全盲の妹
玉座の間の扉を開くと、王宮魔術師リヴリエールが仮面の下の顔を変化させた。おや、という表情である。
アシュリーが軽く頭を下げると、リヴリエールは傍らにいる少女にそっと囁いた。
「女王陛下。フェリシティア隊長が来ましたが、如何なさいましょう?」
「通して。今日は体調もいいから」
鈴を転がすような声で少女は言った。アシュリーが一歩玉座の間に入ると、リヴリエールは少女が座る車椅子をアシュリーの方に前に向けた。
「女王陛下、休暇前のご挨拶に参りました」
「あぁフェリシティア隊長、戻ったのね。長の休暇を願い出たと執政官から聞きました」
少女が言うと、リヴリエールの唇が笑みの形に持ち上がった。サボスはこの子に一体どんな内容の話を吹き込んだのだろう。
「ええ……少し野暮用がございまして」
「どんなご用事?」
「野暮用です」
「そう、野暮用ね」
くすくすと少女が笑うと、手入れの行き届いた銀色の髪がさらりと額にこぼれた。
まるでビスクドールが魂を得たように、その姿は実に自然で、可愛らしかった。
女王は美しい少女である。アシュリーと3つしか違わないのに、何倍も大人びて見えるのはその美貌のせいであろう。陽の光を知らぬ白い肌に、透き通るような美声。輝くような銀色の髪が神秘的な印象を与える不思議な少女――それが大国・エーデン王国の女王、アストリッド・エーデンである。
アストリッドは白磁のような指で髪を耳元にかき上げながら言った。
「でも、休暇中も夜間の出歩きには気をつけてちょうだいね。最近、城下では深夜に辻切り魔が出ていると聞きましたので」
「……あのような不貞の輩を女王陛下の膝下にのさばらせているのは私の至らなさ故。陛下にはなんとお詫びすればよいか」
そう言うと、アストリッドは困ったような表情を浮かべた。
「そんなことを言いたいのではありません。私はあなたに傷ついてほしくないだけ」
「いえ、私はあなたの、エーデン王家の剣です。剣は王の名の下に悪を貫き、正義を励ますが仕事ですから」
「アシュリーお姉様」
「その呼び方はおやめください」
「いいえ、やめません」
アストリッドは頑固に言い切った。
「アシュリー姉様。父が亡くなってから、私が本当に信頼出来る人間は数えるほどになってしまいました。私はこのような身体ですから、敵が多いことも自覚しています」
アストリッドは続ける。
「でも、本当はこんな壊れかけた身体のことなんてどうでもいい。王国の行く末がどうなろうとも、私の中に流れる血が絶えることも、もうどうでもいい。私が本当に心配しているのは、……まさにあなたたちのことです」
アシュリーは少し困ったように頭を掻いた。
「アシュリー姉様、私の大好きなお姉様。血なんか繋がってなくてもいい。あなたさえ健やかにいてくれれば――私にはそれで十分です」
あぁ、やっぱりこの子は王には向いていない。
王になるにはこの子は優しすぎるのだ。
ずっと昔から、相変わらず、人一倍どんくさくて、人一倍繊細なのだ。
「私は貴人に連なる人間ではありません。むしろ、私は」
「フェリシティア将軍」
鋭いリヴリエールの声が飛び、アシュリーは口を噤んだ。
「女王陛下の御前です。あまり無用はお話はお控え頂きたく存じます」
焦ったようにその先の言葉を止めたリヴリエールの言葉に、アシュリーは我に返った。
「いえ、なんでもありません。すまない、王宮魔術師」
「リヴリエール、姉様を叱らないであげて」
後ろに控えたリヴリエールを振り返り、アストリッドは若干怒ったように言った。灰色の瞳に射すくめられて、さすがの王宮魔術師も気圧されたようだった。
「いえ――そのようなつもりでは。どうか御容赦を」
リヴリエールが平謝りすると、アストリッドは前を向いた。
「姉様、そこにおりますね?」
「は。私はここにおります」
「こっちへ来て」
アストリッドは両手を広げた。少し迷って、アシュリーはリヴリエールを見た。リヴリエールが目だけで頷いたのを見て、アシュリーはアストリッドに歩み寄った。
玉座の前に跪くと、アストリッドはアシュリーの頬を両手で包み込んだ。
氷のように冷たい指先が、アシュリーの顔の上をぺたぺたと移動する。耳へ、髪へ、顎へ、唇へ――。
「少し、疲れているわね」
「そう――なのでしょうか」
「あなたのことなら何でもわかります。私はあなた、いえ、あなたたちが心配です。兄様や姉様にもしものことがあったらと思うと……」
その先を言い淀んだアストリッドは、せめて、とか細い声で続けた。
「せめて、この盲た目でなければ。サボス兄様やアシュリー姉様の成長したお姿がひと目見れるのに」
アシュリーには返す言葉がなかった。
アストリッドの灰色の瞳には、まるでそこに成長した自分たちが立っているとでも言うように、漠然と虚空に向けられたままだ。
言葉に詰まっているアシュリーに、リヴリエールが助け舟を出した。
「陛下、あまり長話をすればお身体に障ります。隊長は私がお見送りしましょう」
「ええ、そうね。それではフェリシティア隊長、休暇を楽しんできて」
「はい、有り難き幸せです」
そう言って頭を下げたアシュリーは、盲の妹分に背を向けて歩き出した。