前哨戦①
錆びた鉄の匂いがした。
それはベリックの目の前を仕切る鉄格子の匂いであった。赤黒く錆びた鉄の匂いと、カビ臭さ。それに消え残る人間の怨念や怒りが渾然一体となった地下牢の空気は、穴蔵生活に慣れているはずの自分にも酷く居心地の悪いものに感じた。
ここに放り込まれて今日が二日目。一人しかいない牢番の兵士に話しかけ、隙を見て脱獄するという手は、早々に諦めなければならなかった。自分をここに放り込んだ騎士団長にそう言いつけられているのか、牢番は自分と会話するどころか、目線すら合わせようとしない。そもそも、たとえこの鉄格子を出ることが出来ても、今の自分はまるっきり丸腰。一日三度運ばれてくるまずい食事には鉄のフォークすらついてこない徹底ぶりで、これでは首尾よくここを出られたとしても何も出来ないまま首と胴体が離れるだけに違いなかった。
八方塞がり、か。ベリックは床に直に敷いてある毛布の中で寝返りを打った。牢屋の石積みをじっと見つめながら、ベリックは漠然と考える。
アシュリーは、そして一緒に捕らえられた筈のクレアはどうしているだろうか。『派手なセレモニーを行わなければならなくなった』というあの騎士団長の言葉が本気なのであれば、おそらくどちらも殺されてはいまい。あの男のことだから、きっとこの王国に牙を剥くその瞬間までシッポは出さないつもりなのだろう。となれば、如何に騎士団長といえども、部下である百騎隊長と一介の鍛冶屋、そしてどう考えても無関係のエルフの少女を裁判なしで公開処刑するようなことはしたくてもできない。ならばアシュリーだって、その時までは生かされているに違いない。あの騎士団長め、一体俺たちをどうやって始末するつもりでいやがるのか――。
それを考えかけて、いいや、とベリックはまた寝返りを打った。
それよりも問題なことがある。問題は、あの騎士団長を、そしてあの魔剣を止めることだ。
『こいつはここに隠していく。でもいいか、こいつを探しに来たやつがお前に手荒な真似をするようだったら、構うこたぁねぇ、すぐに渡せ。決して命を張って守ろうなんて考えるなよ』
七年前、親方がこの国を出奔すると言った、あの日の言葉が思い出された。
親方は最低限の荷造りをした後、工房の壁に煉瓦を積んであの剣を隠し、そして、常にない穏やかな口調でそう言った。
『本当は俺がこの剣を持っていけばいいんだけどよ……でも、生憎だがそれはできねぇんだ。この国は――いつこの剣が必要な時が来るかも知れねぇような状況だ。だからここに隠す。この剣が必要になる時がちゃんとお前にならわかるはずだ。いよいよ世の中が悲しくなったときはこの剣を持っていって、王宮の信頼できる人間に渡せ。お前にならできる――いや、これはお前にしかできねぇ事だ、頼むぜ』
俺のせいだ。ベリックは忸怩たる思いで歯を食いしばった。あんなもの、執政官があの鍛冶屋に来たときに返しておけばこんなことにはならなかったのに。でも自分はあの剣を手放さなかった。知らぬ存ぜぬで押し黙り――結果、巻き込まなくてもいい人をたくさん巻き込んでしまった。
親方の言いつけを守るなんて言い訳だった。
あの魔剣を世に出さないためだなんて嘘っぱちだった。
俺は、あの剣を、親方の最高傑作であるあの剣を手離すことを――ずっと躊躇っていたのだ。
親方――冥王のキュクロ。本名はベリックも知らない。キュクロとは、彼の一族が神話時代から受け継いできたという、鍛冶の技術を継ぐ人間が代々襲名する名前であるらしい。その話が本当なのかどうかはさておき、確かに親方が鍛えた鉄は、まるで神の工芸品であるかのように優れていて、隙がなく完成されていたのは確かだった。
追いかけても追いかけても辿りつけないほどに大きな背中。いつしか自分はその背中に憧れ、同時に嫉妬していた。だからあの剣を手放せなかった。あの剣は親方の最高傑作だったから。あの剣が――親方と自分を繋ぐ絆だと、愚かにも思っていたから。
俺は大馬鹿だ。ベリックはまた自分を罵った。アシュリー相手に偉そうに説教なんかしやがって。アイツと違って、俺はただ怖かった。あの魔剣がなくなったら、あの工房に居続ける理由がなくなるのが怖かった。親方の背中に憧れすぎて、いつの間にかそれを追い越すことさえ怖がるようになっていた。我武者羅になって父親の遺志を継ごうとしていたアイツと違って、俺はただ、親方と過ごした過去がなくなるのが怖かったんだ。
ベリックは再び寝返りを打った。湿気と埃に塗れた牢屋の壁を見ながら、ベリックは心の中の焦燥がますます大きくなるのを感じていた。
止めなければ。あれはもう聖剣でも魔剣でもない。俺の身から出た錆だ。あれが多くの血を吸う前に、俺が始末をつけなければ。
でもどうやって? 目の前の壁はあまりにも分厚く、取りつく島もなく傲然と立ちはだかっている。まずはここを出なければあの魔剣を止めるどころではない。なにか、何か方法はないものか――。
「――は? は。しょ、少々お待ち下さい」
不意に、そんな声が聞こえて、ベリックは物思いを打ち切った。やがてどたばたと駆け寄ってくる足音、「囚人、貴様に面会だ」という牢番の声が聞こえ、ベリックはもっくりと起き上がった。
「面会? 処刑時間の間違いじゃねぇのか」
冗談のつもりではなかったのだが、生真面目な性格であるらしい牢番は「軽口を叩くんじゃない!」と一喝してから、鉄格子に顔を寄せてぼそぼそと言った。
「本来ならこんなところに来られるべき方ではない。いいか、くれぐれも失礼のないようにな」
はぁ? と眉間に皺を寄せたベリックは、やがて鉄格子の前に現れた人物を見て、束の間言葉を失った。
「あ、アンタ……!」
絶句したベリックの顔を三白眼でじろじろと眺め回した美丈夫――サボス・ウィルフォード執政官は、フン、鼻を鳴らした。
「これはこれは……無様ですね、鍛冶屋のベリック。このくそ腐れ大馬鹿者めが」
どうしてこうなったのか、何故自分がここにいるのか、全てが予想通りになったという表情だった。
ベリックには返す言葉がなかった。合わせる顔もなく項垂れたベリックを、サボスは容赦なく罵倒した。
「今をときめく反逆者一味になった気分はどうですか? 私はあなたに言ったはずだ。こういうことになる前に過去への執着を捨てろと。あんなものがなくなったとしても、キュクロがあなたの中からいなくなってしまうわけでもないのに。あの時に私の言うことを聞いていればこんなことにはならなかった。結果的にこうなるのが目に見えていたからこそ、チャンスを作ってやったのに――どうしてこうなったのかといえば、まさしくあなたが愚か者だったからだ」
すべてを見透かされていた事を知って、ベリックはますます小さくなった。あぁそうさ、切れ者のアンタには全てわかっていたんだろ。俺がとんでもない馬鹿であることぐらい、とっくに。
「そういう妙に意固地なところは――本当にアシュリーと一緒だ」
ふえ? と顔を上げると、サボスは「そういう反応もすっかり似てしまいましたね……」と呆れたような表情を浮かべた。
「執政官、あまりこの反逆者と話されるのは……」
遠慮がちに牢番が諌めた途端、サボスは真正面から牢番を睨んだ。その表情に気圧されるように口を閉じた牢番に、サボスは鋭く目を光らせた。
「あまり長話をさせるなと、アベニウス騎士団長に言われたのですか?」
「は――?」
「牢番さん、残念ながら調べはもうついています。あなた、いや、あなたがたが何を計画し、誰に何を言い含められているかまでね」
その言葉に、一瞬虚を突かれたような表情になった牢番は、次の瞬間、顔色をさっと変え、腰に帯びた剣の柄に手を伸ばした。
危ない! ベリックがそう叫ぼうとしたその瞬間だった。横から割って入った光が牢番の後頭部を一撃した。
声を上げる間もなく、牢番はぐったりと床に転がった。何も言えずに固まっているベリックの前で、サボスは眉ひとつ動かさないままに言った。
「お見事、クラセヴィッツ副隊長。危ないところをどうも」
「そう仰るならもう少し避けるフリをしていただきたい、ウィルフォード執政官」
そう言いながら牢番を手際よく後ろ手に拘束する男は、どこかで見たことのある顔だと思った。そうだ、あの辻斬り魔に襲われたあの日、アベニウスと一緒にいてアシュリーと親しく話していた男に違いなかった。
「状況は?」
「えぇ、この牢獄は掌握できました。しかし参りましたよ、大砲から火薬から魔法具の類まで……ここはまさに国崩しのための兵器庫です。よもやここまで準備が進んでいようとは」
「やはり……無論、隠された兵器庫はここだけではありませんでしょうね」
「やはりアベニウス騎士団長の指示に間違いないでしょう。その気になればこの王城にだって武器を隠匿できるはずですから」
「あ、あんたら……」
遠慮がちに会話に割って入ったベリックに、二人が会話をやめてこちらを向いた。
「あぁ、紹介していませんでしたね。彼はニコラス・クラセヴィッツ副隊長。アシュリーの副官です」
サボスの紹介に、クラセヴィッツと呼ばれた男は無言で頭を下げた。眼鏡の奥の目に少し敵意を感じたのは果たして気のせいだったのだろうか……何故かそんなことが引っかかったが、訊けるわけもなかった。
「彼は私が任命した内偵です。ずっとこの国の反乱分子に関する情報を集めさせていました。この事実についてはアシュリーも知らない」
「反乱分子……?」
サボスは答えない。代わりに、大きな溜息をついた。
「騎士だけでなく執政官まで……一体何が起こってんだよ」
「簡単なことです。あなたはこの国の簒奪劇に巻き込まれたのです」
「何――?」
「そして、この国はもうすぐ滅ぶ」
平然と言ったサボスに、ベリックだけでなく、クラセヴィッツも驚いたようだった。
「執政官、そのようなことは……!」
「クラセヴィッツ副官、もはや隠しても仕方のないことです」
静かな、それでいて全てを悟った声だった。クラセヴィッツが口を閉じると、サボスはふう、と溜息をついてこめかみに指を這わせた。