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終戦

「大昔――私にそう言った男がいたよ……。私の友、冥王のキュクロ……この魔剣を鍛えた男、かつて私を凌ぐ力を持った戦士だった……。ククク、そうだ、あの男はこの剣を打った時、確かに同じことを私に言ったなぁ……」


 ぞっ――と、殺気が急に濃さを増した。石畳の上にうずくまり、今や絶え絶えの呼吸を紡ぐだけのアベニウスから、溢れ出るように不可視の何かが広がってゆくのをアシュリーは感じた。


 これはただの殺気ではない、魔物が放つ瘴気だ。人をやめた人が発する、腐敗臭にも似た獣の匂い、血と獣臭さが渾然一体となった鼻を衝く匂い……。


「アベニウス団長……!」

「私は獣だ。醜い野獣だ。知っているさ……教えられなくともな」


 止めようとして止まらないらしい笑い声とともに、アベニウスが狂人の声を上げた。


「皆私を凌ぐ力を持っていたのに……私とは違った! どいつもこいつも……人間だった。獣になどは……なりきれなかった!」



 アベニウスが立ち上がった。



「だから魔剣は私を選んだのだ!!」



 まずい。アシュリーが鎚を構え直し、とどめを喰らわせようとした瞬間だった。アベニウスの昏い目がアシュリーの全てを呑み込んだと思った瞬間、アベニウスが右手を前に突き出し、アシュリーに触れる空気が灼熱を発した。


 炎だ。何度も繰り返した悪夢に、心よりも早く身体の方が反応した。ほんの一瞬、硬直した身体が炎に飲み込まれそうになった瞬間、アシュリーの身体ははほとんど条件反射で地面を飛び退っていた。


 髪の毛が焦げる音と匂いに、思わず身体が竦んだ。心の底に眠っていた恐怖が両足に絡みつき、目の前が昏くなる。空気が上手く肺に入ってゆかない。思わず膝をついて咳き込もうとした途端、視界の横から割り込んできた黒い塊がアシュリーを襲った。


 何が起こったのか理解するより先に、喉に衝撃が走った。そのままアベニウスの左手にずるずると引きずり起こされ、信じられないほどの剛力で喉首を絞め上げられる。


 しまった――酸素不足で灼熱する頭の中に浮かんだのはそれだけだった。今の一撃で鎚を取り落としてしまった。慌ててアベニウスの身体を無茶苦茶に蹴り飛ばしたが、アベニウスの黒い巨体はそよりとも揺らがない。


「油断したなぁ、アシュリー・ステンダール! 貴様も父の記憶には逆らえなんだか! 騎士とはいえ魔法ぐらい使えるのだぞ……!」


 そう喚いた声も、目の異様な輝きも、もはや常軌を逸していた。ギリギリギリギリ……と骨が砕かんばかりの力で喉首が締め上げられる。ガハッ……! という、自分のものでないような悲鳴が喉から絞り出され、目の前は刻一刻と暗くなってゆく。


「喜べ……! この“魔眼”が最初に吸う血は貴様の血だ! 貴様の血が染み込んだこの剣で私はハーフィンガルドを呑み込んでやる! この剣の錆となって見ておるがいい!」


 その言葉とともに、アベニウスは右手で“魔眼”を構え直し、その鋒をアシュリーの胸の中心に押し当てた。少し力を入れれば“魔眼”の鋒がアシュリーの身体を貫くだろう。それを避けようにも、もはや限界を超えて動き続けた身体は少しも言うことを聞かない。



 必死の抵抗も虚しく、徐々に力が抜けてきた。



 勝利を確信したらしいアベニウスのは、苦悶の表情を浮かべるアシュリーにわずか目を細め、思いがけないことを口にした。


「愚かだな、“幽鬼のゲイル”――ゲイル・ステンダール! 貴様は昔から騎士の誇りなど意に介さぬ男だった……! 知っていたさ、お前が何を考えているかなど……!」


 その言葉は、アシュリーに向けられたものではなかった。まるで自分の背後に父が立っているとでもいうように、アベニウスは焦点の合わない目で嗤った。


「見ておれ! 私は今、貴様を超える……! 貴様が遺した力も、想いも、誇りも! 私が今、塵も残さず屠ってくれようぞ!!」




 誇り。その言葉に、アシュリーは閉じかけた目を見開いた。



 ああ、この目は違う。



 あの時の父の目はこんなに濁ってはいなかった。この目は、違う。これはまさしく野獣の目――死肉を漁るハイエナの眼だ。



 かわりに、思い出す顔があった。



 アシュリーに貫かれ、今まさに命を失おうとする父の目。その目は穏やかだった。アシュリーの頭を撫でながら、よくやった、と言ってくれた父の目。



 その目が、記憶の中の誰かの目と重なった。



 そうだ、あの目。自分が手がけた道具を慈しむ目。



 汗を流して、歯を食いしばり、ただただ黙然と鎚を振るい続ける男の横顔が。

 


 負けてはならない。



 こんな眼に負けてはならない。



 この誇り、あの眼差しだけは――絶対に否定させない――!



 灼熱を発したその思いが、もはや萎えかけた全身に最後の力を振り絞らせた。




 瞬間、アシュリーは喉首を締め上げるアベニウスの手首を掴み、バネ仕掛けのように体を捻じ曲げた。




 一瞬だけ、アベニウスの反応が遅れる。瞬間、“魔眼”を握るアベニウスの右腕を、アシュリーは渾身の力で蹴り上げていた。




 ブシュッ、という小さな音とともに、顔のすぐ横にあった“魔眼”が、アベニウスの首に咬みついた。




 皮膚が裂け、そこからわずかに血が噴き出るのをアシュリーは見た。




 何が起こったのか理解するのに、一瞬の間が必要だったらしい。少し遅れて、アベニウスは蠍の毒刺を喰らったかのように身体を硬直させた。




「刃の掴み方を……過ったな! エリアス・アベニウス!」




 アベニウスの血走った目から狂気が引いてゆくのを滲んだ視界に捉えながら、アシュリーは喰いしばった歯の隙間から言葉を絞り出した。






「さようなら、父上――」






 馬鹿な、というアベニウスの声を最期に、アシュリーはきつく目を閉じた。




 バシャッ! という音と共に、顔に生暖かい液体が勢いよく振りかかるのを感じた。途端に、喉首を締め上げていた力が消失し、アシュリーは地面に墜落した。


 顔を拭うこともせず、必死になって肺に空気を取り込む。どうどうと流れ込む新鮮な空気に二、三度咳き込みながら、アシュリーはやっと薄目を開けることが出来た。


 真っ赤に染まった視界の真ん中に、首から上が弾け飛んだアベニウスが転がっていた。“魔眼”はしっかりとその右手に握られている。最期まで“魔眼”に取り憑かれていたアベニウスを哀れに思いながら、アシュリーは服の袖で強く顔を拭い、やっと大きく息をつくことが出来た。


 仰いだ空に、太陽が眩しかった。


 終わった――と声なき声で目を閉じたアシュリーは、目尻から流れ出た生暖かい雫を、血とともに服の袖で乱暴に拭った。


「アシュリー……!」


 背後に駆け寄ってくる足音と声を聞いて、アシュリーは目元を強く擦って顔を上げた。


「……ベリック、アストリッドは、他は無事か」

「あ、あぁ。みんな無傷だ。お前以外は、多分」

「そうか……よかった」


 そう一息ついてから、アシュリーは目を開いた。まだ少し赤い気がするが、先程より少しは綺麗になった気がする視界に、ベリックのしかめ面が大写しになる。


「なんだその顔は。私の顔はそんなに……ひどいか」

「あぁ、ひでぇ」


 そりゃそうだろう、血塗れなんだから……と愚痴ろうとした時「アシュリー姉様!」という声が聞こえて、アシュリーは顔を上げた。


 マスター・リヴリエール……いや、エレノアに手を引かれてやってきたアストリッドは、よろけるようにアシュリーの前に跪くや、まるで見えない目に導かれるかのようにアシュリーの首に抱きついてきた。


「女王陛下……!? おっ、お召し物が汚れてしまいます!」


 咄嗟にそう言った途端、ゴチン! と額に何かが激突した。あ痛て! と悲鳴を上げると、額を赤くしたアストリッドが灰色の目を潤ませながら怒鳴った。


「ばかっ、馬鹿っ! お姉様はどうしてそうなのよ! 私がいくら心配してもいっつも傷だらけ! お姉様なんかいつかベーコンみたいに細切れになって死んじゃうわ! どうしてそんな馬鹿なのよ! もう少し身体じゃなくて頭も鍛えてっていつも言ってるでしょ!」

「ばっ……馬鹿とは失礼だな、このチビ! お前に言われずとも頭だって鍛えてるぞ! この石頭は鉄兜だって叩き潰す必殺の石頭で……!」


 ゴチン! と、再びの衝撃が額に弾け、視界に星が飛び散った。ぐぬぬぬ……! と呻き声を上げたアシュリーは、額に赤い痣を作ったアストリッドの白い顔を涙目で睨みつけた。


「うるさい! チビはお姉様の方じゃない! サボスお兄様の胸ぐらいまでしかないくせに! 昔なんか高いところのもの取るときに私にヘコヘコ頼んでたくせに! お姉様のチビ! チビチビチビ! ドドチビ!!」

「チビじゃないわ! 身長だってお前の肩の高さぐらいまではあるぞ! 言わせておけばこのガキ、女王だなんだと調子に乗り腐りおって! いつの間にこの偉大な姉貴分をそんなに悪しざまに罵るようになって……!」

「いい加減にしなさい!」


 その怒声とともに、ゴチン! と三発目の衝撃が頭に降ってきた。ぎゃあ! と悲鳴を上げて蹲ると、サボスの三白眼が蛇のように光った。


「お前らは本当に昔っから馬鹿だな。おぉ? こういうときはそんなケンカより先にやることがあるだろ? 馬鹿アシュリー、馬鹿アスト。違うかよオイ?」


 久しぶりに聞く、二人の保護者としてのサボスの声である。幼い頃から何度聞いてもこの声にだけは肝が冷える。はい……と大人しく頷いてしおらしくなった二人を見て、エレノアの隣に立っていたクレアがケラケラと笑った。


「じょお様もおねさんも、たのしそう」

「そうね、クレア。昔からこの三人は本当に仲がいいのよ。あなたにも兄弟がいればよかったわね」

「仲がいい? 馬鹿言わないでくださいよエレノア殿。私は昔からこの二人にいつも寝不足にされてきたんですからね。あなたも知ってるでしょう?」

「あら、そうだっけ? その割にはあなたってこの二人の面倒を見てる時だけは楽しそうな顔するわよね?」


 ケラケラと笑うエレノアを、サボスは恨めしそうに見た。嗚呼、この人はいつもこういう人だった。心の奥底を見透かされた人間が浮かべる珍妙な表情を見て――上品に笑うのである。


「……とりあえず、なんですが」


 埒が開かない会話に口を挟んだのは、みんなの端っこで所在なさ気に視線を泳がせていたクラセヴィッツだった。その顔は今までここにはいなかったはずなのに、誰よりも煤に塗れ、真っ黒に汚れていた。


「とりあえず、隊長は風呂に入るべきです。血と埃まみれで見られたもんじゃない。……そうですよね、皆さん?」


 おずおずと口にされたその提案に、その場にいた全員が頷いた。


「あぁ、私もそうしたい。でも生憎と腰が抜けている。できれば誰か背中を貸して欲しいのだが……あはは、こうも血まみれの泥まみれではな」


 言い終わる前に、ベリックが背中を向けてしゃがみ込んだ。そのカーキ色のシャツの背中を見て、アシュリーは遠慮がちに訊ねた。


「……血だらけだぞ?」

「いいから……早くしろって。俺だって寝不足なんだ。とっとと仕事を終わらせて寝たいんだよ」


 あながち嘘でもないらしいボヤキとともに、ベリックは大きく欠伸をした。その反応が何故だかとても嬉しくて、アシュリーは大きく頷いた。



「おう! ここにいる全員、仕事も終わったし、帰って寝ることにしようではないか!」



 そう言って、アシュリーは全身をベリックに預けた。太い首に両腕を回し、しっかりとした背中に身体を預けると、ベリックはのしのしと歩き始めた。


 不意に――父の背中におぶわれた幼い日の記憶が蘇った。剣の稽古でボロボロになり、もはや一歩も歩けないほどに疲れると、父は必ず小さなアシュリーを背負って歩いてくれた。自分が父として出来ることはこんなことしかないのだと主張するかのように、寡黙に、しかし暖かに歩を進める父の背中を見るのが――アシュリーはたまらなく好きだった。



「なぁ、ベリック―ー」

「あぁ? 何だよ?」



 アシュリーは両の手でベリックの首に抱きつき、その耳元にこっそり囁いた。



「このハンマー、最高だったぞ……ありがとう」



 そう耳元に囁くと、ベリックの顎がぐいっと持ち上がった。


「……へっ、当たり前だろ」


 ベリックは鼻を鳴らし、世界のすべてに宣言するかのように大声で言った。





「俺はキュクロプス工房のベリック! 俺の作る道具はいつでも天下一品だ!」





 ぶっきらぼうにそう言って、ベリックはのしのしと歩き始めた。

残り三話です

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