
「きゃっ!」
俺はミヤコの腕を、左手で握った。
瞬間、ミヤコの全体重が俺を崖のほうへ引きずり、胴体がわずかな温かみを持つ岩肌に叩きつけられる。そのまま全身が少し崖のほうへ移動したが、体の下に敷かれた小川の跡に引っかかり、体が固定される。
――――間一髪。
俺の手の届く範囲に来た瞬間、飛び降りたミヤコの右腕をとっさに出た左腕でつかむことが出来た。当然ミヤコの体は宙に投げ出されるが、落ちる事はない。
けど、この状況は………
――――かなり、まずいな
俺の左手の握力はないに等しい。何度も自傷を繰り返すうち、幾度も腱を傷つけたことがあるため握力がどんどん落ち込んでいったのだ。その握力、せいぜい八キロ。右手を補助に出せば少しは増し出そうが、それでも長続きはしないだろう。
しかし、引き上げるとしてもここへ到達するまでの全力疾走で全身がガタガタだ。腕を上げようにも腕が重く、頭を働かせようにもぼんやりとしていて上手く働いてくれない。
これでは、いつミヤコを落としてもおかしくない。
せめてもの抵抗に、右手を補助に回してミヤコの右手を離さないようにする。向こうからつかんでは、くれないだろう。
俺の視界、ミヤコの向こうに見えてるのは、絶壁だ。
落とせば、確実に命はない。
「――――りい…………」
上を見上げて、ミヤコ。
「どうして、とめるの……?」
その声音には少しのおびえもない。俺が来たことで逆に覚悟が固まったのか、普段どおりの声になっていた。
けどちょっと涙声だな。
「……………死なせたくっ、ないからだよ…………」
まずい。腕に力が入らない。あの全力疾走は、やはり無茶だったか。
「……りい、私、このままだと消えるよ? みんなの中から、記憶の中から、きえるんだよ? だったら、その前に死なせて。りいも、私の記憶、消したくないよね………」
確かに、そのとおりだ。
左手首に、痛み。見ればこの前の自傷のときの傷が思い切り引っ張られたことによって開いていた。
あの時と同じように、盛大に出血し出す。
「でも――っ」
血が白い包帯を赤く染めていく。早い。このままだと、飽和してあふれ出すのにそう長い時間はかからない。
「最後の一秒まで、生きたい、とは、思わないのか、よ……」
「思うよ。普通に。でも…………」
血のにじみが、大きく広がる。
左手が、冷たくなっていく。
「そうしたら、どうなると思う?」
「どうって…………」
畜生。両腕の付け根が痛みを訴えてきやがった。もっとがんばれ。
「わかるでしょ? りいなら…………」
ミヤコは顔を伏せた。
「たぶん………」
一息。左手首内側が完全に赤く染まる。
「私、死ねなくなると思う」
「――――――――っ」
「ためらってためらって、最終的にはタイムリミット。そうなって、みんなの中から消えると思う。だから、そうなる前に、こうしようって…………決めたの」
血が一筋、包帯から流れ落ちる。
「………そうなったら、そうなったりなんかしたら…………」
ミヤコが、再び顔を上げた。
その眼に、迷いはない。
ゆっくりと、全身から力を抜くのがわかる。
「……お願い、りい―――そんなことになる前に………」
死なせて。
伝い落ちた血が、手のひらに滲む。力を抜かれたことによって俺にかかる重量がだいぶ増加し、全身が少し崖に向かって滑った。
「―――くっ……………」
早く死なせてくれ。
その願望を、俺は、
「………ふざけんな………」
振り払った。
「俺は、ぎりぎりまでお前を生かす。
そう、決めてんだよ…………っ」
血が隙間に入り込んできたことにより、すべりが良くなる。恐らく、後数十秒とたたないうちにこの左手は摩擦力を失うだろう。
出血は、止まらない。流れ落ちる血はすでに一筋から幾筋にも増加し、流れ落ちる量も明らかに増えている。
急がねば。
力の入らぬ全身に鞭打ち、力を入れて引っ張り上げる。
左手が、滑った。
「………やめて、りい―――生かそうとなんて、もうしなくていい。だから、早く、手を………離して」
「断るっ」
言いながらも、更に力を入れる。が左手がすべるせいで上手く力をこめることが出来ず、思うように引き上げることが出来ない。
「まだ、お前に聞きたいことが、あるんだよ………っ」
それを聞くまでは、死なせるか。
ひざを支点にし、更に引っ張り上げる。
「それに、聞かせてないこともな……っ!」
左手首の傷が大きく開く。それだけの力をこめて、更に上へ。
全身の筋肉が、悲鳴を上げる。
が、
「……ぐっ」
ミヤコが、俺の手を否定するかのように自ら身を下へ進ませるよう、力をこめてきた。
あえなく力負けし、再び崖のふちへ這い蹲る。
「そんなの、もういいよ………………早く、死なせて。私がこれ以上、執着しないうちに………」
「いいのか、ミヤコ?」
俺は支えるための最低限の力を残し、力を抜いた。
「お前、まだ聞いてないだろ? あの答え………」
「?」
疑問がその顔に浮かぶ。
そして、
「……!」
一瞬の後に、驚愕に変わった。
「それって………」
ああ、気づいたらしい。
命を繋ぎとめるための、最初のピース。
「そうだ」
あの日、お前が知りたがったこと。
そして、とうとう知らずに終わったことだ。
「あの日の告白の、返事だよ」
「!」
とうとう左手全体に血が広がり、滑った。
右手にかかる荷重が一気に増え、体が持っていかれそうになる。が、まだ持っていかれるわけにはいかない。まだ俺には、やるべきことがあるのだ。その後なら、この体の一つや二つ、もって行かせてやる。
「あの返事、まだしてなかったよな?」
「……………うん」
「………だったら、今からしてやる。言うぞ」
思えば、いつからだったのだろう。
ミヤコが俺にほれたのは。
そして、
「俺も、お前が好きだ」
俺が、ミヤコに惚れたのは。
気づいたのは、あいつが死んだ後。
もうすべてが手遅れになった、その後のこと。誰にも言っていない、俺だけの感情だ。もちろん時瀬は知らないし、知っているとしたら部屋でポツリともらしたとき一緒にいた拍手ぐらいだろう。
言いたかったこと、その二。
やっと、いえた。
「……………それ………本当………?」
ミヤコが、全身から力を抜いた。
荷重が増える。が、その程度に耐え切れないわけがない。
「ああ、本当だよ」
再び、引っ張りあげるための力をこめる。腕がだいぶ疲労しているため、かなりさっきよりも重く感じるが、どうにかならないレベルじゃないだろう。
「…だから、お前からも聞かせてくれ」
「……わたしから?」
引っ張り上げようとする俺に対して抵抗もせず、ミヤコは弱弱しく言った。
「そうだ。お前からも、聞かせてくれ。あの日の言葉は、今でもそうなのか?」
聞かせてくれ。肯定でも否定でも、どっちでもいいから。
「………聞いて、どうするの? 私、もうすぐ死ぬのに……」
「それでも、いい。聞かせてくれ」
ただ、知りたいのだ。俺は。
ミヤコが、今の俺の事をどう見ているのかを。
さあ、教えてくれ。
お前は、俺をどう思ってるんだ?
「………………………………………………………」
「………………………………………………………」
ミヤコは、沈黙した。
沈黙して、俺に引き上げられるがままになっている。このまま何もしなければ、あと数秒もすれば完全に引き上げることが出来るだろう。
胴体が、崖の上へと出る。
瞬間、
「りい……………」
ミヤコが、自力で崖から這い上がる。
そして、
「……今までずっと、大好きだったよ」
気がつくと、俺はミヤコに抱きすくめられていた。
「崖の下で一人だったときも、アコヤに会ってからも、ずっと。言いたかったけど、へんな未練残さないように我慢して我慢して我慢して――――さっき言いたかったけど、けっきょくいえなくて、言いたかったけど言葉が出てこなくて……けど、本当は言いたくていいたくて――――」
俺の肩の上にあるミヤコの顔。そこから、言葉が流れ出る。
それほどの感情、それほどの情動、それらを、俺は。
「……………ミヤコ――」
抱きしめた。
「ありがとな」
抱きしめて、そのまま立ち上がる。
ミヤコはその動きを否定することなく、付き従って立ち上がった。
「お前の気持ちを、教えてくれて………」
一歩、前進する。
「おかげで――――」
更に、一歩。
その先は、もう崖である。
「もう、思い残しはなくなった………」
「………りい」
眼前に眼をやる。
金色だった夕闇は、今では群青色を交えている。
時間は、そう残されていないだろう。
「……選ばなくちゃ、な」
「……そうだね」
ミヤコが、腕の力を緩める。
だけど俺は、
「………りい?」
「…………………」
俺の腕は、ミヤコを抱いたままである。
そして、一言。
「お前だけを、死なせない。
だから、一緒に逝こう」
「――――――――――――――――――――――――――!」
何かを言いかけたミヤコを抱きとめ、
俺は一歩を、踏み出した。
そこに、地面はない。
あるのは、奈落である。
俺の体はバランスを崩し、一気に重力に引かれて落ちる。
ああ、落ちる風が心地よい。
ああ、腕のぬくもりが愛しい。
ああ、空が綺麗だ。
益体のない考えが次々と脳裏を掠め、
こんな風なら、死ぬのも悪くないな。
そう思って、
俺の意識は、とてつもない衝撃によって喪失した。
プルルルルルルルル プルルルルルルルルル
プルルルルルルルル プルルルルルルルルル
プルルルルルルルル プルルルルルルルルル
プル
ガチャッ
「もしもし?」
『もしもし、時瀬です。お久しぶり、といわせていただきましょう。あれから丸々一ヶ月。その間まったく連絡もありません出しかたらね』
「……………………………――」
『ああ、あなたが残ったとは聞いていましたが、随分とお変わりのようですね。無理もない。あんな目にあえば、どれだけ人生経験のないものでも劇的に変わるでしょう。
それよりも、後遺症のほうは大丈夫ですか?
足を粉砕骨折と聞いています。あの高さからあの位置へ落ちて、それだけで済んだのは奇跡的です。後遺症は、残っているんですか?』
「………少し」
『少し……………ですか。つかぬ事を聞きますけど、歩けます?』
「……松葉杖を使えば、なんとか」
『かなり重篤なようですね。ではこんな風に回り道をしている場合では、なさそうだ。一気に行かせてもらいましょう。
まずは、お帰りなさいといわせてください。
片原、ミヤコさん………………』
「みい…………久しぶり、でいいの?」
『ええ。「高浜幾夜」さんとは友人ですけど、「片原ミヤコ」さんと正式に挨拶するのは、これが戻ってきて以来初めてですからね。最後の挨拶から、実に三年ぶりです。それ以上ふさわしい挨拶もありませんよ』
「……………………………」
『おっと、危ない危ない。話がそれるところだった。
ではあの一件について、少し話しましょう。
まずは、一応の確認をさせてください。
生き残ったのは、片原ミヤコさん、
そして死亡したのが、高城リョウ君。
これで、いいんですよね?』
「…………うん………………………」
『そうですか……』
「……………………………」
『リョウ君、がんばりましたね………あの状況を覆すなんて………』
「みい…………」
『何でしょう?』
「…………どうやってりいが私を生かしたのか、わかる?」
『……一応、考察程度なら出来ています。そしてあなたの心中も、一応ですがね』
「……それでいい、話して………」
『……少し考えれば、わかると思うんですけど……まあ、いいでしょう。僕程度でよければ、お話させていただきます。
まず、リョウ君は気付いたんでしょう。どの段階でかは知りませんが、その人物が直接手を下していなくても、その人物が『殺してしまった』と思うことが出来る、と。そして殺人かどうかは、その人の認識による、と。
そしてきっと、リョウ君は考えたんです。
そのためには、どうすればいいのか、と。
その結果、恐らくリョウ君はあなたに三年前の告白の結果を聞かせたはずです。違いますか?』
「……………………………」
『無言は肯定と認識させていただきます。
さて、ここでリョウ君は次の問い、恋愛感情が現在まで持続しているかどうかを尋ねます。そしてその結果は肯定…ですよね? この部分には、自信がないんです』
「………………うん」
『そこで、リョウ君はあなたと共に飛び降りた。「一人では死なせない」とでも言いながら。そして崖に落下し、ミヤコさんはリョウ君がクッションになって致命的な傷を負わず、リョウ君はあの高さからもろに叩きつけられ死に至った―――そんなところでしょう』
「でも、それならどうしてわたしが生きてるの………? 確かに、リョウ君は死んだ……私は、殺してなんか………」
『いない、とは思っていないでしょう?』
「……………っ」
『恐らく、リョウ君は昔自分の抱いた気持ちを再現したんです。ほら、リョウ君はあくまであなたを邪険に扱い、その結果事故としてあなたを崖の下に落としてしまった。
これは、本来「殺人」ではない。
にもかかわらず殺人として認識されているのは、リョウ君がそう思っているからですよね? つまり、自分のせいだと認識さえしてくれれば、それであのルールは破れる。
そこに、リョウ君は気づいたんでしょう。
今のあなたの心中は、多分こうだ』
「…………………………………」
『「私が告白なんてしなければ、」』
「……っ」
『「リョウ君は、死ななかった」と。いかがです?』
「…………………………………………………………っ」
『恐らく、それがリョウ君に出来た唯一の手段なんでしょう。自分が死ぬだけで、あなたを蘇らせる。そのための、ね…………』
「………………………っ」
『よく頑張ったものです。あの何事にも消極的なリョウ君が、何かのためにここまでやるなんて、ね――――』
「…………りぃ……………………」
『――――さて、次は僕のちょっとした隠し事について話をさせていただきます』
「………………みいの、かくし、ごと?」
『ええ、いろいろと、ね。
僕は昔、アコヤにあったことがあります』
「!」
『丁度リョウ君と縁が切れていた、中学生の頃、でしたね。その当時の僕も、今のリョウ君と同じような立場に立たされ、結果的に何一つ運命を動かすことができず、ただ翻弄されるばかりでした。
辛かったですよ、あの時は、自分が、本気で単なる無力な臆病者だと思いましたからね……………』
「…………そう、みいも、選んだんだ………」
『選んだというより、選ばされたと、言うべきでしょう。
しかし、そこで得たものもあります。アコヤと何度か話をいたしましてですね、そしてそのときにいくつかの話を聞き出せたんですよ。
ミヤコさん、ピンクパールに、覚えがありませんか?』
「ピンク、パール……?」
『ええ。
アコヤ自身から聞きだすことが出来た話の中に、ピンクパールの存在があったんです。アコヤの存在、その中枢。彼女が一人現れるたびに、そこには一つのピンクパールが残される。
そのときのアコヤの言葉なら、はっきりと覚えていますが……聞きますか?』
「………お願い……」
『では。演技力は、期待しないでください。
「これは、私の力の塊。
すべての到達点である、『終わり』の力のカケラ。
それがあるから、私はここにいられる」
………というなことを、言っていました』
「じゃあ、アコヤはもう一度……?」
『一つのピンクパール、それでもたらせる終わりは、一度きりだそうです。もっとも、不吉なことこの上ないですが。僕もそのパールは持っているんですけど、見るたびにあの日を思い起こさせてくれます。今でも、ね…………』
「……………………」
『しかし、肌身離さず持っていたほうがいいでしょう』
「……どうして?」
『同じときに聞き出せた話の中に、そのパールを狩る存在の話が合ったんです。「本家」と呼ばれる場所以外に、一切の拠点を持たない旅する一族。その存在が、そのピンクパールを欲している、とね』
「……………………………」
『会えるかどうかも、わかりません。本当に存在してるのかも、わかりません。しかし、希望は多い方がいいでしょう。現に僕も、そのわずかな希望にすがってそのパールを持ち歩いています。
あまりお勧めはしませんが、わずかな希望にすがる気概があるのなら、そうした方がいいでしょう』
「………………………うん」
『………さて、長くなってしまいましたね。病み上がりで、ご苦労様でした。
僕からの話は、以上です。そちらから、何かお話はありますか?』
「………顛末は、聞かないんだ……」
『聞きたいのは山々なんですけど、電話では少し無理があるでしょう? 会って話したいんですけど、後遺症があるなら………』
「かまわない。外歩く練習も、したいし」
『…そうですか? でしたら、駅前のバスターミナル付近にある喫茶店でお会いしましょう。「アルギノーニ」という、いいのか悪いのか微妙な名前の付いた喫茶店があるんです。そこのオープンテラスで、会いましょう』
「……わかった」
『では、また後ほど』
プッ
ツー ツー ツー ツー
カチャッ
私は受話器を戻した後、車椅子を自室に向けた。
室内、バリアフリー。車いすでの移動に支障はなく、問題なく部屋への移動を果たす。
殺風景な、やや広めの洋室。机にもクローゼットにもほとんど使われた形跡はなく、唯一ベッドだけが使用された痕跡を残している。
部屋の入り口に立てかけてある松葉杖を手に取り、車いすから立ち上がる。
行動に支障はない。一ヶ月間以上にわたる入院生活において使用の練習はしてあるし、リハビリももう終わっている。
机に移動し、財布を手に取る。
そして外を歩く練習のように松葉杖を付いて部屋を出ようとして、
「………………………」
思い直し、机の引き出しを開けた。
中にあるものは、一つ。
長さ一メートル程度、緋色に染められた、細見の布。
手に取った。
硬質な感触。しかしその布は絡みつくような感触で手からしなやかに垂れ下がり、感情の中にどこかいとおしさを与える。
それを、私は、
「………………りい、」
するりと、腰まである髪に巻きつけ、リボンのように縛った。
「ずっと、一緒だから」
部屋を出る。
あれから一月。
あの人は、もういない。
しかし、私はあの人とともにある。
あの人の、命。
それを象徴する、もの。
玄関で、少し苦労しながら靴を履いた。
そしてなんとなく髪を縛るリボンのようなものに触れ、
「………ふふ」
ほほえんで、私は玄関から外へ出た。
今は、七月。
季節はもう、夏である。
私にとっての終わりの季節は、もう、終わった。
End Days 〜再会〜完結!!
いや〜長かった。
ここまでお付き合いくださり、ありがとうございます。出来ればここに、上中下まとめた評価をください。
あ、もしかすると、End Daysは続くかも知れないです