死闘①
いよいよ核心に触れる章です。
夕闇の中を、アシュリーは森を抜ける道を歩いていた。
数時間で帰ってくる予定だったのに、すっかりと日が傾いてしまった。この森を抜けるにはなお一時間ほどかかる事を考えれば、工房に帰り着くのは完全に夜になるだろう。
ハァ、と疲れだけではない溜息をついて、アシュリーは手の中のものを見た。
そこにあったのは、上等な布で織られたバンダナであった。
無論のこと、自分のためのものではない。ベリックへのささやかなプレゼントの予定だった。
いまだかつて人に贈り物などしたことのない娘のこと、どんなものを選べば人が喜ぶかなど見当もつかなかった。相談に乗っている服屋の店員が呆れるほどに迷いに迷い抜いて、結局アシュリーは一番自分が気に入った柄のものを買うことにした。
これを見たらベリックはどんな顔をするだろう。似合わないことすんなよ、とでも言うだろうか。すぐに煤まみれになるのにこんなもんいらねぇよ、とでも言うだろうか。人がいないことをいいことに、アレコレあの野暮天が言いそうなことを物真似しながら呟いてみる。どれもあまり嬉しくははなかった。どうせなら一言でも――ありがとう、とでも言って欲しいものなのだが。
どうしてこんなものを買ってきてしまったのか……アシュリーは考える。生来難しい考え事は苦手なのだが、自分の行動の不可解さについて考えるのは一番苦手だった。自分がそうしたいからそうするのだと納得してしまえばいいのに、どうしてかいつも邪魔するものがあるのだ。
『よいか娘よ。真に剣の冴えを左右するのは腕や技術ではない。揺らぐことのない意志の力だ』
不意に――懐かしい声が脳裏に蘇った。まだ両手で剣を支え持つことも覚束ない娘に、父は厳しくそう言った。
『剣は人の意志がないと無価値な鉄塊にすぎない。それを振るう人間の意志が必要なのだ。無論のこと、人を殺そうと思って振るえば人殺しにも使える。だが、同じ剣で何かを護ることだって出来るのだ。誇り高き正義の狼になるか、飢えて人を喰らう狼になるか、それは意志の力ひとつにかかっている。また、掴み方を誤ればその刃は己の身をも切り裂くのだ。……剣の掴み方を過つなよ』
なぜ、今になってこの言葉を思い出すのだろう。アシュリーは悶々と考える。
父は厳しい人だった。己にも、そして娘にも。人に優しい言葉をかけるのが得意ではなかったのかもしれないし、その意志があまりにも強固すぎたのかもしれない。とにかく、母親が早くに亡くなり、父の手ひとつで育てられることになったアシュリーにとっては、あまりにも厳格すぎる父親だったことには違いなかった。
物心ついてすぐ、父はアシュリーに剣を教えた。教えられることと言ったらこれしかないのだ、というように、父はアシュリーに黙々と剣を振るわせた。今考えても、それは幼子にはあまりにも厳しい内容だったと思うし、実際、身体から生傷が絶えたことはなかった。けれど、辛いと思うことはあっても、それが嫌だと思ったことは一度もなかった。
だが……七年前のあの日。
王国を、王家を、騎士団を。全てに背を向け、そしてアシュリーのまっすぐに見て、父はあまりにも思いがけないことを言った。
アシュリーは生まれて初めて父に反発した。普段教えられたこととはあまりにもかけ離れた内容の言葉。そんな言葉を父の口から聞くのが辛かった。涙ながらに反駁するアシュリーを見て、父は何故かとても落ち着いたような顔を浮かべたのだった。
そして、炎が。
全てを灼き尽くす業火の色。それがアシュリーの視界を真っ赤に染める――。
ふと――アシュリーは顔を上げた。
森の奥から漂ってくる異臭。これは生臭い赤錆の匂い――血の匂いだ。
何か獣たちのものだろうか。いや違う。この肌がひりつくような気配は人間の殺気である。嫌な気配が足元から這い寄り、アシュリーの身体にまとわりついてくる。
アシュリーは血の匂いがする方向へ走った。匂いが、殺気が徐々に強くなってくる。森を抜け小川を飛び越え、ようやく森が開けた斜面に出たアシュリーは、そこに仰向けに倒れている人影を発見した。
「お、おい! 大丈夫か!」
薄闇の中でも沈んだように見えるものは、流れ出る血潮に違いなかった。アシュリーが助け起こすと、その顔に見覚えがあった。
「あ、あなたは……!」
間違いない。この老爺はベリックのお得意様のあの老爺である。浅黒かった顔は闇夜の中にもはっきりとわかる程に青醒め、虫の息であった。
アシュリーが抱き起こすと、うう、と老爺は顔をしかめ、金壺眼を薄く開いた。
「お、おお、あんたか。ベリックんとこの……」
「どうした御老体、誰にやられた!?」
「わ、わからん。北の荒れ野から帰る途中、突然、斬られた……」
老爺の証言を聞きながら、アシュリーは素早く傷口を見た。老爺は背面から袈裟懸けに切りつけられたらしく、肩口から背中の中ほどにかけて傷が開いていた。一番出血しているのは肩口の傷だが、思ったほどに深手ではなさそうだった。
どう見ても金目の物は持っていない野良仕事中の老人である。とすると、物盗りや野盗の仕業ではないはずだ。ならば何故、何故こんな無力な老爺が。その憤りに歯を食いしばったアシュリーは、持っていたバンダナを老人の傷口に強く押し付けた。
うう、と老人が呻き、バンダナはあっという間に血を吸って赤黒く変色してゆく。すまんなベリック、プレゼントはまた今度だ……と心の中で謝ると、老人が喘ぐように言った。
「なぁお嬢さん……わしゃ死ぬか」
「案ずるな、私が死なせはしない。傷は浅いぞ」
事務的な口調で言ったアシュリーの腕を、血塗れの老人の手が掴んだ。
「す、すまんお嬢さん、もしもわしが死んだら頼みがある……。わしの家に、ベリックに頼んでおいたあの鎌を……。今年四つになるわしの孫に……これが形見だと言ってくれんか」
如何にも百姓のそれというような、節くれだって猛禽の足のようになった手。その手に驚くほど強い力で揺さぶられたアシュリーは、老爺の手を握り返し、大声で怒鳴った。
「馬鹿なことを言うな! 御老体、それはあなたが手にして初めて意味があるものだ! ベリックが言った通り、孫娘にそれを手渡すまであなたには死んでいる暇などはない! わかったか!」
よほど恐ろしい顔をしていたのか、老人は青ざめた顔で何度か小刻みに頷いた。よし、とアシュリーは頷き、持っていたバンダナをきつく肩口に押し当て、老爺の右手で押さえさせる。
「持てるか? 血は止まりかけている。あなたは助かるのだ。気をしっかり持ってくれ、よいな?」
そう言うと、老爺はさっきよりも幾分かはっきり頷いた。よし、これなら大丈夫そうだとほっと息をついた途端、
ざわっ……と皮膚が粟立つ感覚が全身を貫いた。
冷や汗が滲み、背筋に嫌な悪寒が走る。なんだ、この異様な殺気は。ほとんど物質的な程に色濃い、今まで経験したことがない程の禍々しい気配。それが近づいて来るのを背後に察知したアシュリーは、ほとんど条件反射で地面を蹴っていた。
ブオン! という物凄い音が頭の下を通り過ぎ、逆さまになった世界を白刃が切り裂いた。
空中を蹴って姿勢を整え、なんとか頭から着地するのを防ぐ。返す刀で腰帯からバールを引き抜いて戦闘態勢を整えたアシュリーは、そこに立っている怪異を正面に見た。
なんだ、こいつは。
アシュリーの身体が、武者震いとは違う理由で震えた。
身長は二メートルに迫る程の巨漢である。マントとも、袈裟ともとれる漆黒の襤褸を纏った怪人。その顔には人相を隠すためなのか布を巻きつけているが、その布にも赤黒い血の染みが飛び散り、奇妙な斑模様を描いていた。まるでミイラのように簀巻きにされた顔に血走った目だけが異様に輝き、時々奇妙にぎょろぎょろと動いた。吐き気を催すほどの血の匂いはその存在そのもの――いや、正確にはその右手に握られた、巨大な剣から発されているらしかった。
こいつだ。こいつこそが“闇夜の辻斬り魔”だ。アシュリーは直感する。こいつこそがエーデン王国内を恐怖のどん底に突き落としている凶人。出会ったが最期、永遠にその口を封じられてしまうと恐れられる怪人に違いなかった。