鍛冶屋修行②
小さい。常人に較べて圧倒的に背が小さいアシュリーの、さらに胸ぐらいまでしかない、極小の少女が入ってきた。プラチナのブロンドを肩までぱらりと伸ばし、上等な仕立てのエプロンドレスを着た少女は、まるで童話の世界から飛び出してきたかのように浮世離れした雰囲気を纏っていた。
よちよちと危なっかしい足取りで入店してきた少女は、カウンターの前まで来ると、ベリックを見上げてピッと右手を上げた。
「よっ」
どうもそれは挨拶らしかった。小さな身体を大きく反らして、少女はベリックの顔を見上げる。
ベリックはカウンターから身を乗り出し、少女の顔を覗き込んだ。
「よぉクレア。今日はお散歩かい?」
「違う。お仕事」
「そうかいそうかい。なら、母ちゃんから預かってきたものを出してくれ」
少女はエプロンのポケットをまさぐると、取り出したものを手渡した。やや大振りであるが、なんの変哲もないナイフである。
「研いで」
少女は恐ろしく簡潔にそれだけ言った。ベリックが革の鞘を払うと、ナイフの刃の真ん中に豆粒ほどの欠けが出来ている。
「あぁなるほど。欠けちゃったのか。よしわかった、預かるぜ」
ベリックが言うと、少女はそばかすだらけの頬を緩め、三秒ほど掛けてニヤーッと笑った。顔のすべてのパーツが下に下がったような、可愛らしくもどことなく不気味な微笑みである。
「おかさんが喜ぶ」
「あぁ、ピッカピカにしてやるからな。一週間もあれば出来るだろうから、その時にまた取りに来てくれ。次は母ちゃんと一緒にな」
何やらさっぱりわからない情報のやり取りの後、少女はくるりと踵を返し、再びよちよちと歩き出した。
少女がアシュリーの前を通り過ぎようとしたときだった。
初めてそこに人が立っているのに気づいたというように、少女の目がサッとこちらを向いた。じーっ、と、音がしそうなほどに、少女はアシュリーの顔を見つめる。
「おねさん、別に歩いてきたわけじゃないよ」
「……は?」
アシュリーは浅く息を漏らした。今なんと言ったのだ? わけも分からずアシュリーがぽかんとしていると、少女はそれをイエスと受け取ったらしく、再びあの不気味な微笑みとともに言った。
「わたしはね、ゴー君に乗せてきてもらったんだよ」
ゴー君? 何言ってるんだ、コイツは。呆気に取られたままでいると、少女は早くもアシュリーに興味を失ったようだった。ぷい、と前を向いた少女は、そのままよちよちとした足取りで店を出て行った。
なんなのだ、アイツ……。風のようにやってきて、風のように去っていった少女を目で追っていたアシュリーは、「お前、来て早々に気に入られちまったなぁ……」という声に、幾分かの正気を取り戻した。
見ると、ベリックは同情半分、驚き半分と言った表情でアシュリーを見つめていた。
「い……今のは一体? というか、今ので気に入られたことになるのか?」
「あぁ。あの子が知らない人間に向かって口を開くのを今初めて見たからな」
言ったことの意味はわからないけどな、と断ってから、ベリックは彼女に関する説明を続ける。
「あの子はこの店でもとりわけ目利きな客だよ。クレアっていってな、この山奥のそのまた向こうの集落に住んでる」
「あんな子供がそれほどの目利きなのか。見たところ普通の子供という感じだったが……」
「そりゃそうよ。クレアはエルフの子だからな」
エルフだと……!? アシュリーは仰天した。エルフ。それは人間を遥かに上回る理性と悟性を併せ持ち、生まれながらに魔法的才能に秀で、森と狩猟と静寂を愛するという伝説の種族である。なおかつ、そのエルフは千年の昔にこの大陸から姿を消したというのが世間的な常識なのだった。
「え、エルフだと!? う、嘘をつくな! エルフなぞいるわけないだろう!?」
「嘘じゃねぇよ。少なくともあの子と、その一族はエルフだぜ。母親もよく来る。すげぇ美人だぞ。耳もちゃんととんがってるしな」
「馬鹿な! なんでそのことを王宮に報告しないのだ! 世界的な大ニュースになるぞ! この大陸にエルフがいまだに生存していたなどとは!」
「チクリには興味ねぇ性格なんでな。それに、あいつらはそういう大騒ぎが世界で一番嫌いだし」
へらへらと笑ってから、ベリックは急に笑顔を消してアシュリーを見た。
「しかしお前――気をつけろよ」
「何をだ?」
「あいつらエルフに一切のごまかしは通用しねぇ。なんせ俺ら人間の倍は賢い種族だからな。それに何か、人の心の底を見透かす不思議な直感力みたいなのがある。そこらの自称目利きや刃物マニアなんかとはワケが違うぜ。小手先の屁理屈並べたり、適当な仕事すりゃ、とんでもないことになる」
「ど、どうなるのだ」
「言いたくねぇから勝手に想像しろ」
明言しなかったことが、却って不気味さを煽った。この男にここまで言わせるエルフという種族は一体何者なのだろうか。アシュリーが我知らず生唾を飲み込むと、ベリックは窓の外に視線を移し、道の向こうに消えてゆく少女を目で追った。
「俺はな、あいつらを完璧に満足させられる仕事が出来たらその瞬間に死んでもいいよ。それぐらい奴らは仕事に厳しい。俺の仕事の何がダメなのか――何年ここで鍛冶屋やっててもわからねぇんだ」
カウンターに頬杖をつき、ベリックはため息混じりにぼやいた。
「この工房に来て十年。必死になって腕も磨いた。打てるものならなんでも打った。けれど奴らエルフが俺に任せてくれることと言ったら、今やっと刃物の研ぎぐらいさ。ここにやってきて道具を作れと言ってはくれねぇ。あの人は――親方は、よくエルフが使う道具を鍛えてたのに」
「親方? 誰なのだ、それは」
「この工房の本当の主さ。俺の師匠だよ」
「今はどこへ?」
なんの気なしにしたその質問に、一瞬だけ、ベリックの顔が曇ったように見えた。
「エーデンから追放されちまったよ。……七年前、王様の命令で」
アシュリーは息を呑んだ。
追放? それはかなりの重罪――国王の民という身分を剥奪され、なんの庇護もない荒野へ放り出されること……つまり、事実上の死刑判決であるはずだった。しかもそれは王家や貴族など、表立って首を刎ねる事ができぬような、身分ある人間への刑罰である。
地位や権力には縁もゆかりもないはずの鍛冶屋が、一体何故……?
そう問おうとしたとき、幻を見ていたようなベリックの目が見る見る現実に引き戻され、ベリックはナイフを鞘に戻してわざとらしい咳払いをした。
「――悪い、つまんねぇことボヤいちまったわ」
「は?」
「いや、すまねぇ。今のは忘れてくれ。それより」
慌てた様子で追求を煙に巻く言葉を吐いたベリックは、それからカウンターの上のナイフを見て、思いついたように言った。
「そうだな、丁度いい。お前の最初の仕事はコレだな」
へ? とアシュリーが小首を傾げると、ベリックは今しがた少女が置いて行ったナイフを取り上げた。
「これは奴らエルフが狩りに使うナイフだ。これを奴らが認めるぐらいのレベルにまで研ぎ澄ますことができたら――お前に剣を鍛えさせてやってもいいぜ」
「ほ、本当か?!」
「嘘は言わねぇ。ま、できたらの話だからな」
ベリックはそう念押ししてから、カウンターの下から何かを取り出した。長方形の、きちんと面取られた灰褐色の長方形の石である。
「なんだそれは。枕か?」
「砥石だよ。見りゃわかるだろ」
「見てもわからんから訊ねたのだが……これはどういった用途に使うものなのだ?」
重症だなぁ……ベリックは己が身に降りかかった困難の巨大さを噛みしめるように言いながら、カウンターを出た。
工房の端には裏手の山の斜面から樋を渡して、工房の中に清水を引いてある一角がある。ベリックは流しに設えてある木製の台の上にその石を固定した。
「これは砥石ってもんだ。どんな刃物でもこれがないことには切れ味を保てねぇ。これを使って刃物の切れ味を保つことを『刃物を砥ぐ』と言う」
「ほうほう、それで?」
ぐいぐいと砥石に顔を近づけてくるアシュリーの頭を、ベリックは「近すぎだ」と右手で引っ込めた。
「お前にはクレアがまた来る日まで、このナイフを砥いでもらう。大事な作業だ、しっかり見とけよ」
そう言って、ベリックは砥石を台の上に載せた。洗い場には水を湛えた年代物の水桶がある。これをどうするのだろう。
「ナイフは欠けるとそこが引っかかって上手く切れなくなる。だからいざ欠けちまったら、刃線はそのままに全体を砥ぎ減らすしかねぇ」
「なるほど、理屈だな」
ベリックは桶に手を差し込み、数滴の雫を砥石の上に垂らしてから、クレアから預かったナイフを手に取った。
「このナイフは片刃だから、刃の角度に合わせて砥石に押し当てろ。裏は砥がなくていい。後は砥石に当たる部分の刃の上に左手を添えて、角度を保ちながら砥石の上を前後させる。こんな風にな」
鋼が削れる密かな音ともに、石の面の上をナイフが前後する。
「ほら、やってみろ」
そう言って、ベリックはナイフをアシュリーの手に握らせる。アシュリーは今しがたのベリックの行動を思い出しながら、刃を砥石の表面に押し当てて、慎重に前後にストロークさせた。
シュッ、シュッ、という音ともに、刃が砥石の上を滑る小気味よい感触が伝わる。
「こんな感じか?」
「なかなか筋がいいぜ。もう一度」
わかった、と頷いて、アシュリーは同じ作業を続けた。
シュッ、シュッ。
「もっとか?」
「もっと」
シュッ、シュッ。
「もっと?」
「もっとだ」
シュッ、シュッ。
「もういいだろう?」
「馬鹿。欠けがすっかり取れるまでやるんだよ」
シュッ、シュッ。
シュッ、シュッ、シュッ、シュッ、シュッ、シュッ、シュッ、シュ……。
同じ動作を数十回も繰り返したところで、アシュリーは愕然とした。
この作業は――恐ろしく性に合わない。
要するに、極めて退屈なのである。
ナイフの傷にいまだ目に見える変化はない。多少、鉄が削れたものらしい黒い砥ぎ汁が出てきただけで、刃の真ん中に出来た欠けはほんの少しも小さくなっていない。
まさか、この欠けが消えるまでこの作業を続けろというのか。それが可能だとしても、それは一体何年後のことになるのか。その時自分は一体いくつになっているのだろうか。欠けが消えるより、この砥石が磨り減ってなくなってしまうほうが遥かに早いのではないか……。
急に目眩を覚えたアシュリーは、手を止めてベリックに引きつった笑顔を向けた。
「な、なぁ――」
「あん?」
「本当にこれをやるのか?」
「当たり前だろ、何言ってやがる。刃物を砥ぐのは鍛冶屋の基本のキの字だぞ」
「それはわかるが、そこに足踏み式の回転砥石があるではないか。あっちでやった方が効率的だろう?」
「だから?」
「だから、って……も、もっとほら、なにか違う作業があるだろう? 鉄を打つのはまぁ百歩譲って我慢するが、もっとほら、ふいごを動かしたり、店番したり……」
「いいか、よく聞けよ」
アシュリーが言い終わらないうちに、ベリックは急に真面目くさった顔で、言い聞かせるように言った。
「鍛冶屋ってのは鉄や鋼を鍛えることだけが仕事なわけじゃねぇ。こういう地味な仕事のほうがむしろ重要なんだ。悪い仕事はいい仕事以上にこの世に長く残る。だから手を抜いたり適当な仕事は出来ねぇんだよ。自分で面倒見れない作品があるなら、それは本当の仕事をしたとは言えないんだ――わかるだろ?」
それでも無言を貫いているアシュリーを見て、心底呆れた、というようにベリックは鼻を鳴らした。
「おい――ふざけんじゃねぇぞ! 騎士ってのはワガママなもんだなぁ、えぇ!?」
突然の大声に、アシュリーはびくっと身体をすくませた。
この男からは聞いたことがない、心底の侮蔑と怒りを滲ませた大声であった。
「刃を振り回すのはよくて、刃を手入れするのは嫌、か!? ははっ、笑わせてくれるよなぁ本当に! お前ら騎士ってのは本当にどうかしてる人間の集まりか! お前ら騎士は自分がいっぺん嫌だと思った仕事ならやらなくても生きてける連中なのかよ、え!? 教えてくれよ、エーデン騎士団ってのはそういうどうしようもないクズばっかりが集まってるところか!?」
その一言に、アシュリーのこめかみが脈動した。
「訂正しろ」
「は? 何言ってやがる。訂正するって何をだよ」
「エーデン騎士団を――騎士団長を愚弄するな。たとえ貴様でもその一言は許さんぞ」
安い挑発だと頭ではわかっていた。だが、心が許さなかった。
アシュリーは敵意に塗れた目でベリックの顔を見つめた。
「なんだお前、この仕事も嫌いなくせに、騎士団を馬鹿にされるのも嫌いなのかよ?」
「嫌いだ――あぁ、大っ嫌いだな」
無言のにらみ合いの後、ベリックは挑みかかるような半笑いで言った。
「愚弄になるかどうかはこれからのお前の仕事にかかってるんだぜ――ほら、やってみせろよ」
「上等だ! 目にもの見せてくれるわ!」
アシュリーは猛然と刃物を研ぎ始めた。鉄が削れ、黒い砥ぎ汁は徐々に濃さを増し、アシュリーの指先を黒く汚し始めた。確かに砥げてはいるらしいのだが、それは人の目にもわからないほどの小さな変化なのであろう。
無心になれ――アシュリーは自分に言い聞かせた。とかく人という生き物はすぐに成果を求めるものだ。だが、その欲に抗ってこそ人間、抗えてこその騎士である。無心、心を無にするのだ。何も感じるな。心を乱すな、ただひたすらに作業を続けるのだ――。
「刃物を砥ぐってのは自分との戦いだ。自分に白旗を揚げるんじゃねぇぞ」
「やかましい、黙って見ておれ! 騎士の誇りを見せてくれるわ!」
まるでアシュリーの考えていることを見透かしているかのように言ったベリックは、何故なのか実に面白そうな声で言った。
「死ぬ気でやれよ。クレアがここにやってくるのは一週間後だ。それまでにお前には砥ぎの技術をしっかり身につけてもらうからな」




