プロローグ
錆びた鉄の匂いがした。
それは鉄の匂いではなかった。自分の背後に倒れるトロールの死体から流れる血の匂いだった。
噎せ返る程の血の匂いをかき回すように、谷の中に兵士たちの歓声が響き渡る。
「やりました、さすが“ハーフィンガルドの野獣”ですなぁ」
副官の男は少しはしゃぎ気味にトロールの死体を見上げた。
小山のような巨体である。腐臭をまとうのはトロールの常だが、異様なのは腐臭を圧する血の臭いだった。どくどくと恐ろしげな音を立ててトロールの頭から流れ出す粘度の高い血は、周囲の地面を赤黒く汚して、やがてそこに立つ騎士の足元にも押し寄せ始めた。
「フェリシティア隊長。あなたは本当に一騎当千……いや、大嵐にも劣らぬ力をお持ちだ。この世に荒武者の類は数あれど、本当の意味で一騎当千なのは大陸の中であなたぐらいのもの――」
「おだてるのはよせ、副官」
やけに甲高い声は不機嫌そうだった。おや、と副官が口を閉じると、騎士は右手に握った剣の柄を持ち上げてみせた。
剣は折れていた。まるで最初からそういう形のオブジェだったかのように砕け、無残な断面が細く差し込む夕日に光った。
「また折れてしまった。トロール一匹には釣り合わん出費だよ、頭が痛い」
事も無げに言った騎士に、ぎょっ……と、副官は目を剥いた。
「な、ま、また折ってしまったんで――?!」
「折ったのではない。折れたのだ」
副官の言葉を訂正しつつ、騎士は柄だけが残った剣を忌々しげに見つめた。
「あの鍛冶屋は隕鉄がどうのこうの言っておったが、何、口程にもない強度だったな。二度と彼の者に仕事を任せるな」
「しっ、しかし――彼の者は王国のお抱え鍛冶、彼以上の剣を打てる者など、ハーフィンガルドには――!」
「兵士も鍛冶屋も同じだ。我が手下に無能はいらん」
騎士はそう言ってヘルムを両手で持ち上げ、脱いだ。
ヘルムの中に窮屈に収まっていた金髪が、あふれるようにこぼれ落ちる。
女である。
輝くような金糸の髪を頂いた――まるで剣のように鋭い雰囲気をまとった女である。
「ハーフィンガルドがダメなら神の国にでも冥府にでも赴こう。必要とあらばな」
髪を手で撫でつけながら、騎士は数メートル先に落ちた剣の刃を一瞥した。
もはや何の用も為さない鉄の塊。それは死んだ兵士の目のように、遥か上の青空を漠然と映し取っている。把手しかない剣を無造作に放り捨て、女騎士はトロールの死体に背を向けて歩き出した。
足らなかったのだ、と思う。すべてがだ。あの剣には強度も、切れ味も、神聖さもすべてが足りなかった。だからこうして折れ砕ける。単純に力がないから、戦場では生き残れない。人間も剣も同じだ、強い者は放っておいても生き残り、弱い者は淘汰される――。
それではいけない。
自分は強くあらねばならぬ。
それなら、自分が帯びる剣も強くあらねばならない。
なのに、足らぬ。
飢餓感に似た渇望が女騎士の胸の内側を不快に引っ掻いている。
「どこかに……ないのか。私が帯びるべき聖剣が、どこかに……」
思わず呟いた独白を聞いたものはいなかった。
聖剣。その響きに、一瞬だけ心臓が熱を帯びた気がした。