刃のイロハ②
今後を占う章です。
ベリックは立ち上がり、調理台の上にあった丸パンを一切れ、テーブルの上に置いた。
「これを切ってみろ」
そう言って手渡されたのは、先程までアシュリーが振るっていた包丁である。これを使って何をさせようというのだろう。
「切れって……切ればいいのか?」
「あぁ、真っ二つに切ってみろ」
「ほい」
ダン! とアシュリーはパンに包丁を振り下ろした。パンは二つに切れ、包丁はテーブルの天板に突き刺さった。
「切れたぞ」
ガサツな女だなぁ……とベリックはぼやき、今度は自分が包丁を握った。
スッ、とパンに包丁が入り、パンは4つに切れた。
「これがなんなのだ?」
「切り口を見てみな」
アシュリーがパンを手に取ると、ベリックが解説した。
「最初のお前の切り口だと、垂直方向から刃を押し付けられてパンは全体が潰れてるだろ? 反対に、俺が切った切り口はなめらかで、パンも潰れてない」
そう言われて、アシュリーは四分の一になったパンを見てみる。最初に自分が切ったパンの切り口は粗く、パン自体も全体的に潰れている。
「ほうほう……言われてみれば」
「これが例えば敵兵の兜で、お前が握ったのが包丁じゃなくて剣でも同じことが起こる」
そう言って、ベリックは半分に切れたパンの一欠片を齧りながら、もう半分のパンを手で示した。
「もう一度やってみろ。手は添えるだけ。包丁の重みだけで切るんだ。……切る時に刃を手前に引きながらな」
「て、手前に引く?」
「まずやってみろって」
何をさせるつもりなんだ、この男は。アシュリーは四分の一の大きさになったパンに刃を乗せ、スッ……と手前に引いた。ほとんど包丁の重さだけでパンに刃が食い込み、切れた。
「お、おおぉぉぉ……」
驚きであった。こんな弱い力でモノが切れるなどということは知らなかった。これで料理を作る時に包丁を何本もダメにしなくてよくなる……のかも知れない。
「なんで、どうしてだ。なぜこんな力で……」
「そりゃ、包丁の刃がこういうものを切ることに特化してるからさ」
ベリックは説明する口調になった。
「いいか? 刃物って言っても色々だ。包丁、これは料理に向く。肉や魚、野菜が切れる。けれどこれで木は切れねぇし人も殺せねぇ。立ち木を切るなら固くて重い斧やノコギリ、枝を打つなら鉈、草を刈るなら鎌、布を断つなら鋏、人を斬るなら剣が必要だ」
明快な口調である。思わず、アシュリーもフンフンと頷きながら同意する。
「包丁でも更に場面に応じて更に細かい使い分けをする。魚を切るなら取り回しが簡単で細かい作業が可能なペティナイフ、野菜なら薄刃の菜切り包丁みたいなのが向いてる。肉を解体するならもっと複雑だぜ。まず獲物にとどめを刺し、太い筋まで切れるハンティングナイフ、毛皮から身を切り離すための皮断ちナイフ、それに骨をバラすためのノコギリや手斧までが要る。ひとつの用途をすべてこなせる刃物なんかねぇ、わかるだろ?」
それはその通りだ、とアシュリーも素直に納得した。反対に、包丁のような薄い刃物で木を切った試しもない。もし刃が砕けなかったとしても、木材に刃が深く喰い込み、結局木は切れずじまいに終わるだろう。
「刃ってのはな、科学だぜ。わかるか、科学?」
「科学? あぁ、何やら王宮でもそんなことを研究しておったな……私にはさっぱり理屈がわからなかったが」
「そう、科学。この世の森羅万象に説明をつけるための学問だ。どんな刃を使って、モノを切るための力をどのように入れ、どんな風にそれを刃に伝えるかってことだな。それを間違えばモノは切れねぇ。刃物は刃がついてないのと同じ、単なる鉄の棒になっちまう」
「鉄の棒――」
「そうだ。……然るにお前!」
ずいっ、と鼻先に食べかけのパンを差し出され、アシュリーはうっと顔を背けた。
「な、なんだ」
「お前のはまさに『それ』だ。この間から見てるが、お前の太刀筋はどう考えてもモノを斬る太刀筋じゃねぇ。ただ剣で全力で叩きに来てるだけだ。だから剣は欠けるし曲がるし折れる。剣が悪いわけじゃねぇ。使い手であるお前が加減を知らずに振り回し過ぎなんだよ」
その言葉に、アシュリーも思い出すことがあった。さっきの副官の言葉である。『俺だって、ぶん殴られるのは嫌だ』――そうだ、副官は『切る』ではなく『殴る』という言い方をしたのだ。副官はこのことに気がついていたのかもしれない。
しかし――アシュリーは反省するどころか、単純にムッとしてしまった。如何に相手が鍛冶屋とは言え、騎士が戦いの素人に剣撃について文句をつけられる謂れなどないはずだ。
「だ、だからってなんなのだ! ただパンに包丁を入れただけではないか! それにそれはミスリルの剣が折れてこのバールが折れぬ理由にはならんだろう! 常識的に考えてミスリルの方がそこらの鋼よりもずっと強いはずだろうが!」
アシュリーが言うと、ベリックは、バカの相手は疲れる、といいたげな顔になった。
「バァカ」
「は?」
「絶対に壊れないし折れない金属なんかこの世にあるわけねぇじゃねぇか。騎士様はいつもいつも剣に夢見過ぎなんだよ」
「そ、それはどういう……」
「それにな、あの剣はミスリルなのに折れたんじゃねえ。ミスリルだから折れたんだぜ」
「は?」
なんだ、それは。まるで謎々である。理解できていないアシュリーを見て、ベリックは肩を竦めた。
「要するにだな、刃物に使う鋼ってのは硬いんだよ。しなやかさはない。だから叩いたり、先っぽでこじったりすると欠けるんだ」
「し……しなやかさだと?」
アシュリーは首を傾げた。しなやかさ。また妙な単語の登場である。
「しなやかさって……あの硬い鋼にしなやかもそうでないもあるのか?」
まさか、と続けるはずだった言葉は、ベリックの「あるさ。見てな」という自信満々の声に飲み込まざるを得なくなった。
ベリックは先程アシュリーが刃を突き立てた溝に包丁を差し込み、柄の先端を指で引っ張った。包丁の薄い刃はぐっと弓なりに撓み、ベリックが手を離すのと同時に元通りになった。硬い鋼にもしなやかさと復元力がある。アシュリーとしても、どうにもそれを認めざるを得ないようだ。
「この世のあらゆるもんには粘り……いわゆる靭性って奴がある。バールは木材から釘を引き抜いたり、家屋を解体する時に壁を叩き壊すための道具だから、曲がるのはご法度、折れるなんてのは以ての外だ。だから鍛冶屋はバールなんかには専用の鋼材を使って、折れないように、曲がらないように丁度いい焼きを入れるもんなんだ。限度はあれ、つまり打撃に強いってことだ」
まるで魔術書か何かを読むような、立て板に水の口調でベリックは続ける。
「硬さってのは脆さと表裏一体なんだぜ。硬いだけの木は嵐が来たら風を受け流せずに折れちまうが、反対にしなやかな若木ならなんともない……言うなれば靭性ってのはそういうことさ。ミスリルの剣も同じだ。ミスリル銀は硬い、つまりしなやかさがないから宿命的に脆い。だから妙な方向に負荷がかかれば折れる――」
と、言うことは。なんとなく理解したアシュリーが頷くと、気づいたようだな、とベリックも頷いた。
「昨日、お前がミスリルの剣を全力で打ち込んできた瞬間、俺はハンマーで少し小突いただけだぜ。打ち込む力が強ければ強いほど受けた部分を支点にして強烈な負荷が生じる。そうなりゃミスリルと云えどもひとたまりもねェ。衝撃を受け切れなくなったミスリルは中ほどから勝手に折れるだけ……って、ミスリルを折ったのはそういう理屈だよ」
「そういう……ことか」
「そういうことだな」
とりあえず理屈はわかった。刃の種類、用途、靭性――あまりにも新鮮に聞こえる言葉が、振れば切れるもの、という程度の貧しい知識しかなかったアシュリーの世界観をいっぺんに変えた。
しかし、である。アシュリーはベリックの顔を見た。浅黒くて骨ばっていて、如何にも職人と言った感じの若い男の顔ではある。だがそのどこにも武人としての面影はない。
「あん? まだなんかあんのかよ?」
怪物を見るような眼で人の顔をじろじろ見るアシュリーの視線に、ベリックは眉をひそめた。
「お前――どこで戦い方を教わったのだ?」
「は?」
「いや、理屈はわかったがな……。何度も言うが私は百騎隊長だぞ? つまり凄く強いのだぞ? 口で言うのは簡単だがな、私のあの必殺の一撃を躱して剣を折るなど……そこまでは如何にお前が鍛冶屋と云えども難しいことではないのか」
そう指摘した途端、何故だか少しベリックの顔が変わった。面倒なことに気がつくなよ、とでも言いたげな表情にアシュリーが眉をひそめた、その時だった。