バティア鉱業
教会を離れ、向かったのは背の高い建物、バティア鉱業の寮だった。その玄関口は、仕事を終えたであろう寮員の出入が激しい。玄関口は避け、外周を回る。白い壁を伝い歩んで行くと、地下の空堀、その隣に古い焼却炉があった。まるっきり変わった外装だが、まさかここに面影を感じるとは。
黒い煙を吐く焼却炉を見下ろしていると、その側で作業している人物がいた。煤で汚れた腕で額を拭い、跳ねた橙色の髪もまた黒く染まる。丁度作業を終え、丸い顔を上げた少年の丸い瞳と視線が合ってしまう。
「あれあれ?だれ?どうしたの?あ、お手伝いの人?」
雀斑だらけの頬を上げ、空堀の梯子を上がってきてすぐ歩み寄る少年に思わず身を引く。それにも関わらず、低い背丈を必死に伸ばして顔を寄せようとしていた。
「ぼくはね、リャンっていうんだ!ヤン坊でも何でも好きに呼んでくれて良いよ!」
「……子どもが火遊びなどするものではない」
「子どもじゃないよ、リャンだよ!ところで君の名前は?ねぇ教えてよー」
少年は馴れ馴れしくも己の手を両手で掴み、上下に振る。この瞬間に理解した。目の前の存在は、確実に相性の合わない苦手な分類であると。己はその手を振り払い、早々に立ち去った。
寮は三階建ての集合住宅となっていた。一階は食堂や浴室など他の寮員と共有する空間で、二階と三階は寮員それぞれの部屋が割り当てられている。案内図によれば、その三階には寮の管理を任せられた寮長の部屋もあるとのことで、まずは挨拶のため階段を上がっている、のだが――。
「……ついてくるな」
「だって、ぼくもそっちに用があるんだもん」
先程の餓鬼が後ろからのこのことついて来ていた。全く、何なのだろうか……。
三階廊下の先、他の扉と比べると大きい扉に差し掛かる。寮長の部屋だ。己よりも先に、後ろの餓鬼が出しゃばり、「こんばんは、りょーちょー!」と勝手に扉を叩くものだから腹立だしい。……待て、今、何と言った?
「貴様、まさかバティア鉱業の従業員……なのか?」
「じゅーぎょーいん?」
小首を傾げる仕草が益々腹が立つ。髪をかき上げ溜息をついた直後、解錠音とともに目の前の扉が開いた。
「こんばんは、リャン君。待っていたよ」
「りょーちょー、お客さん連れてきましたー!」
「お客さん?」
連れて来られたわけではないが、それは胸に仕舞っておく。
扉から顔を見せたのは、白髪混じりの群青色の短い髪で、年齢相応に皺はあるが整った顔立ちの男だ。眼鏡越しに見える鮮やかな翠色の瞳を少し細めて、苦笑を浮かべていた。輪郭も体格も線は細めで華奢な体格であるが、鍛えていないわけではないようでそれなりに引き締まっている。その部屋の主と扉の隙間から見える部屋は、整理整頓され綺麗な印象だった。本棚には隙間なく本や書類が並んでおり、几帳面さが窺える。荷造りしていたのか、すぐ背後に縄が結ばれた木箱が見えた。
「ディルクと申します」
「コーダさんから話は聞いているよ。オーガス=バーセクトと申します」
「えぇ?!新入りくんだったの?それなら早く言ってよー!」
互いに名乗り礼を交わす、至って当然の礼儀作法であり、それに割り入るとは世間知らずにも程がある。その無礼者を睨みつけるが効果はなく――。
「じゃあ新入りくんも手伝ってよ!」
と、こちらの都合を考えずに腕を引っ張るのだから呆れたものだ。それを見兼ねたバーセクト氏が無礼者に視線を合わせた。
「駄目だよ、リャン君。彼は来たばかりなんだ。まずは寮の案内をしようね」
「はーい」
バーセクトは奴の頭を優しく撫でた後、部屋内の机から一つ、鍵を取り出した。その鍵を己の手元に預けた。
「これ、部屋の鍵。部屋の衣装棚に作業着や手拭いを用意してあるから自由に使って。……ごめんね、リャン君が振り回して。良い子ではあるんだ」
「いえ。……案内も結構、それよりも荷運びを手伝いましょう」
鍵を受け取りつつ、木箱に視線を向けていると、バーセクト氏はすぐ首を横に振った。
「そんな、無理しなくても……」
「やったー!一緒にやろう、これが、きょーどさぎょーってやつだね!」
よっぽど嬉しかったのか腕を振り上げて身体全てを用い喜びを表していた。その様子に呆れを抱きつつ、木箱の重さを確かめる。
「何処までお運びしましょうか?」
「昨日ね、ちかそーこを綺麗にしたんだ!そこに運ぶよ」
戸惑いながらもバーセクト氏が頷く。地下か、ならば持ち上げる他ないな。向こうで何処を持とうか戸惑っている餓鬼に――。
「おい貴様、木箱の底をしっかり抱えるように縄を掴め」
「え、こう?」
「足を少し拡げ踏ん張れ。持ち上げるぞ」
命じても息が合わずこちらの方が重い。何とか持ち上げ、奴の歩幅に合わせ進むが、如何せん息が合わぬ。
「重っ!中なんなんですかー?」
「書類や本だよ。詰め込み過ぎちゃってすまないね」
「ほんとーですよー」
無駄口を叩く奴をギロリと睨むが、気付かれなかった。
階段はもちろん己が下となり運ぶ。重みが全身にのしかかる。しかし、書類や本を詰め込んだにしても重いような気もする。そもそも小分けにし運べば苦なく運べたのではないか?その意見は、目的地目前のため胸中に仕舞っておく。
地下へ通じる扉は解錠され、重い音を立てて開かれた。この寮は前述の通り、奴隷収容所跡地に建てられたものだが、その名残が丸々残っていた。頑丈な黒岩の壁、冷たく敷き詰められた石床、冷えた空気に漂う埃臭さ、……変わらないな。廊下を曲がった先には鉄格子が嵌まる独房が並んでいる。その独房は今や倉庫として扱われ、木箱やら樽やら、様々な物品が置かれていた。並ぶ独房の奥へ進むと、唯一何も荷物が置かれていない独房があった。バーセクト氏の指示の元、そこへ木箱をそっと置く。一仕事を終え、汗を拭う。
突如、餓鬼に手を握られ、振り上げられた。何事かと思えば――。
「今からパーっと飲みに行きたい人、はーい!」
「勝手に決めるな」
拒否の意は伝わらないだろうが、振り上げられた手を振り払った。
「リャン君、明日はどうかな?」
「よし、じゃあ明日かんげーかい、やっちゃいましょー!!りょーちょー、いつものとこ、日が落ちたらしゅーごー!忘れちゃいやですよ?」
「君こそね。さて、二人とも、今日はありがとう。助かったよ」
バーセクト氏からの親切を受け、浮かれる者が一名。締めにかかっているが、荷解きはどうするのだろうか?その疑問を胸に木箱を一瞥する。
「そうだ!礼に茶でも淹れようか」
「いや、結構……」「お茶だー!りょーちょーのお茶、すっごくおいしーんだよ!いこいこっ!」
突然の提案に断りを入れる、その前に餓鬼が出口の方へと己を引っ張っていく。引き離しても、急かすようにまた腕を掴み引っ張るから切りがない。自己中心的というか、何というか……呆れ返っていた時だった。
背後で軽い音が耳に響いた。木板を蹴ったような軽い音、その音の正体を確かめようと――。
「とびきり美味しいお茶を淹れてあげるよ」
バーセクト氏に背を押され、振り向くことは叶わなかった。
丁度夕食時だからだろう、賑わいを見せる食堂の空いている席に腰を掛けた。奥に見える厨房からの芳しい香りに釣られて、料理を受け取らんと人混みが出来ていた。その人混みから少し離れた箇所に、個人が好みの飲み物を汲む空間があり、そこでバーセクト氏は茶を汲んでいた。盆を持ったバーセクト氏が戻り、己の目の前に一つ、取っ手のついた杯が置かれた。
「温かい内に召し上がれ」
「はぁ、りょーちょーのお茶、さいこー!あまくっておいしー!」
香りを楽しむことなく、早速餓鬼は口にする。惚けた間抜け面だ。湯気を立てる茶の甘い香り、これは蜂蜜だな。それを一口含む。とろりとした液体が舌に広がる。
「口に合ったかな?」
「……ええ」
「それは良かった!意外と甘党なんだね」
くすりと微笑みながら掛けられた言葉に、己は後ろ髪をかき上げた。その間、餓鬼はというと早くも茶を飲み干し、人混みに紛れ込んで厨房の方へ顔を覗かせていた。厨房の料理長だろうか、親しげに話す姿が垣間見える。己を指差しているあたり、恐らく新入りだと言いふらしているんだろうが。ようやく席に戻ってきたと思えば、「みんなでたべよー」と料理が盛大に盛られた皿を机上に置く。待ったなく、食欲のままに貪りつき、次々と口に運んでいる様子は実に忙しい。あんな小さな身体の何処に入っているのか不思議でならない。
「ディルク君も召し上がれ」
小皿に取り分けた料理が目の前に。その香りだけで胸が詰まる。
「申し訳ありませんが、今は満腹なのでお気持ちだけ頂きます」
「そうか、すまないね」
バーセクト氏が引っ込めた小皿を「ぼく食べますー」と半ば奪い取る形となり、頬張っていく。図々しい、というかふてぶてしい、というか……。指摘しようと口を開いた時だった。
「いてっ!」
「リャン、考えてから行動しろっていつも言ってんだろ?寮長、すみません」
餓鬼の頭を軽く拳で叩き、代わりに注意したのは大柄な男だった。己も背はある方だが、それよりも一回り大きい。一切髪のない禿頭、眉毛もなく、一見すると人相悪く見えるが、話口調やその頭を下げる姿勢は穏やかな印象だ。額の刻印の跡が気がかりではあるが。
こちらに気付いたその男が小首を傾げる様子を見たバーセクト氏は、己に手の平を向けた。
「彼は新しくバティア鉱業に入るディルク君だよ」
「俺はファーディットだ。よろしくなっ!」
「……よろしく頼む」
互いに会釈を交わした直後、餓鬼が立ち上がったかと思えば、己の隣に立ち、一方的に肩を組んできた。その口はにんまりと笑顔を作り上げて。
「明日の夜ね、えっと……ディックン?のかんげーかいするんだよ!」
「しなくて良い、……その呼び名は何だ?」
「え?君のことだよ?あ、違った?ディッシュだっけ?」
無邪気に振る舞う笑顔に舌打ちし、明らかに嫌悪の表情で睨んでいるのに、それを全く理解できていない。苦笑を浮かべた禿頭の男が己と餓鬼の間に割り込み、餓鬼を引き剥がしてくれた。
「そのくらいにしとけ。ディルクが困ってんぞ?」
「えー、仲良くしたいだけなのにー!」
「距離の詰め方ってのがあるんだよ。おら、一回席に座れ」
小柄な餓鬼を抱き上げ、元の席に座らせ、文句を垂れ流す餓鬼に、禿頭が厳しく言い聞かせていた。その様子を見るに、かなり親しい間柄と推測する。そんな間に立ち入るのは野暮だ。己はバーセクト氏の淹れた茶を飲み干し、立ち上がった。バーセクト氏に向き直り、一礼する。
「ご馳走様でした。これにて失礼します」
「え、行っちゃうの?ちょっと待ってよー」
「まあ良いじゃないか。今日はありがとう。しっかり休んで、明日から仕事よろしくね」
「承知致しました」
食堂から出て、階段に差し掛かった所で一息つく。気疲れで頭が痛い。部屋の鍵の部屋番号を確認し、二階にある自室を確認した。膨らんだ布団が敷いてある寝台と衣装棚、小さな机と椅子が用意された狭い一人部屋だ。小窓からは薄紅の月光が差し込んでいた。鍵を施錠し、寝台に体重を預ける。久方振りに眠れるだろうか……重くなった瞼を閉じた。