王宮魔術師リヴリエール
「マスター・リヴリエール、女王陛下の容体はどうなのだ?」
アシュリーが歩きながら問うと、リヴリエールはフードの下の表情を緩めたようだった。
「安心なさい。最近は喘息の発作も出ていないし、経過は極めて良好よ」
「そうか、すまないな」
「あなたが私に感謝するような事実はありません。あの子の容体が落ち着いているのは、ひとえにあの子の努力と意志の賜物です。私の知識や魔法は関係ありませんよ」
淀みも曇りもないリヴリエールの声が答える。年齢も、発言者の氏素性すらも全く不明確な機械的な声音だが、迷いだけはないこの声を聞くと、アストリッドのことはすべてこの女に任せておけばいいのだという気にさせられる。
王宮魔術師リヴリエール。それはこのエーデン王国が誇る王立魔法院の長官の通称であり、騎士団長、執政官、王宮魔術師という、王国の最高権力の一角を構成する魔術師の尊称であった。
執政官が政治力を、騎士団長が軍事力を象徴するものならば、王宮魔術師が象徴するものはエーデンがその歴史の中で培ってきた知識力そのものである。その気になれば医学にも軍事にも転用可能な魔術的知識は、ここエーデンにおいては王の名の下に厳しく管理され、また、保護されても来た。エーデン国内のすべての魔法使いを束ね、管理する“王の図書館”――その最高機関が王立魔法院であり、彼女はその長を務めていた。アシュリーが生まれる前からずっと。
リヴリエールは続けた。
「自らの意志で回復を望んだのでなければ、いかなる魔法も功を奏しません。――治癒魔法とは本来、掛け算のようなものです。魔力がいくら強くても、魔法をかけられる対象がゼロのままなら意味を成さないのです」
「そういうものなのか」
「えぇ。ですが、最近は何かと城下が物騒です。陛下の心が休まる暇はありません」
リヴリエールは嘆息した。
「せめてもう少し、彼女の心に平穏があれば……」
「あぁ。そのために私たちがいる」
アシュリーは力強く答える。
「陛下には療養に専念してもらわなければならない。心労を大きくするような報せは耳に入れぬよう、微力を尽くそう」
「頼もしいわね……」
勇気づけるつもりで言ったのに、リヴリエールは皮肉混じりの半笑い声を漏らして歩みを止めた。アシュリーも立ち止まると、リヴリエールはアシュリーの顔を真正面から見つめた。
「フェリシティア隊長。あなたが女王陛下の心労になっているとしたら、あなたはどうするの?」
「何?」
「あなたは文字通りこの国を護る騎士です。けれど、それ故に陛下は心が休まらない。そんなことを考えたことはある?」
アシュリーが何も答えずにいると、リヴリエールはアシュリーを追い越し、ゆっくりと振り返った。
「あなたは陛下が一番心を通わせたい存在、いわばあの子の心の支えなのです。そんな存在が、毎日剣を振るい、体中に生傷を作りながら日夜死の危険がある場所に身を置いている。陛下は気が気でないはずです」
無言でいるアシュリーを一瞥して、リヴリエールは諭すように言った。
「もう少し、自重と節制にてあの子の体調を気遣ってあげなさい。あの子の姉貴分なら出来るはずよ」
アシュリーが口を開く前に、リヴリエールは靴の踵を鳴らした。途端に、リヴリエールの姿は忽然と掻き消え、後にはだだっ広い王宮の廊下の風景だけが残った。
消失の魔法――魔法使いの中でもとりわけ難易度が高い魔法であるはずだった。彼女は一瞬の間に別次元を通り、今はもう、アシュリーの反駁さえ届かないどこかへと瞬間的に移動してしまったのだろう。
開きかけていた口を閉じ、アシュリーは歩みを再開した。
歩きながらアシュリーは思う。今、自分は彼女にどのような反論をしようと思っていたのだろう。
考えても、思い出す事などできなかった。
あの子――アストリッドが光を失ってから、もう七年近くが経過したことになる。
何も知らない子供だった頃は、よく砦の中を走り回って遊んだ。一番年嵩で、歳の離れたサボスは二人のお目付け役だった。妹よりも小さなアシュリーは暴れん坊で、よく壁をよじ登って王宮の外に二人を連れ出した。一番綺麗なアストリッドはどんくさくて、よく転んでは全身に傷をこしらえた。
三人でどこまでも走り回った。花の咲く丘にも。清水の湧き出る泉にも。獣たちが遊ぶ山の中にも、その先にさえ、いつも三人で。
すべてが一変したのは十年前だった。
この国を治めていた王が戦死した。丁度隣国との長い戦乱が、エーデンの勝利で終わりを告げる直前――そう、それは最悪のタイミングだった。
名君との誉れ高い王を打ち取り、隣国は気勢を上げていた。形勢逆転を目論んで攻勢をかけてくるのは自明の理だった。それ故、権力の継承が急がれた。父が保有していた莫大な力を受け継いだのは、当時わずか五歳の王の娘――のアストリッドだった。
少女の世界は一変した。優しかった父を亡くした心労も手伝ったのだろう。戦乱が集結した直後、少女は熱病に倒れた。数日間、生死の境を彷徨った少女が目を覚ますと、その目から光が消えていた。
それから、悪いことが重なった。まるで坂道を転げ落ちるように不幸は膨れ上がり、王国は揺れた。アシュリーの身にも、サボスの身にも、均等に悪夢は降り注いで、気がつけば十年という時間が経過していた。
日の差し込む王宮の廊下を歩きながら、アシュリーは考える。ひと月の間自分が留守にすることになる、慣れ親しんだ佇まいは、十年前と何も変わっていなかった。
もし、あの時自分にもっと力があれば。もし、不幸な運命を切り裂けるほどに剣の冴えが自分にあれば。或いはアストリッドがあんな事にはならなかったかもしれない。それ以上に、父があのような決断をしなくて済んだのかもしれない――。
無力だった。
力が欲しかった。
必死になって技を鍛えた。
自分はあの時のように無力ではないはずだった。
二度とあの子から何も奪わせない。
相手が運命だろうが神だろうが、そのためだったら私はなんでもするだろう。
アシュリーは決意を新たにして、あと一月の間は留守にするだろう王宮の廊下を早足で歩き出した。