【最終話】鋼と、野獣と、サイクロプスと。
「よっ、と……」
草臥れた雑嚢に、あらかたの衣類、当座の食料、ちょっとの蓄えとを詰め込んで、ベリックは立ち上がった。雑嚢は思った程の重さではなかった。これなら長く歩けそうだ。
改めて、工房の全体を見渡した。ある程度は掃除したおかげで、狭い穴倉だとばかり思っていた工房の広さを意外に思った。十歳で転がり込み、怒鳴られ、殴られ、笑い泣いた十年の棲家。
辛いこともあったが、今思えばすべてが楽しかった……とは言うまい。ここで感じた嬉しさの記憶は、それでもこの仕事で感じた辛い記憶までは帳消しにしてはくれない。仕事をするということはそういうことなのかもしれない、とベリックは思う。喜びと悲しみ、楽しさと辛さが渾然となった複雑な記憶――それが煤と共に真っ黒に染み付いた穴倉を、しばしベリックはまんじりともせずに眺めた。
ふと、ベリックはいまだに混乱の最中にあるだろう王都に思いを馳せた。あの簒奪撃がよもや国民に知られたということはありえないだろうが、アベニウスのシンパの狩り出し、滅茶苦茶に破壊された王の広場の修繕、それによって生じた諸々のごたごたなど、まだ解決すべき問題は山積みであるに違いない。それよりも頭を喪ったエーデン騎士団は――と思いかけて、ベリックは物思いを打ち切った。
簒奪者を討ち取った英雄――今のエーデン国内にどれだけ猛者が犇めいていようとも、その名声がある存在はひとりしかいない。だったらその存在に収まるべきは一人しかいないだろう。自分が心配しなくとも、後はこの世の仕組みが全てを収まるべき方向へ収めてしまうのだと思い直して、ベリックは立ち上がり、ドアの前に立てかけてあったハンマーを持ち上げた。
この鍛冶屋から持っていくのは、このハンマーひとつに決めていた。杖にするには重いけれど、この槌ひとつあれば、自分は世界のどこでだってなんとか暮らしていける。ふと――それが誰に与えられた技なのかと思い返して、たまらなく寂しい気持ちに胸を締め付けられた。
なぁ、あんたは今、どこにいるんだろう。
あんたはあまりにも多くのものを俺にくれた。
馬鹿な俺はそれに最後まで気がつかなかったけれど。
生きていく術を、誇りという名の感情を、あんたは俺にくれた。
でも俺はここを出ていく。いつかその背中に追いつくために。
なぁ、お前はいまどこにいるんだろう。
お前がここにいた時間、正直に言えば、悪くなかったぜ。
なぁ、お前は今どこにいるんだろう。
でも、これが永遠の別れじゃない。
ずっとずっと時が流れたその後に。
またいつか、きっといつか会えるだろうさ――。
「じゃあな」
誰にともなく呟いて、ベリックは工房の引き戸を思い切り開け放った。
「遅いではないか。あまり淑女を待たせるものではないぞ、野暮天めが」
聞き慣れた上から目線に、ベリックは心臓が握り潰されるほどに驚いた。
「アシュリー……!?」
アシュリー……なのか? アシュリーの声とアシュリーの上から目線を偶然併せ持った新種の魔物ではないのか? 真剣にそう疑いたくなるほどに、アシュリーの佇まいは異様だった。
何しろ、ベリックの胸ほどもない小さな体に、その身体の三倍はあろうかという巨大な雑嚢を背負っているのである。その異様さはでんでん虫のようだと言ってもまだ足りない。これでは荷物を背負っているのか、人間が荷物の小山に貼り付いているのかわからないではないか。声と顔、生意気さ、腰に刺した聖鎚はまさしくアシュリーだが、それがどうしてここにいるのだ――?
二の句を継げずにいるベリックに、アシュリーは半目でベリックを睨んだ。
「なんだその顔は。久々の再会なのだ、何か言うべきことがあるだろう? 本当に貴様は野暮天だな」
「う、うるせぇよ。毎度毎度何様のつもりの上から目線で……。っていうか、お、お前。な、なんでここに……?」
「なんでとはご挨拶だな。このエーデン騎士団団長、アシュリー・フェリシティア・ポポロフが、直々に貴様の旅のお供を勤めるためにやってきたのに」
「は、はぁ――?! 騎士団長!?」
ベリックは素っ頓狂な声を上げた。
「馬鹿言ってんじゃねぇ! おまっ、お前、騎士団長になったのか!? あ、あぁ……なるんだろう、道理から言ってお前が騎士団長になるんだろうが、しかしな! 騎士団長が、な、何? 今なんて言った!? 俺のお供!? 意味がわかんねぇよ!」
「わかってるではないか。私が貴様に同行しようというのだ。悪い話ではあるまい?」
「違ぇよ! そこじゃねぇ! なんで騎士団長が俺についてくるんだって言いてぇんだよ!」
「そこは安心しろ。私はサボス・ウィルフォード執政官からの命令を受けてここにいるのだ。王都をバックれたわけではない」
アシュリーがニヤリと笑い、ベリックは言葉を失う。
「我が任務は貴様の護衛だ。我が父、ゲイル・ステンダールが盟友、“冥王のキュクロ”が遺した最高傑作を地の果てまで護衛し、無事にエーデンへと連れ帰ること。……拝命した任務内容はこうだ。どうだ、納得したか?」
何かお礼をしなければならない――と言ったサボスの言葉が脳裏をよぎる。あの野郎、お礼ってこれのことかよ。今頃、宮殿の中でニヤニヤ意地悪く笑んでいるに違いないサボスの顔を目に浮かべ、最後の最後までしてやられて狼狽える自分の野暮さを、ベリックは初めて恨めしく思った。
それでも――と、ベリックは尻込みした。コイツは今やこの国の最高権力の一角を担う人間。これからのエーデンには間違いなく必要な人材なはずだった。いかにそれが任務であろうとも、自分のようなつまらない鍛冶屋の放浪につき合わせていい存在であるはずがない。
「――騎士団長としての仕事は?」
「それはクラセヴィッツ副官が代行する。有能な男だ。私より上手くやるだろう」
「女王様の護衛は?」
「アストリッドはもう心配ない。あの娘は成長した。立派にこの国を治めてくれるさ」
「いろんなことの、いろんな後始末もあるだろう?」
「ウィルフォード執政官とマスター・リヴリエール……おっと、エレノア殿だったな。彼と彼女、そして我が部下が総動員して当たっている。しばらくは問題ない」
「いつ俺がこの国に帰る気になるかわかんねぇんだぞ?」
「それが私の任務だ」
「しかしなぁ、お前がいないとやっぱりエーデンは――」
「人は育つ。叩かれて鍛えられる。鉄と同じだ」
きっぱりとそう言って、アシュリーはニヤリと笑った。
「お前が教えてくれたことだろう?」
その一言に、ベリックはわけもなく胸を突かれたような気持ちになった。それは常に親方が言っていたこと。そしてまたひとつ、俺が忘れていたこと――。
そう思った途端、なんだか無性におかしくなり、ぷっ、とベリックは吹き出した。
「はん、言うじゃねぇか――」
人は育つ。
叩かれて鍛えられる。
誰もが鉄と同じ。
刃のような鋭さを。
鎚のような靱さを。
誇りという名の燃え滾る熱を隠し持つ奇跡の物質――。
「その言葉を誰にもらったのか、これから忘れんじゃねぇぞ――チビ」
「失礼な。私はチビではない」
そう言ったアシュリーは、大声で宣言した。
「我が名はアシュリー・フェリシティア・ポポロフ! 人呼んで『ハーフィンガルドの聖剣』だ!」
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【聖剣】
聖なる力を持つとされる剣のこと。
魔剣とは対をなす存在であると考えられている。
基本的に魔剣ほど固有の能力を持つわけではないが、強い破魔の力を宿すと信じられ――。
それを振るう者を励まし、至上の幸福を与えるとも伝えられる。
――著者不明『聖剣と魔剣の手引き』より抜粋
【了】
これで完結です!
皆様、ご愛読ありがとうございました!!