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野獣死すべし②

 アシュリーが去ってから数時間。ベリックは呆然と鍛冶場の椅子に腰掛け、煤けた天井を見上げていた。


 何もする気が起きなかった。これではいかんと自分を叱り、時々思い出したようにハンマーを握ってみたり、ふいごを動かしてみたり、既にしっかり砥ぎ上げてある包丁を意味なく砥いだりしてみたが、ことごとく腕に力が入らなかった。そのうち何もかも諦めて放心することにしたベリックは、今はまるで廃人のように押し黙り、日の傾きとともに暗くなってゆく虚空をぼんやり見つめていた。ふいごを動かすことをやめたせいで火床からは火が消え、鎚を振るうことをやめたせいで音が消え、今ではまるで魂までもが一緒に抜かれてしまったかのように、今はしんと鍛冶場全体が静まり返っている。


 あの小娘と最初に知り合って一ヶ月が経過していた。当初の予定ではあと二週間、修行の日数が残っていたはずのに、こんなに思いがけない形で、こんなにも早く、この生活が終わるとは思っていなかった。


 ベリックは鍛冶場のドアに目線を泳がせ、数時間前にその向こうへ消えていった彼女の後ろ姿を追った。


 馬鹿で、チビで、脳みそ筋肉で、とにかくキーキーうるさかった。けれど、人一倍一生懸命だった。小さい体につらい過去をひた隠しにして、それでもなお女王を守ろうとしていた女騎士。大好きな父親を殺めた過去を背負いながら、それでも前を向こうと足掻き続けている姿がたまらなく眩しくて、可哀想で――そして、羨ましかった。


 親方に殴られながらも、鉄を相手に悪戦苦闘していた幼いころの自分。それを思わせる必死な姿に、自分でさえも忘れかけていた何かを思い出しかけていた日々。その一途さに引きずられるまま展開した三週間の充実が、今の火の消えたような鍛冶場の静けさをより耐え難いものにしていた。


 ベリックは工房を見渡した。親方の影に囚われ、親方の影だけを追って、気づいたら七年もここでひとりぼっち。それで足りていたはずの人生が、何故か急に物足りないものに思えてきた。


 いっそのこと、とベリックは思う。いっそのこと、この工房を閉めてしまおうか。親方からそっくり譲り受けた唯一の財産だけど、ここに居続けてはいけないのではないか。それでハンマーひとつ持って、広いエーデンを、ハーフィンガルドをあちこちぶらぶら放浪する根無し草生活。たまに見つけた鍛冶屋に厄介になりながら、たっぷり働いてちょっと遊んで、そうして自由に生きてゆく。きっと大変だろうが、きっと新鮮で気楽で楽しいに違いない。そして何より、俺はここで孤独に生きずに済むんじゃないのか……。


 そう思いかけて、はっとした。ベリックは自分が懐きかけている幻想に恐怖した。


 馬鹿な、何を考えていやがるんだ、俺は。俺がここから消えたら、「あれ」はどうなるのだ。この世の終わりまで封印するのではなかったか。俺がここから消えたら、「あれ」は程なく再び世に出るだろう。そうすればこの国は、この大陸はどうなる? 俺と親方の約束はどうなるのだ――。


 ドンドン、という音に、ベリックはすべての物思いを打ち切った。バネ仕掛けのように飛び上がり、「はい……どうぞ」と気後れしながらも言ったベリックは、ドアから入ってきた人物に眉をひそめた。


「貴様が鍛冶屋のベリックだな?」


 その偉丈夫は鍛冶場に一歩踏み入れるやいなや、野太い声でそう問うた。やたら豪華な誂えの鎧だなという第一印象が消えないうちに、スチールプレートの鎧でフル武装した兵士が三人、ずかずかと無遠慮に店内に侵入してきて、ベリックの中の何かがざわついた。


「答えろ。貴様が鍛冶屋のベリックだな?」


 漆黒の鎧を着た男が再度問うた。不審に思いながらも「え、えぇ、そうですが

……」と一応応じたベリックに、男は片眉を上げ、無造作に置かれている鉄屑を一瞥して言った。


「聞いてはいたが……本当に狭い鍛冶屋だな。これでは鍛冶場というよりゴミ置き場だ」

「はぁ?」

「まぁ、農民ども相手の商売ならこの程度で十分かも知れんがな。しかしこれは――予想以上だな。やはり、騎士の来るべき場所ではないようだ」

「ご挨拶だな。いきなり来てなんなんだよ、アンタ?」


 言われ慣れているはずの悪態なのに、このときだけは何故かカチンと来た。やたら自信満々で、威圧するような男の空気にそう感じたのかもしれない。ベリックは椅子から立ち上がり、頭二つ分は高い男を睨みつけた。


「人の店をゴミ置き場呼ばわりとはいい度胸してんな。アンタが佩いてる剣だって元はゴミ置き場から生まれてんだぜ。ならアンタはゴミにたかるカラスか? どうなんだ、おっさん」

「貴様、口を慎め! 騎士を相手に鍛冶屋風情が……!」


 漆黒の鎧の側に立った兵士がいきり立ち、ずんずんと近寄ってきた。その右手が剣の把手に掛けられているのをしっかり確認してから、ベリックは傍らのハンマーを手に取り、ガラ空きになっている足元を思い切り払ってやった。


 足元を掬われ、兵士は冗談のように転倒した。そのヘルムの下で目を白黒させているだろう兵士を見下ろしながら、その鼻先にハンマーの先を突きつけてやる。

「鍛冶屋に来といて騎士風情が大層な口利くじゃねぇか。次にデカい口叩いてみろ。その鼻を二度と盛り上がらねぇように顔の中にめり込ますぞ」


 冗談ではない声で言うと、兵士は怯えた声とともに身を固くした。それを見ていた漆黒の鎧の男が、フッ、と失笑し、ベリックは顔を上げた。


「今の技、キュクロがよくやっていた技だな」


 あァ? とベリックは不機嫌な声で応じた。


「親方を知ってんのか? 生憎、親方は七年前に追放されたきり、一度も帰ってないぜ」

「知っているさ。奴とは戦友だったからな。幾多の死線も共に乗り越えた仲だった」

「――そう言うなら人違いだ。親方は鍛冶屋だ。騎士じゃねぇよ」

「口調まで奴と一緒なのだな――」


 不気味に嗤う男の声に、ベリックは何かしらぞっとするものを感じた。なんだ、こいつ。我知らずハンマーの柄を握り直したベリックに、漆黒の鎧の男は言った。


「鍛冶屋のベリック。我々は多忙な身で、悠長に話し合いをしている暇はない。単刀直入に言おう。もう調べはついているのだ、下手な問答は省きたい」


 男の側に控えていた兵士が、ずい、と前に一歩踏み出し、剣の柄に手をかける。




「怪我をしたくなければ、貴様が隠している“魔眼”をこちらに引き渡せ」




 瞬間、ベリックは地面を蹴った。既に剣の鯉口を切っている右の兵士を、ハンマーで思い切りなぎ払う。鎧がひしゃげる音が発し、兵士は派手に吹き飛んだ。息吐く間もなく、ベリックは左の兵士に矛先を替え、既に抜かれている剣めがけてハンマーを振り下ろす。


 鋼が叩き折れ、砕ける音が聞こえた。中程からたち折れ、柄だけになった剣を見て、兵士は声にならない声を上げて驚く。返す刀でハンマーを持ち替えたベリックは、男の背中を思い切りハンマーで叩いてやる。ガシャン! と音がしてくず鉄の中に吹き飛んだ兵士は、そのまま動かなくなった。


 何やってる、相手は騎士なんだぞ――! と怒鳴る理性に、一瞬ハンマーを振るう手が止まりかけたが、それは先程床に転がした兵士が剣を抜こうとするのを視界に捉えるまでの話だった。貴様! という恫喝の声とともに立ち上がった兵士に向かい、ベリックは金敷の上にあった手鎚を思い切り投げつけた。


 ゴ! という強烈な音が発し、鎚に相応しい質量が鋼鉄をものともせずにヘルムにめり込んだ。ゴブッ、と奇妙な声を上げて、兵士は積み上げている石炭の山の上に仰向けに倒れ、そのままピクピクと痙攣を始めた。


 やっちまった――。完全に伸びている兵士を見ながらベリックが舌打ちすると、鎧の男が薄い笑みを浮かべた。


「ほほう、ここまで戦えるとはな。やはり、キュクロの弟子だけある。鍛冶の技術も、その戦い方も、全てを知っているようだ」

「……下手な問答はいらねぇって、そっちが言ったはずだ」


 ベリックは肩で息をしながら、既に遅くなった最後通牒の言葉を吐いた。


「“魔眼”なんてものはここにはねぇ。わかったなら帰ってくれ」

「嫌だ、と言ったら?」


 これだ、とベリックはハンマーを両手で支えた。その瞬間、鎧の男の顔が酷薄な笑みに歪んだ。



「ほほう、恐ろしいな」



 一瞬、脇を駆け抜けた冷たい殺気に総毛立った、その途端だった。


 今までに経験したことのないような衝撃が腹に突き通り、肺の中にあった空気が一瞬で押し出された。いつの間にか動いていた鎧の男の拳をまともに喰らったのだと気がつくのに一瞬の時間があり――気がついた時には、ベリックは工房の反対側まで吹き飛ばされていた。


 内臓の全てが破裂したのではないかと思った。身体を構成する全ての器官が潰れ、捻じれ、引き裂かれるような痛みが身体の中を暴れ回る。声を出すどころか、嘔吐するのをこらえるのが精一杯のベリックの首を、ぐい、と男の足の裏が押し潰した。



「私は騎士で、貴様のハンマーと語り合う気はない。気は進まぬが、貴様の身体に聞こう」



 まさか、とベリックは男を睨みつけた。まさか、防御どころか男が地面を蹴った瞬間までもが見えなかった。剣を抜きもしない相手に自分が負けるなんて――正直、考えたことすらなかった。それは型通りの剣術武芸などで身につけた技などではない、人を殺すために研ぎ澄ました針の一突きのような一撃であった。


「……殺れよ」


 内臓を全て潰されたような激痛に咳き込みながら、ベリックは喘ぐように言った。


「あの剣は、絶対に渡さねぇ……親方との約束だ。テメェなんざに……テメェみたいな奴にだけは渡すもんかよ」


 やっとひり出した意地の一言に、脛骨にかかる負荷が倍増した。眼圧が急上昇し、意識が遠くなりかける。


「その強情さまで似て欲しくはなかったがな……致し方がない、死なない程度に踏ませてもらおうか」


 畜生め……! ベリックは己の不甲斐なさに歯噛みした。ちくしょう、どうして俺はこんな大事な時に床に這いつくばってるんだ? なんでこの身体は動いてくれない? 『アレ』が奪われちまうとこなのに、ちくしょう、ちくしょう……!


 その時だった。カラン! というドアベルの音が鳴り、ベリックは店に入ってきた人物を見て背筋が凍りついた。


「よっ、ベリック! ……ありゃりゃ、寝てたか」

いよいよ怪物の正体が出てきます。

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