“幽鬼のゲイル”
一瞬、ぽかんとした少年は、すぐに頭を振った。
出来るわけがない、と全力で主張する少年の肩に手を置き、アシュリーは「案ずるな」と静かに言い聞かせた。
「騎士は――いや、人間は、剣の腕や力の強さだけで戦うのではない。魂に染みこんだ誇りで戦うものなのだ」
少年の目に不思議そうな色が浮かんだ途端、「見つけた!」という声が後ろに発し、アシュリーは振り返った。
「見つけたぞゲイル! さぁ、この聖剣で今日もやっつけてやるぞ!」
さっきこの子を追い掛け回していた三人の悪童だった。木剣を振りかざし、一番身体の大きな悪童がニヤニヤ笑う。ひっ、と身を捩った少年に「怯えるな」と鋭く耳打ちすると、少年は縋るような顔でアシュリーを見上げた。
助けて。その目が必死にそう言っていた。アシュリーは自分の腕を掴んだ少年の手をゆっくりと解くと、その手のひらを両手で握った。
「いいか、私の言う通りに動け。君なら一人でもきっとやっつけられる。わかったな?」
アシュリーが言うと、少年はしばし迷ったような表情を浮かべた後、覚悟を決めた様子で頷いた。よし、と頭を撫でてから、アシュリーは少年に木の棒を持たせた。
「ゲイル、そんなチビな女に助けを求めても無駄だぞ。俺たちは正義の騎士なんだからな」
へへへ、と一番身体の大きな悪童が言った。弱い者いじめのどこが正義なもんか。眉をひそめつつも、アシュリーは少年の背後に退いた。
「ゲイル、足を肩幅に開いて思い切り踏ん張れ。棒の端をしっかり握って先を相手に向けろ。親指に力を入れて、内側に向かって巻き込むように握るんだ。絶対に敵から目を離すなよ」
鋭く言うと、戸惑いつつも少年は言う通りにした。かなりぎこちなくはあったが、これで構えだけは様になった。悪童たちに作戦内容を聞かれぬよう、アシュリーは注意深く少年の耳元に囁いた。
「よく聞け。ここは路地裏で剣を横に振ることは出来ない。だから必ず敵は真上に剣を振り上げるはずだ。そこに隙ができる。あいつが剣を振り下ろす前にその間合いに飛び込んで、胸を狙って思い切り棒でどついてやれ。いいか、胸だ。目や喉は狙うなよ」
矢継ぎ早に出された指示にも、少年は聞いているのか聞いていないのか、虚ろな目で敵の姿を見ている。その小さな身体がカタカタと震えているのを見て、アシュリーは「最初は震えてもいい」と耳元に囁いた。
「だがなゲイル、あいつらにやられっぱなしでは、君はいつまでもお父さんやお母さんを馬鹿にされることになるぞ。ここで勝負を決めなければダメだ」
それでも少年の震えは治まらない。ふう、と鼻から息をついたアシュリーは、そっと耳打ちした。
「――ならば、一番いいことを教えてあげよう」
いいこと? 少年が目だけで後ろを振り返る。アシュリーは微笑を浮かべながら言った。
「ゲイルというのはな、昔この国で一番強かった騎士の名前だ。“幽鬼のゲイル”――攻撃を一度も喰らわず、いつの間にかやって来ていつの間にか敵を全滅させてしまうから、幽鬼と呼ばれていたんだ。誰にも捉えられず、誰にも斬ることはできない、最強の剣士――君はその男と同じ名を持つ人間なのだ。やつらの攻撃なんか喰らうわけがないだろう?」
そう言うと、少年の目に炎が燃えた。アシュリーが頷いて微笑むと、少年は怯えの消えた顔でしっかりと頷いてみせた。
やっちまえ! と仲間の二人が騒ぎ立て、身体の大きな悪童が自信満々に剣を構える。
「行くぞ! 正義の剣を喰らいやがれ!」
悪童が突進してくる。少年――ゲイルは言われた通りに敵から目を離さない。
「退くな! 怯えるな! 恐れるな! 魂で剣を振るのだ!」
アシュリーが檄を飛ばした瞬間、悪童が剣を真上に振り上げた。想定通りの展開である。間合いがぐんぐんと詰まり、それが一歩ほどになった瞬間、少年が動いた。
半分悲鳴のような雄叫びだった。それと同時に右足で地面を蹴り、両手で握った棒を真横に引いて――少年は小さな身体ごとぶつかるように鋭く突き出した。
鈍い音が発し、少年の握る棒の先が悪童のみぞおちを捉えた。ギャッ! と悲鳴を上げた悪童は後ろ向きに吹き飛び、頭から地面に着地した。
「よし!」
アシュリーが叫ぶと、少年が振り返った。自分のしたことが信じられないという表情が、徐々に喜びの表情に変わっていくのを見て、アシュリーは大きく頷いた。
「いてぇ、いてぇよ……! こ、このやろう……何しやがる! 悪者のくせに……!」
二人の仲間に助け起こされ、悪童は涙目で少年を睨んだ。
その声に、少年は棒の先を悪童の目の前に突きつけた。ひっ、と、悪童だけでなく、二人の子分ですら縮み上がったのを見下ろしながら、少年は大声で言った。
「僕の名前はゲイル、幽鬼のゲイルだ! 悪者なんかじゃない! 次に馬鹿にしたらただじゃおかないぞ!」
ぐっ、と口を噤んだ悪童は、腹いせの矛先を変えたらしかった。悪童は次にアシュリーを指差した。
「きっと……きっとあいつが何かしたんだ! ちくしょうあの女、チビのくせに! 俺たち正義の騎士の邪魔をしていいと思ってんのかよ!」
その言葉に、アシュリーはふーっとため息をついた。そのままつかつかと少年に歩み寄ったアシュリーは、悪童が握っている木剣を取り上げるや、膝を支点にして真っ二つにへし折った。
ぎょっ、と、悪童三人が目を見開いた。ただの木っ端と化した木剣を無造作に地面に放り捨てると、悪童が噛みつくように怒鳴った。
「な、何すんだよお前! 俺の聖剣を……!」
「ふたつ、貴様らに言っておくことがある」
悪童の抗議の声を無視して、ひとつ目、とアシュリーは言った。
「貴様らは今後、二度とゲイルを殴るな。その名前を馬鹿にすることも許さん。ゲイルは貴様らよりずっと強い。今までやり返さなかっただけだ。次に仕掛けたら貴様らの方が大怪我をするぞ」
そうだよな? という風に少年に目配せすると、ゲイル少年は胸を張って頷いた。
「二つ目。貴様ら三人は今後、二度と騎士という言葉を使うな。貴様らのような弱い者いじめが大好きな糞餓鬼に騎士を名乗る資格はない。もしも言いつけを破ったら――」
その言葉と同時に、アシュリーは右の拳を路地の壁に叩きつけた。
巨人の足音のような音が発し、路地全体が衝撃に打ち震えた。アシュリーの拳が僅かに壁にめり込み、レンガ積みの壁にミシミシと亀裂が走った。
三人の悪童の顔が恐怖にひきつり、じょろろろ……という勢いのいい水音とともに、身体の大きな悪童のズボンの股間が濡れてゆく。それを見下ろしながら、アシュリーは低く恫喝した。
「エーデン騎士団の百騎隊長、このアシュリー・フェリシティア・ポポロフの拳骨を喰らうことになるぞ。よいな?」
悪童たちは返事もせずに逃げ出した。逃げ遅れた身体の大きな悪童はニ、三度転びながらも立ち上がり、わけのわからない悲鳴を上げて逃げていった。
ふう、とアシュリーはため息をつき、振り返った。少年はヒビが入った壁を呆然と眺めていたが、その視線に気がついて慌ててこちらに向き直った。
「やればできるではないか、ゲイル。おめでとう」
そう声をかけてやると、少年はパッと目を輝かせた。
「お姉さんは本物の騎士なんだね! しかも百騎隊長なの!?」
「あ、あぁ、まぁそうだが……しかし」
「すっげぇ! 俺、将来は騎士になる!」
その宣言に、アシュリーは目を丸くした。
「俺、きっとお姉さんみたいな騎士になる! そのゲイルって人と同じくらい強くなって、困った人たちを助けたい!」
真っ直ぐな言葉と目に、アシュリーはハッと胸を衝かれたように感じた。
困った人を助ける。その言葉に自分の中の何かが揺り動かされ、アシュリーは助けた方と助けられた方の関係性をつかの間忘れて、少年の顔をまじまじと見てしまった。
しばらく、答えるべき言葉が見つからなかった。無言のアシュリーに少年が不思議そうな表情を浮かべる。それを見て我に返ったアシュリーは、何故だか胸が一杯になるのを感じた。
「――そうか、君は騎士になりたいのか」
うん! と全身で頷いたゲイルの頭を、アシュリーはごしごしと撫でてやった。
「わかった。その約束、幾星霜を経た後でも楽しみに待っているぞ。――さぁもう行け。今あったことをお父さんとお母さんに報告してやれ。きっと喜ぶぞ」
うん! と元気よく応じて、少年は勢い良く駈け出した。一度、こちらを振り返った少年は、約束、忘れないでね、と念を押すように言ってから、雑踏の中に見えなくなった。
やれやれ……とアシュリーは立ち上がった。あの分ならもういじめられることもないだろう。戦い方以上に、ゲイルにはきっと大切な気持ちが根付いたのだ。久しく自分も意識することがなかった気持ち。人を困難に立ち向かわせ、戦う意志を生み出すもの。人間ならば誰しもが持っているはずの、誇りという名前の気持ちが……。
「子供相手に何してやがる」
突然、背後に男の声が聞こえて、アシュリーは数センチほど飛び上がった。
後ろを振り向くと、随分久しぶりに見た気がするベリックの呆れ顔があった。
「べ、ベリック……」
「ったく、どこをほっつき歩いてるかと思ったら……。ガキ相手に熱くなって、ガキの喧嘩の助太刀した挙句、しまいにゃ壁まで叩き壊しやがって……本当に馬鹿力、いや、馬鹿だな」
呆れたようにひび割れた壁を見上げながらベリックが言う。
「べ、ベリック……」
「あん? なんだよその顔。俺はただちょっと晩飯の買い出しに来ただけだぞ。その途中にちょっと賭場を覗いてスッカラカンになっちまったから手ぶらなだけでな、別にテメーを探しに来たわけじゃねぇぞ」
その割にはベリックは手ぶらである。食材の買い出しに手ぶらで来るというのも妙な話なのだが……言いたいことはそんなことではなかった。
アシュリーは目を輝かせて言った。
「わかった……わかったのだベリック!」
アシュリーが大声を上げると、ベリックがぎょっと驚いた表情を浮かべた。
「な……わかったって何が」
「刃を砥ぐということは、誇りを砥ぐということなのだな!」
「――はぁ?」
ベリックが眼を丸くした。
「刃も人間も同じなのだ! 鈍れば切れぬし、錆びれば折れる……けれど刃は砥げばまた切れるようになる! 人も同じだ! 勇を奮い起こせば人は何度でも立ち上がれる! 人々を助け、人々を励ますならこれはまさしく騎士の使命だ! 鍛冶屋と騎士の使命は一緒なのだな!」
そこまで一息に言って、アシュリーは口を閉じた。
珍妙な顔である。無精髭の浮いた口元をぽかんと開けたまま、ベリックはまるでこの世の果てに住む珍獣を見せられたかのような眼でアシュリーを見つめていた。
その表情を見て、冷水を浴びせられたように興奮がしぼんだ。
そうだ、何を馬鹿なことを。今しがた、その誇りを叩き折ろうとした大たわけは一体誰なのだ。そうでなくても、自分は剣など持っても一月と経たずにへし折ってしまう人間なのに。
「あ……いや、すまん。つい興奮してしまってな」
だはは……と騎士らしからぬ照れ笑いとともに、アシュリーはぼそぼそと呟く。
「やっぱり私は……馬鹿、なのかな」
そう言うと、ごちっ、と、頭を軽く拳で小突かれた。あ痛て、と顔を上げると、ベリックの呆れたような半笑い顔と目が合った。
「なにをガラにもなく冷静になってんだよ、気持ち悪ィな」
「な……き、気持ち悪いとはなんだ!」
「気持ち悪いだろうが。誇りを砥ぐとかなんとか……カッコいいこといいやがって」
そんな言葉と共に、ベリックはごち、ごちっとアシュリーの頭を拳で優しく叩く。
「か、カッコイイ……のか?」
「さぁな。さ、わかったなら帰んぞ」
「えっ?」
思わず尋ね返してしまったアシュリーに、ベリックがわざとらしい大声で続けた。
「あぁ? なんだよそのツラ。いいか、こちとらメシの準備なんかしてねぇんだからな! 帰ったらてめぇがイチからやるんだぞ、わかったな!」
帰っていいのか? と訊く前に、ベリックは踵を返し、のしのしと歩いて行ってしまう。路地に差し込む西陽のせいで、その大きな背中がまるで聳え立つ山のように見えた。
器用な人間ではないのだ、とアシュリーは思う。野暮天と無精が服を着て歩いているような男のこと、きっと素直に『帰ろう』とは言えないのだろう。それでも、数時間前に起こったことの委細も構わず、不器用に仲直りの橋渡しをしてくれたのが嬉しくて、アシュリーは「おお、帰ろう!」ととびきりの大声で応じてしまっていた。
やってみよう。今と同じ気持ちで。
誰かの誇りを励ますつもりで、あのナイフを研いでみよう。
そう決意しつつ、アシュリーはベリックの背中に駆け寄る一歩を踏み出した。