女王アストリッド・エーデン
一瞬、アベニウスは眉を震わせたが、それでも次の瞬間には苦笑いの表情を浮かべてみせた。
「……ウィルフォード執政官、私を疑うのかね?」
抜身の魔剣を下ろし、アベニウスは舞台に立つ役者のような朗々とした声で応じた。
「いくら執政官といえど、騎士に対してそのような質問は失礼にすぎるのではないだろうか、ん? 確かにこの剣は魔剣だが、だったらなんだと申される! より強く在りたい、より強い力が欲しいと願ったのも、全てはエーデン王家の弥栄のため……全く以て私情はない! まさかとは思うが、よもやそれだけで貴公は私を反逆者だとでも……」
「それで足りないなら、ここにも証拠があるわ」
アベニウスの言葉を遮ったのは女の声であった。ぎょっとアベニウスが背後を振り返ると、そこには全身を黒いローブで包み隠した人影が忽然と立っていた。
「り、リヴリエール……!」
二、三歩後ずさったアベニウスの足元に、ローブの人影は両脇に抱えた兵士を放り出した。兵士はまるで凍りついたかのように身体を硬直させ、目だけでアベニウスの顔を見上げる。
「ちょっとだけ痛い目を見てもらったわよ。大丈夫、半日もすれば魔法は解けてまた喋れるようになるでしょう。この子たちにはなかなか面白い話を聞かせてもらったものね。命まで取るのは可哀想だわ」
「お、面白い話、だと……?」
「そう。あなたの子供じみた簒奪ごっこのお話をね、エリアス……。本当は信じたくなかったわ。あなたとの付き合いはずいぶん長いもの。……でもね」
そう言って、その人物は黒のローブを脱いだ。
あ……! と、アシュリーは息を呑んだ。ざわっ、と、広場にいた人々が揺れ、どよめきの声が上がる。
陽光を受けて輝く白銀の髪。
尖った耳。
透き通るように白い肌。
そこに立っていたのは、エルフであった。
「おかさん!」
「え、エレノア殿が……マスター・リヴリエール……!?」
そう言ったクレアがアシュリーの手を離れ、マスター・リヴリエール……いや、エレノアの足元に駆け寄る。
足に縋りついてきたクレアとエレノアの顔を、アベニウスの視線が何度も往復した。
しばし愛おしそうに娘の頭を撫でたエレノアは、キッ、と憤怒の表情でアベニウスを睨んだ。
「この子に見覚えがないとは言わせないわ、エリアス・アベニウス。あなたが殺そうとしたのは、私の娘よ……!」
瞬間、バチン! という音とともに、エレノアは思い切りアベニウスの左頬を張り飛ばし、アベニウスの巨体がよたよたと数歩後退した。
「あなたは穢らわしい反逆者――そしてあなたこそが闇夜の辻斬り魔よ。私と、あなたの命令でこの城の地下牢に囚われていた私の娘、そしてそこにいるアシュリー・フェリシティア・ポポロフが証人になる。知らないとは言わせないわ……!」
辻斬り魔。その言葉に、広場にいた観衆が悲鳴に近いどよめきの声を上げる。
「み、皆様! 百騎隊長アシュリー・フェリシティア・ポポロフが申し上げますッ!」
アシュリーの大声に、アベニウスの顔が歪んだ。
「今、マスター・リヴリエール……否、エレノア女史が申したことは完全なる事実です! この人は我が父と同じことをすると言った……吸血の魔剣の餌食にすべく罪無きものを手に掛け、私を辻切りの犯人として処刑しようとしました! 彼の耳に残る傷跡は私が辻斬り魔と切り結んだときについた傷! アベニウス騎士団長の犯行……否、女王陛下への大逆は、真でありますッ!」
アベニウスの巨体が二、三歩、よろめきながら後ずさった。
「……エーデン騎士団団長、エリアス・アベニウス!」
はっと、アシュリーもアベニウスも、同時に声のした方を見た。小さな身体をサボスに支えられながら歩いてきたのは、先程まで貴賓席で処刑の行く末を見守っていた女王――アストリッド・エーデンである。
「じょ、女王陛下……!」
突然の女王の来臨に、目を白黒させていた貴族たちや騎士・兵士たちが一斉に居住まいを正す気配が伝わった。アシュリーも慌てて片膝をついて頭を垂れた。それを見て反射的にそうしたのであろう。アベニウスも片膝をついて畏まった。
「陛下、恐れながら私は……!」
「エーデン王アストリッド・エーデンの宣化である! 控えよ、穢らわしき下郎めが!!」
アストリッドの甲高い声が、釈明しようとしたのであろうアベニウスの声を圧した。
「そなたの反逆の事実、我が城下を徒に騒擾させ、無辜を数多殺傷せし汝の大罪、もはや明白である! 我が王家の威光、我が父祖の意志、我が血統の誇りを持ってここに命じる――貴官には、朕より縛と至上の罰とを賜らん! いざ神妙に剣を捨てるがよい!」
喘息持ちのやせっぽち、その身体のどこにこんな声を出す力があったのだろう。アシュリーでさえ初めて聞く妹分の威厳ある声に、アシュリーは思わず目を瞠った。
この処刑は、全てが茶番。自分の処刑はあくまで芝居であり、先程登場したゴーレムは囮。きっとこの大騒ぎの脚本を書いた本人であろうサボスの目的は、あの“魔眼”をこの場で皆に示し、アベニウス団長の謀反を白日の下に晒すことだったのか。
くそ、とアシュリーは心中に吐き捨ててサボスを睨んだ。こういうことはもっと早く説明するものだ。おかげで本当に処刑されるかと思ったぞ――と視線で訴えると、その反応をも見越していたであろうサボスが不意にこちらを見て、誰にもわからないようにぺろりと舌を出してみせた。
と――そのとき。アストリッドは突然、胸を抑えて苦しげに咳き込んだ。
先程の大音声はやはり堪える大声だったのだろう。ぜぇぜぇ、と苦しげに息をつき、俯きながら呼吸を整える姿が痛々しくて、思わずアシュリーは駆け出していた。砕けた手錠を手首にはめたまま、その痩せた身体をサボスと一緒に支えてやる。
「陛下……」
「いいの、言わせて。サボス兄様、アシュリー姉様」
そう言ってサボスの手を離れたアストリッドは、畏まったまま微動だにしないアベニウスの前に一人進み出た。
「――アベニウス騎士団長、私はあなたを信じていた。あなたには、あなただけには味方でいてほしい、そう心から願っていました。民も、この場にいる貴族たちや兵士たち、そしてリヴリエールやサボス執政官、そして何より……フェリシティア百騎隊長こそ、私と同じ気持ちでしょう」
女王の声ではなく、年相応の少女のものになった声だった。慎重に慎重に言葉を選びながら、アストリッドは畏まったまま微動だにしないアベニウスに語りかける。
「あなたには、この場にいる全員を護り庇う騎士――我々全員の庇護者であっていてほしかった。あなたにはその力がある。先の大戦の英雄であるあなたは、この国の誰よりも、この国が経験してきた痛みや苦しみを見てきたはずだった。私はこんな身体です。このときにこの国を治める力がないと誰もが考えていたはず。私が消えることであなたが王になり、この国よりよく治まるなら――私はそれでもよかった」
その言葉に、会場がどよめいた。王である身分の者が自分からそのようなことを口にしていいはずがない。まるで簒奪の事実を庇うかのようなアストリッドの一言に、アシュリーとサボスは顔を見合わせた。
「だけど、だけどあなたは……あまりにも多くの人を不幸にした」
突如、声の調子が変わった。その細い身体に静かな怒りを満ちさせて、アストリッドは鋭く言った。
「あなたは道を過ってしまった。あなたは――あまりにも多くの人々を殺した。何故? どうして? そんなに私が憎いなら最初に私を殺せばよかった! 何故関係ない民たちを巻き込んだの? どうして、どうして――答えてください、アベニウス騎士団長……!!」
アストリッドの閉じたままの目から、一筋の涙が流れ落ちた。
「女王として、一人の人間として、私はもう、あなたを許すことはできない……!」
その言葉を最後に、女王はもう耐えられないというように両手で顔を覆って嗚咽を漏らし始めた。
女王の啜り泣きに、王の広場にいた全員が沈痛な表情を浮かべ、ゆっくりと目を伏せていった。
裏切られた悲しみ、信じる者を喪った悼み。あまりに多く 人一倍感じていただろう民の恐怖と苦悩、それを止められなかった責任の重さ。この場にいる全ての人間が共通して感じているだろう裏切りへの落胆――その全てを、不思議なほどに素直な言葉で代弁してみせたアストリッドを見て、あぁ、とアシュリーは唐突に理解した。
アストリッドは、この娘は、十分に王として成長していた。こんなにも高潔で、こんなにも優しくて、こんなにも勇気があるんだから。だって、この娘の言葉はたった今、王の言葉として、こんなにも多くの人々の心を捉えることができたじゃないか――。
「……なるほど、まんまと嵌められたというわけか」
低い声が静寂を破り、アシュリーははっと顔を上げた。
ゆっくりと立ち上がったアベニウスの口元が歪み、その顔が苦笑顔に変わる。
「ならば、もうつまらぬ演技は必要ない」
マズい、これは……! とアシュリーが地面を蹴って飛び退った途端、アベニウスは右手に握った“魔眼”を思い切り地面に振り下ろしていた。
あと数話でこの作品も終わります。