鍛冶屋修行④
一週間は経った気がする。
一ヶ月は経過しているに違いない。
一年は……続けているはずだ。
そう思った途端、急に自分の肉体が老いたような錯覚がアシュリーの脳内を支配した。肌から色艶が褪せ、皮がたるんで骨が秀でて、髪は白くなり、一挙手一投足の度に身体の節々がきしむのである。こんな体となってはもう二度と元のように剣は振れないだろう。そう思うと無性に悲しくなった。
自分の生命はどれ程残っているのだろう。きっと長くはないはずだ。騎士たるもの、いつ死んでも悔いはないという覚悟はある。だが、こんなにも早く老いが忍び寄ってくるとは思わなかった。
あぁやんぬるかな、それに気がつけばこの世にはやり残したことばかりだと気づかされる。このような時、人は最期に何を願うものなのだろう。考えてもわからなかった。きっと人それぞれなのだろう。ならば己を押し殺すことを続けてきた私だって、天に召されるその直前、わがままのひとつぐらい漏らしてもいいはずだ。
あぁ、死ぬ前にあの菓子屋のケーキが食べてみたかった、部下に『隊長』と呼ばれてみたかった、折れも欠けも曲がりもしない聖剣を振り回してみたかった……。
じわっ、と、目尻が熱くなったと思った途端だった。間抜けな音ともに壁掛け時計からハトが飛び出し、アシュリーは我に返った。
時計を見る。どうやら作業を始めて十五分しか経過していないらしかった。それが却って混乱をもたらした。馬鹿な、十五分だと? このナイフを砥ぎ始めてからそんな時間しか経っていないのか。
ナイフを見た。砂粒ほどの欠けは見たところ、最初の半分程度にまで小さくなっている。ということはまだ道半ば、作業はあと半分残っているということになる。
アシュリーは愕然とした。これが地獄の責め苦というものなのか。
エルフの少女が来店してから考えると、既に二日が経過したことになる。昨日は一日中雑用のせいで、刃を砥げる時間を捻出するには睡眠時間を削るしかなかったのだが、慣れない雑用仕事の疲れも手伝い、欠けが半分ほどの大きさになったところで眠気に負けた。それから滾々と眠り、パッチリと目覚めて雑用をこなし、昼前に作業を再開してから……およそ十五分なのである。
アシュリーは手を休ませないまま、恨めしそうにナイフを見つめた。
たった砂粒ひとつ分の、黙っていればわからないような程の傷。これを取るのにまる一日、どう考えても割に合わない仕事である。
だいたい、こんなのが思い描いていた鍛冶屋の仕事なのだろうか……とアシュリーは自問する。剣を打ってもらうのが目的とは言え、それはハンマーを振るう方の仕事であって、こんな地味な仕事をすることではなかったはずだ。しかも、ちょっとでも気を抜いたり、やり方を間違えたりするとすぐさま石炭の礫が飛んでくる。気が休まる暇もない。
一体いつになればこの仕事は終わるのだろう……と途方に暮れかけた途端、ナイフを砥ぐ左手に異様な感覚が走った。
「いっ! っつ……!?」
小さく声を上げてアシュリーが左手を見ると、砥ぎ汁で真っ赤になった左手の人差し指から、真っ赤な血が一筋流れていた。砥石と刃の間に巻き込まれ、薄皮が裂けたらしかった。
流れ出る血を見て、突然、心の中でもやもやとわだかまっていたものが強烈な憤懣に変わった。
一体私は何をやっているのだろう。こんな小さなナイフの欠けのために、汗みずくになって、指を真っ黒にして、挙句戦場でも滅多に流したことのない血まで流してしまった。私がここに来たのは何をするためだ、剣のためではなかったのか。なのにこの様は一体何なのだ? こんなもののために、こんなもの、こんなものさえなければ――!
「こんなものッ――!」
邪悪な衝動に突き動かされて、アシュリーは逆手に握ったナイフを真上に持ち上げた。華奢なナイフである。この砥石の上に真上から振り下ろせば簡単に折れるだろう……そんなことを頭の片隅で考えたのか、考えなかったのか。
その途端だった。横から現れた革手袋が、砥石に振り下ろされる直前の刃を鷲掴みにした。
はっと、アシュリーは我に返った。ナイフの刃先は砥石に触れる直前で止まっていた。そして、それを阻止した手から赤い血が滴り落ち、砥ぎ汁の黒と交じり合ってゆく。
分厚い革が裂けるのも構わず、ナイフの柄を掴んで離さない左手。信じられない程の剛力で受け止められたナイフは、そよりとも揺らがない。
「べ、ベリック――」
唖然とその名前を呼んだ途端、鬼の目がアシュリーの顔を睨んだ。
ぐい、と、血塗れの左手で胸倉を掴まれる。引きずられるようにして正面を向かされたと思った次の瞬間、世界が爆発した。
頬を張られたのだと気がついたのは、吹き飛んだ身体がカウンターに叩きつけられてからだった。
呆然と左頬に触れると、まるで火に炙られたようにじんじんと痛む。
「てめぇ、今何をしようとしたんだ」
詰問でも恫喝でもない、ただ静かな怒りだけを感じさせる声が、ほとんど聴力を失った耳に聞こえた。
アシュリーが何も言えずにいると、更にベリックの声が降ってきた。
「今のてめぇは鍛冶屋か? それとも壊し屋か? 上手くいかないからって道具に当たり散らすんじゃねぇ。鍛冶屋なら道具を大切にしろ。そうじゃねぇならここを出て行け」
その言葉に、アシュリーの頭の中の何かが切れた。
ぐらぐらする頭を俯けたまま、ベリックの顔を見返さないまま立ち上がったアシュリーは、ベリックを突き飛ばすようにして工房の外へ飛び出した。
日はすでに高く昇っていた。じんじんと痛む頬を真っ黒な左手で抑えながら、アシュリーはどこへ行くつもりなのかもわからない足を動かし続けた。
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アシュリーの消えていったドアを見て、ベリックはふん、と鼻を鳴らした。
あの性格のこと、早晩音を上げるだろうことは予想通り。いないフリで監視していて正解だったようだ。しかしまぁ、癇癪を起こしてナイフを叩き折ろうとしたのは予想外だったが――そのおかげでなりふり構わず止めてしまった。おかげでしなくてもいい怪我をしてしまった。馬鹿だなぁ俺は。もっとちゃんと見ておけばよかった……。
「いてて……!」
そう思うと、今更ながらに左手の痛みが強くなってきた。慌てて流しに走ったベリックは、革手袋を慎重に外し、工房の中へ引いてある清水で血塗れの左手を洗い始めた。
バシャバシャと傷口を洗ってから、ふと、真一文字に裂けた手のひらを見てみる。すぐに赤い血が流れ落ちてくるが、不思議とあまり痛みは強くなかった。
思った以上に傷は深く、長く裂けている。切れ味の鋭い刃物で拵えた傷口は治りも早いものだが、これなら数日で塞がることだろう。傍にあった布を乱雑に巻きつけて止血し、今度はカウンターの上に放り出されたままのナイフを右手で取り上げてみる。
ほほう、と、思わず声が出た。自分でさえ水砥石では苦戦するだろうこの硬い刃をよくぞこれだけ減らしたものだ。あの単純馬鹿のこと、すぐに飽きて放り出すだろうと思っていたのだが、これはなかなかどうして実直に仕事をしていたようだ。これほどの切れ味なら本当に危なかった。タイミングを間違えば、指がなくなっていたかもしれない……。
「刃物を砥ぐのは自分との戦い、ってか」
いつか言ったはずの言葉が口を突いて出た。親方の口癖だった言葉だが、今は自分がそれを言う立場になっているのが何故だか可笑しくて、思わず失笑してしまった。
さて、とベリックはひとつ伸びをした。追いかける必要はないとわかっていた。この程度で挫けるならその方がいい。というよりも、このぐらいの仕事が出来る人間なら、そのうち何かしら整理をつけてここへ帰ってくるだろう。それまでに自分は自分の仕事をしていればいいのだと思い定めて、ベリックは散らばったカウンターの上のガラクタを片付け始めた。