ハイヨー白翁号
「おうおう、ほら、これだ。これ持って帰れ」
工房の奥から男がやってくる。それはアシュリーが口の中で飴玉の残りを噛み潰したのとほぼ同時だった。アシュリーはくるりと背後を振り返り、幾分か腫れの治まった瞼を瞬かせた。
「おぉ、待ち草臥れたぞ。しかしなかなか好きな味の飴だったな。おかわりはいらんが」
「アンタ本当にさっきから繰り返し何度も何度も何様のどなた様のつもりなんだ?」
「ほほぉ! これがミスリル剣の変わりかぁ!」
男のぼやきをまるっきり無視し、アシュリーは奪い取るようにしてその袋を取った。
粗末な麻布で織られた袋は、見栄えがあるとは言いがたいがしっとりと重い。両手で護持しなければ取り落としてしまいそうな重量である。
「ぬぅ……これが私の新しい剣か」
アシュリーは唸った。そのまま利き手の右腕で持ち、床と水平に握ってみたり、軽く振り回したりしてみる。重いが、重心は手に吸い付くようにしっかりと保たれており、柄に嫌ながたつきもない。取り敢えず満足できそうな出来である。
拵えや佇まいはどうだろう。アシュリーが袋の口を縛る麻紐に手をかけようとすると「触るな」という男の鋭い言葉が飛び、アシュリーは顔を上げた。
「言い忘れないうちに行っておくが……これには使用上の注意がある」
「ぬ……なんだ?」
「これを使う最初の時までは、決してこの袋の口を開けちゃなんねぇ。人に見せてもダメだし、振り回すのもダメだ」
「何故?」
「何故もヘチマもねぇよ。それがこれを扱う時の制約……というより、約束だ」
約束。その言葉は、脳みその中には力押しの一言しかないアシュリーにもよくわかる道理である。要するに破ってはいけない決まりのこと、それを破れば、兎に角よくないことが起き、絶望のどん底でやっぱり約束は守るものなのだと思わされるアレである。魔法によって面倒な小細工がしてある魔法剣の類には間々見受けられる規則なのであるが、魔術のマの字も知らないアシュリーには比較的どうでもよいことなのであった。
「ということは……魔法剣の類か?」
「ん? まぁ、そんなところだな。アンタが使うならある意味魔法かもな」
「ある意味、とは?」
「深く考えるな」
ぴしゃりと言われる。通常の人間なら何かひっかかるものを感じるだろうが、この小娘にそういう洞察をする習慣はなかった。そういうものか、と素直に納得したアシュリーは「よくわかった」と大きく頷いた。
「そ、それで、この剣の報酬の話だが……」
おずおずとそう言い出すと、「へっ?」と鍛冶屋の男は狐につままれたような表情をした。
「え……アンタ、金なんて持ってんのか?」
「あ、当たり前だ! 私を誰だと思ってるんだ。報酬なら用意してあると言っただろう!」
ちょっとカチンと来て言い返すと、男は見る見る気まずそうな顔になった。
「そ、そうなのか……俺はてっきり、騎士を騙った山賊の強請りたかりかなんかだと……」
「あん?」
「あ――いやいやいや、いい。いろいろ俺の勘違いだった」
男は何故か少し慌てた様子で煙に巻くと、床に落ちたミスリル剣の欠片を拾った。
「アンタがもしいいなら、この欠片を納めとくよ。打ち直せばまた使えるし、アンタにはもう必要ないんだろう?」
まぁ、確かにその通りだ。折れてしまった時点で剣は剣でなく、自分にはもうどうすることも出来ない、その辺の石ころと同じ無価値な塊である。
「それは別に構わないが――現金もあるのだぞ? 他にも、地位とか勲章とか……」
「いやいやいいよ別に。持て余すから。ささ、行った行った。早くしねぇとここは山の中だ、早く日が暮れるぞ」
何故か先を急かすような口調で男はアシュリーの肩を押した。そう言われて、アシュリーもはっとした。いつの間にか太陽はすっかりと傾き、日が暮れかけているではないか。日没までに滑り込まないと、王都の壁に背を預けて一晩野宿する羽目なってしまう。
慌てて外に出ると、アシュリー愛しの愛馬――白翁号が“遅いぞ”という風に睨みつけてきた。「待たせてすまぬ、白翁号」とアシュリーが鼻面を撫でてやると、白翁号はブルルンと不満ありげないななきを発した。陰気な馬である。
「なんだ、馬で来てたのか」
「馬鹿な、私は騎士だぞ。騎士が徒歩で来たら歩兵になってしまうであろうが」
「そ、そういうもんなのか――」
「ふん、野暮天にはわかるこだわりであるとは思っとらん」
ぼやきつつ、アシュリーは白翁号の背中によじ登った。他の兵士のように一息に鞍に跨ってみたいものなのだが、この短軀ではそうも行かない。鐙を蹴り、よいしょよいしょと鞍に手をかけ、馬の首にしがみつくように手綱を握ると、やっとアシュリーと鍛冶屋の目線が逆転した。
「それではこれにておさらばだ。……いろいろあったが、まぁなんだ、世話になったな野暮天鍛冶屋」
馬上から見下ろしつつそう言うと、アシュリーの顔を見上げた男と目が合った。
「……ベリックだ」
「ほへ?」
一瞬、何のことかわからなかった。ベリック? なにそれ。
目を点にすると、鍛冶屋の男は口にしてしまったことを後悔するように、視線を外して頭を掻いた。
「――野暮天じゃねぇよ、俺は。人間の名前がないわけでもない。ベリック……俺の名前はベリック。キュクロプス工房のベリックだ」
キュクロプス? 個人名はさておき妙な名前の工房だとアシュリーは思った。キュクロプスと言えば、あのひとつ目のたいそう気味の悪い怪物である。トロールよりは理性的だし、ドラゴンよりは物分りがいいし、そもそも人を襲うということも稀な比較的温厚な怪物である。が、だからって何で鍛冶屋にそんな名前をつけたのだろう。そんなことをするのは、アシュリーの常識から言えば阿呆か変態の理屈である。
「……そうか、お前、ベリックというのか」
「そうだ」
「それでここはキュクロプス工房というのだな」
「あ、あぁ」
「あるではないか、ちゃんとした名前が」
「な、なんだよ……何か文句あるのか?」
「いいや、ない。不気味で、得体が知れないが、貴様にはぴったりのよい名前だと思ったのだ」
ふふっ、と笑いながらアシュリーが言うと、鍛冶屋は珍妙な顔で馬上のアシュリーを見上げた。
その目に一瞬だけ、完全に虚を突かれた真剣な驚きがあったような気がしたが、やはりこの小娘には人の心の機微などわかるはずがなかった。
「――だが野暮天よ、次に相まみえた時用の警告だ。出来れば初対面の人間にはそちらから名乗るものである! 淑女相手ならなおさらな!」
「あ、あんたが淑女だぁ……!?」
思わず、というように言った鍛冶屋の男の言葉を聞かず、アシュリーは馬の腹を蹴った。
「さらばだベリックとやら! ……ハイヨー白翁号! 一日千里を駆け抜けてその名の由来を示すがいい!」
そう言うと、白翁はパカラッパカラッという間抜けな音を立てて走り出した。遅い。一日千里どころか五十里も怪しい駄馬の全力疾走である。
途中、「あ、いや! 忘れても別に全然構わないからな、俺の名前!」という鍛冶屋――ベリックの大声が背中に聞こえた気がしたが、アシュリーは振り返らずに山道を駈け降り出した。