聖剣
身体のあちこちが軋んでいた。
もはや限界以上の剣を振るい続けた腕からは感覚すら失せ、気を抜けば膝さえ力を失って崩折れそうになる。ここで跪いたら二度と立ち上がれないと自分に言い聞かせてから、アシュリーは新たな剣を抜き上げ、その鋒を目の前に立ちふさがる男に向けた。
「いつまで続ける気だ? 君にこの魔剣を砕くことは出来ん」
真実、退屈そうな声でアベニウスが言う。まだ一太刀も浴びせられていないとはいえ、既に一時間近く斬り結んでいるというのに、その鎧には傷ひとつついてはいない。
「驚いたぞ。私相手にここまで戦えるとはな……やはりあのゲイル・ステンダールの血を引いているだけある」
ゲイル。その名を呼ばれて、つい頭に血が昇った。
「父の名を呼ぶなと……!」
ほとんど怒りに任せて地面を蹴り、アベニウスの間合いに真正面から飛び込む。真正面から飛び込み、その顔めがけて剣を振り下ろすが、目にも留まらぬ速さで動いたアベニウスの“魔眼”ががっしりとそれを受け止める。
くそっ、まただ。アシュリーが見ている目の前で、“魔眼”に受け止められた剣に亀裂が走り、次の瞬間には粉々に砕け散った。
顔を背ける暇もなく、飛び散った剣の破片が散弾のようにアシュリーを襲った。砕け散った鋼の欠片が頬を裂き、咄嗟に顔をかばった腕にも散弾のように突き刺さった。
「アシュリーちゃん……!」
焦れたような声を出した部下たちを手で制しつつ、アシュリーは左腕に浅く突き刺さった鋼を乱雑に抜き捨てた。
「来るな! 何があってもアストリッドの側を離れるなと言ったろう!」
自分の声ではないような、獣の声だった。よろよろと立ち上がり、頬から流れた血を乱雑に拭った途端、アベニウスが動いた。
慌てて避けようとしたが、限界を超えた疲労を蓄積した身体が一瞬だけ遅れた。手が自分の首に回り、委細構わず自分の身体が持ち上げられる。慌ててアベニウスの手首を掴んで離れようとするが、外見以上の剛力を発揮するアベニウスの右腕は、万力さながらの力でアシュリーを掴んで離さない。
「これで五十だ。君は一体いくつの剣を折れば満足するのかね?」
アシュリーの身体が冗談のように持ち上げられ、アベニウスの倦んだ瞳と目が合う。
「そろそろ理解してもらおうか。この剣は魔剣なのだ。このエーデンを、そしてこのハーフィンガルド大陸をも併呑するだろう牙……。それが何故にたかが鋼の剣に折られる道理がある? 君がここに那由多の剣の死体の山を築いたところでこの剣を止めることは出来んよ」
アベニウスの顔が薄笑みを浮かべ、苦悶の表情を浮かべるアシュリーを憐れむように見た。
「君の頭では理解が難しいかね? だが、これをたかが剣などと侮ってもらっては困るのだよ。この剣は冥王の腕。ならばそれを佩びる者はすなわち冥王となるのだ。冥王と人の子、何故に敵う道理が……」
「聖剣も……魔剣も! この世には有り得ません……!」
潰された喉の奥から声を振り絞り、アシュリーはアベニウスの顔を睨みつけた。
「聖剣や魔剣など……くだらない茶番だ。あなたは、冥王などにはなれない……! 今の貴方は、魔剣を持ったことで己が強くなったような気がしているだけの、哀れな獣です……!」
アベニウスの顔に、はっきりとした苛立ちがよぎった。瞬時、顔を俯けたアベニウスは、それからゆっくりと顔を上げた。
「……ふん、どこぞの鍛冶屋と同じことをほざいたか」
腹の底から絞り出したような恐ろしい声とともに、柔和さを崩さなかった鉄面皮が初めて割れたような気がした。灰色の瞳が冷たい光を帯び、右手に握られた“魔眼”が陽の光を鈍く反射した。
「そろそろ終わりにしよう、アシュリー・ステンダール。君には多少派手に死んでもらうこととする。この剣を胸に突き立てれば肉片の一欠片も残るまい……覚悟はよいか」
ゆっくりと、“魔眼”の鋒がアシュリーの胸の中心に押し当てられる。
逸らさないと決めた目も、もう開いている必要がなくなりそうだった。アシュリーがゆっくりと瞼を下ろそうとした、そのとき――。
「アシュリー!!」
はっと、閉じていた目を見開いた。声のした方を見ると、疾風の如くに王城の門を駆け抜け、こちらに走ってくる男が見えた。
「ベリック――!?」
その名を呼び返した途端、アベニウスの注意が一瞬だけ後に逸れる。それを見た途端に、一時は生きることを諦めたはずの全身に力が戻った。
全身の膂力を総動員し、アシュリーは喉首を締め上げるアベニウスの左手を支点にして、思い切り身体を跳ね上げた。ぎょっとこちらに向き直ろうとしたアベニウスの顔面を両足裏でしたたかに捉え、アシュリーは宙へと飛び上がった。
「受け取れ!!」
“それ”は回転しながらベリックの手を離れた。まるで矢のように飛んでくる“それ”を宙で掴んだアシュリーは、はるか下で安心したように笑みを浮かべたベリックの顔に全てを察した。
来た。
剣だ。
「おのれ――!」
アベニウスが獣の咆哮を上げ、放物線を描いて着地しようとするアシュリーに追いすがる。
「もう折れねぇぞ! 遠慮はいらねぇ、思いっきりぶちかませッ!!」
ベリックの声がアシュリーに届いた瞬間、全身に力が漲った。空中で“それ”の柄を両手で握り直したアシュリーは、回転の勢いそのままに“それ”を大上段に振り被った。
全てが静かに、ゆっくりと展開していた。
下で待ち受けるのは、濁った野獣の目。
その顔をめがけて。
天地を砕く程の気迫と力で。
全身全霊で振り下ろす――!
「いやああああああああああああああああああああああああああああああッッ!!」
瞬間、裂帛の怒声と共に振り下ろされた聖剣が“魔眼”と激突した。
ズシン……! という巨人の一撃のような手応えとともに、アベニウスが立つ広場の石畳がめくれ上がった。
アベニウスの顔がはっきりと引きつるのが見えた。それでも衝撃をいなしきれず、咄嗟に左へと逃げた身体へ、着地したアシュリーはすかさずの第二撃を放つ。ガン! という重い衝撃音とともに“魔眼”が弾かれ、アベニウスの真正面がガラ空きになった。
青褪めたアベニウスの表情は、見なかった。“それ”の柄を力いっぱいに握り締め、アシュリーは黒い鎧の中心へと、思い切り“それ”を振り抜いた。
鉄のひしゃげる音が発し、アベニウスの身体が衝撃に吹き飛ばされる。それでも足を踏ん張り、獣のような呻き声とともに数歩後退したアベニウスは、信じがたい光景を見たというように目をひん剥いた。
「馬鹿な……! “魔眼”なのだぞ! すべてを破砕するはずの“魔眼”が、一体……!?」
過去、一太刀も捉えることがなかった鎧に一撃を食らったこと以上に、完全無比と信じていた“魔眼”でも砕けぬ剣の出現。それは直接与えたダメージよりも遥かに大きな傷をアベニウスにつけたらしかった。
「剣……いや、違う! そんなはずはない……! それは……それはまさか……!」
アベニウスが言った途端、“それ”を覆っていた布が風に飛ばされ、包み込まれていた聖剣が姿を現した。
荒く磨かれた鋼の地肌。
無骨な鎚目の痕。
稲妻の如くに陽光を受けて輝く全鋼製の柄。
そして鎚頭に彫り込まれた――冥王のそれのような独つ目の刻印が、アシュリーの目を鋭く睨み返した。
「戦鎚――?」
アベニウスだけでなく、アシュリーも目を瞠った。またもや聖剣ではなく、ハンマー……とは。
しかし、それは尋常ではない気迫と荘厳さに満ち溢れていた。初めて握った筈の柄はまるで手に吸いつくように馴染み、人の頭程もある槌頭は見かけよりも圧倒的に軽い。工房にあったそれよりも随分小さくて短いのはアシュリーの体格に合わせているからか? まるで手鎚をそのまま大きくしたような不格好の割には、全体の重心はアシュリーの手元に狂いなく設定され、片手で持ってみても、まるで見えない腕に支えられているかのようにブレることがない。
なんだろう、この不思議な感覚は。今までに握った剣とは何もかもが違う。今初めて手にしたとは思えない――まるで無くしていた身体の一部が突如戻ってきたような感覚に、アシュリーの全身を強烈な感動が駆け抜けた。
「馬鹿な……! そんな玩具をこの“魔眼”が砕けぬはずがないッ!」
アベニウスが地面を蹴り、悲鳴のような雄叫びとともに突進してくる。アシュリーはすぐさま体を捻り、アベニウスと“魔眼”の一撃を槌頭で受け止めた。
“魔眼”と鎚が鍔競り合う向こうで、アベニウスの灰色の目がこぼれ落ちんばかりに見開かれる。
「何故だ……!?」
「形勢逆転……ですね! 如何に“魔眼”といえど、ミスリルの破魔の力には無力なようだ……!」
そう、魔銀――アシュリーの剣に使われていた鋼。他の金属とは一線を画す独立性と強靭性は、同時に強い退魔の力を宿しており、古くから破魔の金属として知られていた。聖剣にはミスリル――そのような先入観があるのはおそらくアシュリーだけではあるまい。
だからこそ、かつてアシュリーは聖剣としてこのミスリルを使った剣を帯びていたのである。その無敵と信じていた剣は、騎士ではない一介の野鍛冶にへし折られた。そのミスリルは今、その剣を叩き折った鍛冶屋の手によって――再びこの世に聖剣、いや、“聖鎚”として蘇ったのである。