エルフの誇り、人の誇り
「よっ、元気してるか」
クレアは例の妙なポーズとともに、やけにこなれた挨拶をした。「よぉクレア、俺は今日も元気だぜ」とベリックが応じたその時、カラン、とドアベルが鳴り、クレアがパッと後ろを振り返った。
「あ、おかさん!」
そう言って、クレアは入ってきた女性の足元に纏わりついた。よしよし、とその頭を撫でた女性に、ベリックは上ずった声で挨拶をする。
「あぁエレノアさん! おっ、お、お待ちしておりましたよ、へ、へへ」
声だけはにこやかだったが、表情とは裏腹に台詞内容は妙にぎこちなかった。この男も緊張はするのだという事を知って妙な関心を覚えたアシュリーは、入店してきた女性を見た次の瞬間、感電したように動けなくなった。
なんという美しい女性なのか……。嘘も偽りも誇張もなく、そう思った。
女性なのに身長はベリックよりも高い。透き通るような白い肌、スラリと伸びた手足。出る所と引き締まる所を全く誤っていないボディラインに、薄暗い店内に輝くプラチナブロンドの長髪。そして何よりも目を惹くのが、吸い込まれそうな碧水晶色の瞳と、尖った耳であった。
もう美人という月並みな表現も当てはまらない、それ一個が神の芸術品としか思えないプロポーションである。これがエルフ。なるほど、この美貌はエルフ以外の何者でもないに違いない。事前情報に依るとこの人がクレアの母親なのであるらしいのだが、アシュリーにはこの人が経産婦とはとても思えなかった。せいぜい、歳の離れた姉という感じである。
きらきらと光り輝くような美貌を阿呆のように見つめていると、物憂げに店内を見ていた女性の目と目が合った。
エレノアと呼ばれた女性は、おや? という表情をした。なんだか、どこかで見たことがある所作である。
それからアシュリーの頭のてっぺんから爪先まで視線を往復させたエレノアは、次にベリックの方を見て言った。
「……ベリック、彼女はお弟子さん?」
私はアシュリー・フェリシティア・ポポロフ……と自己紹介しようと思ったが、喉が枯れて声が出なかった。ヒィ、というかすれた音が鳴っただけである。圧倒的な美人と話そうとすると同性でもこうなるのだと、アシュリーは初めて知った。
「え? あ、あぁ、そんなところです! ま、まぁこいつはほっといて、さ、さ、早速ですね!」
そう言ってベリックは震える手で布に包まれたナイフを取り出し、カウンターに置いた。
「むおっ、できたか!」
「あ、あぁクレア。どうかな、お気に召すといいんだがな」
ベリックがそう言うと、クレアは母親を見上げた。エレノアと呼ばれた女性がクレアを抱きかかえると、クレアは小さな手でナイフを取り上げ、鞘を払った。
途端に、クレアの目から幼さが消えた――ように見えた。まるで剣の出来を検める刀匠のように、クレアは刃を日に翳したり、ハンドルを持ち替えたりしながら、無言でナイフの砥ぎ上がりを確かめている。
ごくり、とベリックの喉仏が動いた。
同じタイミングで、ごくり、とアシュリーも生唾を飲み込む。
なんだ、なんなのだ、この灼けつくような緊張感は……。
「どうなの、クレア?」
エレノアが尋ねると、じろじろとナイフを見つめていたクレアは、やがて言った。
「全体的に雑」
「……ほぇ?」
思わず、声を上げてしまったアシュリーの脛を、カウンターの下でベリックがつま先で蹴飛ばす。
クレアはあどけない顔のまま、つらつらと言った。
「ここ、鎬が削れてる。砥ぐ時にそこだけ減らそうと思って力を入れて砥ぎすぎてる。物打ちのところの砥ぎが甘いし鋒も十分に砥げてない。砥ぐ時に角度が一定でなかったから切刃が全体的に丸くなってる。欠けには強くなったけど切れ味は落ちたかも」
アシュリーはショックを受けるとか愕然とするとかそういう以前に、単純に驚いてしまった。いずれの言葉も無邪気さの塊にしか見えない可愛らしい少女の口から出てくる言葉ではない。
びっくりするほど大人びた――というより、辛辣な単語による批評はまだまだ続いた。
「砥石のチョイスも微妙。最初の方に横着して目の粗い砥石で削りすぎてる。鏡面仕上げにしてあるけどまだまだ細かな傷が多いし、切刃のバリも取り切れてなくてでこのままだとすぐに使えない。だいたい鍔が砥ぎ汁で汚れたまま。お客様に出すときはもっとちゃんと磨いて欲しい。全体的に仕事が粗い。一言で言えば雑で汚い感じになった。普通の鍛冶屋ならこんなものお客さんに出せないって言うはず。もっと丁寧で真摯な仕事を心がけるべき」
アシュリーだけでなく、ベリックも凍りついたように固まっていた。エルフは仕事に厳しい――そう言ったベリックのあの憂鬱そうな表情の意味が、ようやく実感を伴って理解できた。
まだ見習い以下のアシュリーはともかく、鍛冶が本業であるベリックには相当堪える言葉だったはずである。毎度毎度仕事を頼まれる度にこんな風に仕事を批評されるのでは堪らないだろう。しかも相手は自分の半分もないようないたいけな少女である。鍛冶屋のプライドも自信も、この少女にかかれば大津波を前にした小舟のように粉砕されてしまうに違いない。
雑、汚い、全然なってない、最低、バカ、ボケ、カス、クズ、ゴミ、価値なし……とにかくそんなような言葉を巧みに織り交ぜた辛辣な批評はたっぷり五分以上も続いた。
あぁ、とアシュリーは心の中で嘆いた。こんな風にくそみそに仕事の粗を指摘されるなら、もっともっと丁寧に仕事をしておくべきだった。こんなことになるなら、もっともっと時間を掛けて、もっと気持ちを込めて丹精に――。
「……でも、とても一生懸命」
不意に、そんな言葉が耳を打ち、アシュリーは顔を上げた。
「く、クレア……今なんて?」
ベリックがおそるおそるという感じで尋ねると、クレアはしっかりとした口調で言った。
「欠けはちゃんと直ってるし、切れ味も思った以上には悪くない。不器用で、乱雑で、ワイルドだけど、とっても一生懸命に砥いでくれたのがわかる。……いい仕事だと思う」
怪物を見たかのように虚ろな目をしているベリックに笑いかけ、クレアは同意を求めるようにエレノアの顔を見上げた。エレノアは妖艶な笑みを浮かべ、娘の言葉に応じた。
「ベリック」
「は――はい!」
「あなたに最初の仕事を頼んだときを思い出したわ。あなたの指導がよかったんでしょうけど、いいお弟子さんを持ったわね」
全てを見透かすような声だった。ちら、とアシュリーの方を一瞥しながらのエレノアの言葉に、ベリックの身体が震えた。
それから娘のふっくりとした頬に顔を寄せ、よかったわね、クレア……と囁いたエレノアは、母親そのものの慈愛に満ちた笑みを浮かべた。
「おねさん」
「は、はい!」
急に話しかけられたアシュリーが敬語で応じると、クレアが満面の笑みを浮かべて言った。
「にへへ、ありがとね」
天使の微笑み――であった。
その笑顔にわけもなく胸を衝かれたように感じて、アシュリーは口をぱくぱくと開け閉めした。うふふ、とその様を可笑しそうに見たエレノアは、ポケットから小さな包みを取り出した。咄嗟にアシュリーが両手を出して受け取ると、ずっしりとした重さが伝わってきた。
「生憎、今は人間社会の通貨の持ち合わせがないの。お代はこれでいいかしら?」
「は、はい。有り難く!」
「ありがとう。じゃあねベリック、今後ともご贔屓にさせてもらうわ。あなたもありがとうね」
最後にちらりとアシュリーを流し見て、エレノアは踵を返した。母親の腕の中から、バイバイ、と小さな手のひらを一生懸命に振るクレアの姿が、やがてドアの向こうに消えた。
「やれやれ、まさか本当に褒められちまうなんてな――」
しばらくして、隣からそんなつぶやきが聞こえた。ベリックが店の外に消えてゆくエルフの親子を見ながら、カウンターに手をついて、ぼんやりとした表情で言った。
「あのナイフは単なるナイフじゃない。エルフはな、子供が生まれると、ああやってナイフを一振り持たせる風習があるんだそうだ。先祖伝来の家宝のナイフなんだとさ。その刃が将来その子に振りかかる不幸から守るように願いを込めて、子供に握らせるんだ。要するにお守りだよ」
古い古いお伽話をするかのようにベリックは続ける。
「あのナイフはエルフの誇りなんだ。自分に連なる先祖たちの血統の正しさを、伝えられてきた想いを、エルフという種族の誇り高さを、あのナイフを肌身離さずに持ち歩くことで常に忘れないようにするためのものなんだって――いつだかエレノアさんから聞いたことがある」
お伽話を語るかのような口調で、ベリックは静かに続けた。
「誇りを研ぐ――なるほど、そうか。確かにその通り、そういうことだったのかも知れねぇな――」
自分一人で納得したような声を出して、ベリックは瞑目した。
やたらと長い瞑目だった。
十秒ほども瞑目していたベリックは、その後、目を見開いて言った。
「今日の晩飯はなんか精のつくもの作れよ」
「え――?」
「当たり前だろ。明日から俺の相鎚を打つんだ。しっかり食っとかねぇと持たねぇぞ」
一瞬理解できずに呆然としてしまったアシュリーは――。
数秒経ってから、ええっ!? と思い切り驚いた。
「い――いいのか!?」
「何言ってんだよ。お前は立派に仕事したじゃねぇか」
ベリックが髭面に満面の笑みを浮かべた。
「よい仕事には相応の報酬を。職人の基本だぜ」
徐々に身体の底から喜びが湧き上がってきて、アシュリーは「あぁ! 今日は飲んで食って歌おうではないか!」と大声で応じた。
「よっしゃ、そうと決まりゃ今日は飲むぞ! 奥にビヤ樽あるからな、全部開けんぞ!」
「おお! 百騎隊長の飲みっぷりをとくとごろうじるがよい!」
「おう飲め飲め! 明日は内臓全部吐き出すぐらいに二日酔いになれよ!」
「おう! 貴様こそ、明日には生まれてきたことを後悔するぐらいに飲むのだぞ!」
ギャハハハハハ! と二人は顔を見合わせて、とびきり下衆な笑顔を浮かべて、笑った。
その晩、キュクロプス工房の灯りが消えることは、遂になかった。