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ゲイル・ステンダール

 しばらく、ベリックは無言で歩いた。林を抜け、野原を突っ切り、畑の道を過ぎて、ようやく半分ほどの行程を消化した時、アシュリーの耳が細かな水音を拾った。


「ちょ、ちょっと止まってくれ」


 ぴたり、とベリックが歩みを止めた。


「どうした? 小便か?」

「ちっ、違うわ失敬な! ……この近くには川が流れているのか?」

「うん? ……あぁ。まぁ、あるけど」

「身体を洗いたい。ちょっと行ってきてはダメだろうか」


 ベリックは後ろのアシュリーを振り返った。


「家の風呂の方がいいんじねぇか? この時期の水は冷たいぜ」

「不浄の血を浴びている。……なんというか、お前の仕事場を穢したくないのだ」


 アシュリーが言うと、ベリックはしゃがみ込んでアシュリーの身体を地面に下ろした。


「歩けそうか?」

「あぁ、なんとかなる」

「じゃあここで待ってるからな。早いとこ終わらせろよ」


 その言葉に、アシュリーは首を振った。


「なんだよ」

「ついてきてくれ」

「はぁ? なんで」

「――お前と話がしたい。少し、付き合ってくれないか」


 なんでそんな事を言ったのだろう。アシュリー自身もわからなかったが、とにかくそうしたかったのだ。


 ベリックは狐につままれたような表情をしてから、ゆっくりと顔を引きつらせた。


「……いや、そいつは色々とマズくねぇかな」

「何故だ」

「何故、って……」

「別に一緒に水浴びしてくれと言ってるわけではないのだが」

「しかし……」

「ダメ、か?」


 縋るように顔を見上げると、「……だああ! わかったよもう、わかったからそんなツラすんなって!」と怒鳴り、ベリックはのしのしと木立の中に入っていった。


 木立の中に入ると、丁度よく川原があった。ベリックはその側の地面に腰掛け、「ん」とその奥を顎でしゃくった。


 アシュリーは頷き、ベリックに背を向けたまま服を脱いだ。わざとらしい咳払いを繰り返すベリックの背中ををちらと見てから、アシュリーは小川に立ち入った。


 足先を水に浸けると、鮮烈な水の冷たさが脳天に突き抜けた。手を差し入れ、顔を洗ってみる。我慢できない程の冷たさではなかった。


 血と汗と、泥に塗れた身体である。手で水をすくい、手のひらでごしごしとこすりながら、しばらく躍起になって身体の汚れを落とした。


 『貴様の父は正しかった』――怪人の声が脳裏にこだました。


 我が父、ゲイル・ステインダール。それは七年前に記憶の底に封印したはずの父の名前。“幽鬼のゲイル”と呼ばれたエーデン最強の騎士。騎士団団長だった男。十年前の戦勝の立役者。そして大逆人――実の娘であるアシュリーさえも実像を掴みかねるほどに、めまぐるしく経歴が変化した戦士。その父の名前が、アシュリーの全てを七年前のあの日に連れ戻した。


 まず覚えているのは、業火だった。骨さえ灰にする程の火に灼かれて、アシュリーは悲鳴を上げた。メラメラと身体を嘗め尽くす炎の熱さ、熱気を吸って灼けた喉のひりつく感じ、そしてその向こうで獣のように光る父の目――全てが、まるであの日の再現のように思い出された。



 熱かった。



 苦しかった。



 それ以上に、野獣と化した父を見るのが辛かった。



 だからアシュリーは剣を持った。



 力を込めて剣を握ると、爛れた手のひらの皮がずるりと剥けた。



 両手の痛みも無視して剣を支え持ち、



 その鋒をまっすぐに向け、



 父の心臓をめがけて業火を飛び出した――。




 アシュリーの記憶は、七年前のあの日を、正確に再現した。


 私は――狂っているのだろうか。


 ふと、そんな自問が頭の中に湧いた。


 それと同時に、自分の身がたまらなく不確かなものに見えて、思わず目眩がした。


 息が苦しくなり、心臓がきりきりと傷んで、こめかみに強い鈍痛を覚えた。


「なぁ、ベリック」


 呼びかけると、ベリックが顔を上げるのが気配でわかった。


「なんだよ」

「そこにいるか」

「はぁ?」

「そこにいるかと聞いている」

「頭パーになってはいるんじゃねぇか。声が聞こえてるならんなもん当たり前……」


 アシュリーは川から上がると、ベリックの広い背中に背を向けて、地面に座り込んだ。


 途端にビクンと痙攣したベリックは「ん、んなななななな……!」と大慌てに慌て、見たことがない程に狼狽え始めた。


「お、お、おおおおおおお前、何を……!」


 そんなベリックに構わず、アシュリーは膝を抱え、膝頭に顔を埋める。


「なぁベリック、私を見てくれ」

「み、見てくれって――! バカ、ふ、服を」

「背中を向けている。頼むから見てくれないか」


 強い口調で押し被せると、ベリックが口を閉じた。それでもしばらく迷っていたらしいベリックは、ついに覚悟を決めたらしかった。ニ、三度ためらいがちに背後を振り返ったベリックが――息を呑んだのがわかった。


「見えるか?」


 ベリックは絶句したまま、アシュリーの背中一面を覆う、ひどい火傷の痕を肩越しに見つめていた。



「なん、だよ、この傷……」



 そう、これこそが自分と父の関係を示すもの。


 ベリックに見せる必要がある過去の傷だった。



「十の時だ。実の父に魔法で灼かれた」


 そう言うと、ベリックが息を呑んだ。


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