ゲイル
はぁ、と溜息を吐きながら、アシュリーは麓の町を歩いていた。
走った。ただひたすら後ろを見ずに走って、走って、森を抜け、小高い丘を突っ切り、小川を飛び越えて、それで……息が上がった。全力疾走は小走りになり、小走りはやがて早歩きになり、膝が笑い出しそうになったところで、遂に足が止まった。それからよろよろと当て所なく麓の町へ降りてもう数時間。日はすっかりと西に傾き、こぢんまりとした市場は夕食の食材を買い求める人々で賑やかになりつつある。
はぁ、とまた溜息が出た。実はアシュリーは先程から同じ通りをぐるぐると歩き回っているだけなのだった。店を冷やかすわけでもなく、時間を潰すわけでもなく、同じ通りをとぼとぼ歩く鍛冶屋姿の小娘を人々は不思議そうな顔で見ているのだが、アシュリーは気づく由もない。第一、行くところなどありはしない。持ち合わせもないしまともな剣もない。合わせる顔もないとなれば、出来ることもないのだからこうして歩き回る他にないのだ。
信じられないことに今の自分は――落ち込んでいるらしいのだった。
ほとんど無意識に、左手が頬に触れていた。痛みが治まる……なんてことはなく、いまだに腫れてヒリヒリと痛んでいる。女相手に手加減をしたわけではないらしい。それだけ本気で殴られたのだ。
むらむらと、ベリックに対する反感が頭をもたげてくる。あの野暮天め、本気の全力で殴りおって。相手は騎士だ、百騎隊長だぞ? 言い訳もさせずにその頬を張るなんて乱暴狼藉にも程がある。場合が場合なら素っ首叩き落とされても不思議でない暴挙だ。第一私は女だ、18歳の小娘なのだ。打ちどころが間違えばなんらかの怪我をしていたかも――。
ふと――アシュリーは歩く方向を変え、大通りから狭い小路に入り込んだ。人が見ていないところまで歩を進めてから、やおら額を右側の壁に叩きつけた。
「この愚か者め! 愚か者め! 愚か者めが……!」
ゴツ! ゴツ! と何度も何度も額を叩きつける。
どう考えても言い訳のしようなどなかった。殴られるようなことをしたのは自分だし、怪我をしたのも私でなくあの野暮天の方だ。第一、鍛冶屋で修行すると言い出したのは自分の方ではなかったのか。道具に当たり散らすな。自分が逆の立場でも同じことを言っただろう。素直に己の非を反省できない自分は騎士失格、いや、それどころか人間としてもくそみそに蔑まれるべき愚か者ではないか――。
額が赤くなるほど壁に叩きつけて、アシュリーは壁を背にしてしゃがみ込んだ。
これからどうしよう。いっそのこと王宮へ帰ってしまおうか。部下には馬鹿にされるだろうがとりあえず道端で野宿するような悲劇は避けられる。いや、それよりも先にベリックに頭を下げる方が先決ではないのか。
悶々と悩んでいた、そのときだった。こちらに走ってくる何者かの足音が聞こえ、アシュリーは顔を上げた。
見ると、痩せっぽちの少年が半泣きになりながら駆けてきた。なんだ? とその様を見ていると、少年はアシュリーの前を通り過ぎ、そのまま路地の奥へと逃げていった。
なんなのだ? とそのさまを見ていると、待て、という子供の大声がすぐに追ってきて、アシュリーは次に前を向いた。
「邪魔だぞ、チビ女! 正義の騎士のお通りだ!」
アシュリーを突き飛ばすように駆け抜けていったのは、意地の悪そうな太い眉をした、如何にもいじめっ子という風体の悪童である。木剣を携えた悪童は子分らしい二人の仲間を引き連れ、道向うへと走っていった。
それで、なんとなく納得が行った。なるほど、この少年は先程の悪童たちからタチの悪い嫌がらせを受けているらしい。悪童たちがすっかりと道の向こうへ消えたのを見計らってから、アシュリーは背後を振り向いた。
「どうしたのだ、少年」
その声に、どこから隠れる場所を探していたらしい少年は、ビクッと身を竦ませて振り向いた。
如何にもいじめられっ子のそれである怯えた目。白い肌に殴られた傷痕が痛々しい、まるで小動物のような少年である。
「……お姉さん、誰?」
「私か? 私は王国の騎士だ」
見てわからんか、と言いかけて、そういえば今の自分は鎧も剣も持っていないのだと思い出した。明らかに疑っている顔の少年に、アシュリーは慌てて付け足した。
「……今は訳あって鍛冶屋の姿に身をやつしている。極秘任務の最中でな、すまないが任務の内容までは話せんのだ。わかるだろう?」
少年は小さく頷いた。少しだけ警戒を解いてくれたらしい少年に、アシュリーは問うた。
「時に少年、見たところあの悪童どもにやられっぱなしではないか。何故やり返さぬ? あれでは敵はますますつけ上がるぞ」
アシュリーの言葉に少年は身を固くし、少しの沈黙の後「……わかってるさ」と消え入るような声で言った。
「でも仕方ない。僕は小さいし、身体も弱くて……あいつらが僕をいじめて面白がってるのはわかってる、けれどやり返す力がない。……それに、僕がいじめられるのは仕方がないことなんだ」
やけに卑屈な少年の言葉に、アシュリーは眉をひそめた。
「何故だ? 誰しもいじめられるために生きているわけではなかろう? 仕方ないとはどういう……」
その言葉に、少年は再び口を真一文字に引き結んだ後、責めるような瞳でアシュリーを見上げた。
「僕の名前がゲイルだからさ」
その言葉に、アシュリーは息を呑んだ。
少年はその反応に、やっぱり、という諦めの色を浮かべ、膝頭に顎先を埋めた。
「あいつらは僕を悪者だって言うんだ。ゲイルは悪の騎士だから正義の騎士がやっつけるんだって……僕はゲイルっていう人が何をした人なのかも知らない。けど、皆僕の名前を聞くと変な顔をするんだ。僕は何もしてないのに」
諦めきった少年の言葉を聞きながら、アシュリーの目の前を、突如あの記憶が覆った。
炎。全てを飲み込み、灼き尽くす紅蓮の炎の色。
肉が焼けて脂が爆ぜ、髪が焦げてゆく時の不気味な音と匂い。
その炎の色の向こうに見える、飢えた野獣の目――。
「でも――本当は僕、悔しい」
少年の言葉に、アシュリーは我に返った。
随分迷った末の告白であることは間違いなく、少年は膝を抱えた手をきゅっと握りしめた。目の縁にいっぱいの涙を溜め、震える声で少年は言う。
「僕の名前だってお父さんとお母さんが一生懸命考えてつけてくれた名前なんだ。僕だって本当はやり返したい。僕は悪者じゃない、お父さんとお母さんがつけてくれた名前を馬鹿にするなって、あいつらに言ってやりたいよ……!」
少年は傷だらけの手の甲でごしごしと目を拭う。それを見て、アシュリーの心にむらむらと怒りが湧いた。
いっそ、この子をいじめるあの悪童どもを自分が追っ払ってしまおうか。怪我をしない程度に傷めつけ、二度とこの子に手を出すなといえば効果はあるだろう。しかし、そんなことをしてもその脅しがいつまで続くかはわからない。それ以上に、この少年の魂に染み付いた卑屈さを引き剥がし、もう一度誇りを呼び戻すことが出来なければ、根本的な解決にはなりはしないだろう。
「――そうか、君の名前はゲイルというのか」
そう言うと、少年が顔を上げた。
アシュリーは少年に歩み寄り、しゃがみ込んでその目をまっすぐに覗き込んだ。
「ならばゲイル。君に戦い方を教えてあげよう」