PLAY123 忌まわしい記憶と燃える夢④
――これは、夢なのかな?
桜姫は思った。
――夢だよね?
――そうでなかったらこんなことありえない。
――だってついさっきまで私、みんなと一緒に買い物をしていたはずなのに……、あんなに楽しかったのに……。どうしてこんなことになったの?
――夢だ。
――これは夢だ。
――きっと私は買い物をし過ぎて疲れて寝てしまっているだけなんだ。
――こんなのおかしいし、というかあの時まではおかしくなかったじゃん。
――楽しい楽しい、危険なんてない買い物だったはずなのに……。
――世界を見るための冒険を擦る前の予行練習だったのに。
――なんでこんなことになったの? なんで私の目の前でこの人は血を流して倒れているの?
――どうして? ねぇなんで私、いつまで夢を見ているの?
――ねぇ目を覚ましてよ。
――目を覚まして楽しいお買い物をしよう?
――ねぇ……。ねぇ……っ。
桜姫は思う。
思いながら、彼女は願っていた。
これは夢だと。悪い夢だと彼女は認識しようと強く、強く願った。
目を覚ませ。目を覚まして現実を見ようと――
強く、それはもう強く願った。
願う……と言っても、そんなことをしても無駄な足掻きであるにも関わらず、桜姫は願っていたのだ。
現実逃避という名の願いを込めて……。
そう。これは現実。実際に起きていることであり、桜姫は寝ていないし夢なんて見ていない。
全部が全部現実で事実を見ているのだが、それでも認めることができない桜姫。
無理もないだろう。
なにせ色んなことが起き過ぎた。そしてその起き過ぎた中でも濃密すぎる事態に、桜姫は飲み込むことすらできなかった。
鬼の郷にいる時のように、郷に出られない代わりに平和であったことが懐かしいと思ってしまう様な状況。
開けている視界を見つめ、一点を見つめているにも関わらずグルグル回る様な感覚に陥りながら彼女は思う。
決して平衡感覚が壊れてしまったわけではない。むしろ体にけがはなく、無傷と言っても過言ではない……、訂正しよう。僅かだが額に生えている角がじんじんと痛むだけで、それ以外のけがなどなかった。
何せ――角にも神経が通っているのだ。歯の根っこと同じように痛覚が存在し、その角を折ろうとディドルイレスに掴まれ、あろうことかひびが入ったかのような折り方をしようとしたのだ。
神経が通っている角を折る。しかも頭蓋骨であり脳の近くということもあって……、それは危険な行いである。
最悪殺されてしまうかもしれない危険性があったのだ。
まるで麻酔なしで神経がある歯を折る様な……、否――頭にナイフを突き刺して、そのまま残酷なことを延々と行う。
折れなかったことが幸運であったことが分かるだろう。
これは桜姫のモルグの運の数値が高かったがゆえに怪我がなかったという結果になる。
そう――体のけがはない。
しかし心の方が深刻なダメージを受けてしまった。
前にも話したことがあるだろう。
この世界におけるその人物の力の数値――モルグのことを。
これはハンナ達プレイヤーからすれば数値化されたステータスなのだが、これはアズールの世界にいる人たちにも備わっているステータスである。
特にこのステータスの中で常に変動するものが『神力』というものだ。
神力は心の変動に左右されやすいモルグで、簡単にカンストしたり簡単にマイナス値になったりする。要はその人の心の状態を表していると言っても過言ではないことは覚えているであろうか。
変動が激しいが数値がプラスでカンストしていれば状態異常付加成功率が上がり、付加効果時間も長くなったり、命中率や色んな効果が上がるが、相手の数値がカンストしていれば状態異常をかけたとしてもかからない。命中率が高いにもかかわらず失敗してしまうと言った――一見すると一種のバグのようなことが起きてしまう。
いつぞやか――バトラヴィア帝国でリンドーの『窃盗』が失敗したのがいい例であろう。
レズバルダの神力が上回っていたから、それのせいでリンドーが組み立てた勝機が一気に崩れ落ちてしまったのが最初の計算外であったが、これはもしかすると必然だったのかもしれない。
もう終わったことでもあるのでこのお話はお終い。
本題として――現在桜姫は体の方が大丈夫だが、心の方に大きなダメージを負っていた。
それは、元々神力9 (968)が一気に下がり、神力-5(-582)という精神的に不安定になってしまっている状況であり、茫然自失になってしまっているのはそのせいもある。
無理もない話だ。
なにせ夢のための練習として『フェーリディアン』でハンナとシェーラと一緒に買い物をしていたのに、突然あの場所に知らない黒い狐の男と『六芒星』が現れ、その後気絶されて地下のようなところに監禁されると、突然角を折ろうとしてきた。
これだけでハンナ曰く『濃密で忘れられないような一日』という表記でまとめられそうな内容だが、これはまだ前半。序の口にも等しい内容だ。
そう――角を折ろうとしてきたその後がもっと濃密かもしれない。
折ろうとしてきたディドルイレスのことを引きはがそうと桜姫は痛みで暴れながら殴ったりけったりをしていた。そこまでは桜姫も覚えているが、その後彼女のことを助けたのが――
ハンナ達……、ではなく、意外なことに、元『六芒星』のガザドラだったのだ。
どういった経緯で来たのかは省略するが、ガザドラが来たことで桜姫は絶望から希望を抱くようになり、これなら帰れると、この時は思っていた。
本当に思っていた且つ――神力も上がった。
折られそうになった時は心拍数が激しい人のように上がったり下がったりと乱れた変動をしていたが、ガザドラが来たことにより落ち着きを取り戻し、神力の変動も安定したことは大きな成果だった。
そう――だった。
過去形。
大きな成果を壊すような出来事が起きてしまい、この成果も無駄になってしまったのだ。
ガザドラの前に現れた『六芒星』幹部――ラージェンラの登場によって……。
ラージェンラの登場を機に桜姫の神力にまたもや変動が起き、その後は怒涛に近いような展開になり、簡単な言葉で言うと――『ついていけない』状況に陥ってしまっていた。
それもそうだろう。
最初の時でさえも混乱していた思考の中――二人も知らない人が乱入し、思考がまとまっていない中で話やいろんなことが進んだのだ。
これでは頭の処理が追い付こうにも追いつけない。
いいや、どころか地下室に閉じ込められた時点で頭の容量がぎりぎりだったのだが……。
そんな中で神力が変わらない。ということは――まずない。
まずないどころかこの状況を見て冷静でいられるなんて言う偉業は常人では成し遂げられない。
できる存在がいれば教えてほしいものだ。
それくらい桜姫は参っていた。
色んなことが起こりすぎたせいで、突然の命の危険を体感したことで、彼女に膨大なストレスがのしかかり、緊張と言う名の糸が切れた瞬間――茫然自失になってしまった。
――せっかく助かると思ったのに……。
――せっかく逃げれると思ったのに……。
――この人、負けちゃったの? 死んじゃったの……?
倒れてしまっているガザドラを見て桜姫は思った。
思って……、失ってしまう何か。
本当にあの時の神力が変わらないままでいれば、変わらないくらい彼女の心が……、メンタルが強ければこうならなかったかもしれない。いいやこの先のことを知れば、どんな人でもこうなってしまうだろう。
絶望の中に見えた希望が、いとも簡単に崩れてしまったのだ。
絶望し、喪失してしまうのも無理はない。
喪失している中――自分が壊れないために桜姫が行ったことこそが、現実逃避。
夢だから、目を覚ませば全部が全部なくなる。
こんなことはなかった。
そんな淡い願いに縋った結果がこれと言う事だ。
――これは夢。
――夢だから冷めて。
――あんな痛い思いも、あんな怖い思いも、全部夢だったんだ。
――夢だから大丈夫。
――大丈夫。大丈夫だから……、だから。
――早く、覚めて……。
目を覚まして目を覚まして目を覚まして目を覚まして目を覚まして目を覚まして目を覚まして目を覚まして目を覚まして目を覚まして目を覚まして目を覚まして目を覚まして目を覚まして目を覚まして目を覚まして目を覚まして目を覚まして目を覚まして目を覚まして目を覚まして目を覚まして目を覚まして目を覚まして目を覚まして目を覚まして目を覚まして目を覚まして目を覚まして目を覚まして目を覚まして目を覚まして目を覚まして目を覚まして目を覚まして目を覚まして目を覚まして目を覚まして目を覚まして目を覚まして目を覚まして目を覚まして目を覚まして目を覚まして目を覚まして。
今すぐ目を覚ましてよ――私!!
願うあまりに頭の中一面に広がる現実逃避の表れ。
『目を覚まして』の六文字が彼女の脳を刺激し、目を覚ませと何度も、何度も願い続ける。
失望の視線からは想像もできない必死な抗いではあるが、その抗いも虚しい事に終わってしまう。
もうこの世界こそが現実で、目の前の光景も現実なのだ。
桜姫の願いも結局は妄想。
桜姫のことを見て、可哀そうと思ったラージェンラの言う通り、まだ終わりではない。
終わりはまだまだ先なのだ。いいや――始まったばかりなのだ。
これこそ――このボロボという国の存亡をかけた戦いの序章になるのだから……。
桜姫はそのためのエ。なのだから……。
◆ ◆
「ところで大臣様」
色んなことが起きたその後――一時的に会話ができる時間と余裕ができたことを認識したラージェンラは、現在進行形でぶつぶつ呟いていたディドルイレスに向けて言葉を発した。
それを聞いたでぃは驚きの声を上げながら怒り交じりの『あ?』という声を発して振り向く。
顔から分かる通り――突然話しかけられたことで苛立ちを露にしている。
だがラージェンラはその顔を見ても怒りなど湧かない。むしろ成功したことに内心喜んでいた。
聞きたいことがあると言わんばかりの質問の前言葉。
それを無理矢理入れることでディドルイレスの呟きを止めることに成功し、心のにやけが止まらないとはまさにこのこと。
まさに利用しやすいとはこのことなのかもしれない。
そんな片鱗を見て思ったラージェンラは淑やかな笑みを浮かべながら聞いた。
「そんなたいしたことではないのですが、長考の遮りをしてしまう申し訳ございません。ですけど一応確認としまして……お聞きしたかったのです」
ラージェンラの言葉にディドルイレスは一瞬黙る。
黙りながら目を光らせ、鋭く睨みつけるようにラージェンラのことを見る。
一瞬だけ迸る緊張。
ビリッとした感覚はその時だけ。
本当に一瞬だけで、ディドルイレスは鼻で息を吐き捨てるという――まさに小馬鹿にしているような顔つきとふかし方をして小さく舌打ちを零す。
零しながらもディドルイレスは彼女に向けて――
「確認とは……、まさかこれからの計画を忘れてしまったのか?」
と聞くと、その言葉に対しラージェンラは淑やかな顔で「いいえ」ときっぱりと否定する。
その会話をしている最中、茫然自失でいた桜姫の指が微かに揺れているのを……、二人は見ていなかった。だからなのか――二人は気にもせず話を続ける。
後に、その行動が仇となることをつゆ知らず……。
彼女のきっぱりとした返答を聞いたディドルイレスは「ならなぜ聞く――確認などしなくともいいだろうに」と言うが、それでもラージェンラは引くどころかくすくすと淑やかに微笑んで……。
「それでも完全に遂行するためには、完全なる成功を収めるためには、ちゃんと計画しなければいけないことで、その計画に支障が出てしまったら計画の練り直しも考えなければいけないと思いますわ。きっと今まさに計画のずれが起きていると思いますし」
「練り直し……だと?」
「ええ」
彼女が言う『計画の練り直し』
その言葉にディドルイレスはぴくりと指を動かし、小さな声でその言葉を反復する。
反復した言葉にラージェンラは頷き、その状態で続きの言葉を言う。
まさに計画の誤差が目の前にあることを指をさして示しながら――彼女は言った。
「あなたは確かに『六芒星』を使って鬼の姫と言うエを手に入れ、その材料となるものを手に入れようとしていました。もしあのまま手筈通りに行けば、計画通りという展開になったでしょうけど、ここで誤算があった。それはあなたの腕力では折れなかったという汚点と、この場所を知られてしまい、かなりの時間を奪われてしまったという大誤算」
「わ、儂の腕力云々はどうでもいいっ! 仕方がないだろうが――まさかあんなに暴れるとは思っても」
「あなたは人間からしてみれば老いぼれなのですから、すこしは自分の力を理解してほしいんです。自分に見合った計画をしてほしいと言った方が、わかりやすいかと思いますけど……、もうこうなった以上そんなことは言えません」
「ぐ」
ラージェンラは言う。
計画において最初の誤算が桜姫の何かを手に入れることに対し手間取ってしまったこと。
それは茫然の顔のまま聞いていた桜姫でもわかってしまったことで、即座に思い出したことが――角のことだった。
なぜあの時角が欲しいのか――そのことに関して聞いていたのだが痛みの所為でところどころ忘れてしまっている。
だがはっきりと覚えているのが角が欲しい事。そしてそれを奪おうとしていたことはしっかりと覚えている。
なにせ痛い思いをしたのだ。そんな簡単に忘れることはない。
忘れなかったからこそ桜姫は言葉に耳を傾ける。
喪失しているが、言葉を聞いた瞬間芽生える何かを感じながら……。
そんな桜姫の異変に気付くことなく二人は続ける。
計画のことに関しての話を。誤算の続きを……。
「お、折れなかったことに関しては受け入れる……。だが後のことは」
「そうです。あなたの所為ではありません。これは私達でも想定していなかったことです」
と言って、ラージェンラちらりと視線をガザドラに向ける。
ガザドラ――というよりもガザドラの足を見つめながら彼女は言う。彼女の位置から見れる範囲がガザドラの足だったことで、彼女は全身を見ることなく足だけを視界の端で見つめながら言ったのだ。
想定外の塊であった彼のことを……。
「この輩は、元々私達の組織――『六芒星』幹部だった輩ですが、とあることを機に彼は抜けています。なので今は敵なのですが……、まさかここまで野生の勘が鋭い奴とは思いませんでした」
「っち。親に似て悪い予感だけはよく勘付く」
「あら――遺伝だったのですか? 流石は、あなたの兄の遺伝子を引き継いでいます」
相当強かったですわ。一時苦戦してしまいまして、危く殺されそうでした。
何の偽りもなく、嘘など吐かずに断言するラージェンラ。
彼女の言葉を聞いたディドルイレスはぎょっとした顔をして「んなっ!?」と、上ずるような声と共にガザドラのことを見て後ずさりしたが、彼女はくすくすと笑みを浮かべながら「でも」と言って……、すかさず続けて言う。
「でも結果は私の勝利です。奥の手を使った結果ですけど……ね」
「奥の手……?」
「ええ奥の手。でも明かしませんよ。明かしたのはガザドラだけ。使ったのも彼だけ。もしうっかり話してしまったら、その時点であなたの頭を……」
「っ! き、聞かんっ! 聞かん……ことにするっ」
「その方が美徳です。首繋がりましたわね」
彼女の『勝利した』という言葉にディドルイレスはほっと胸を撫で下ろしたが、その後聞いた『奥の手』という言葉を聞いてなんなのだと質問をしようとした。
しかしそれを聞いた瞬間――ラージェンラの周りの空気が淀んだ。
重くなったと言った方がいいだろうか。
その空気を感じ、何か悍ましいものを感じたディドルイレスは直感した。
聞いてはいけないことだと。
この直感はボロボの王宮にいた時に何度か体験していることでもあり、命の危機に関しての察知は人一倍でもあるので、即座にそれを感じたディドルイレスはすぐに頭を振って聞かないことに徹する。
その慌てっぷりはまさに死にたくない人の拒絶。
拒絶を見て、言葉を聞いたラージェンラは頷きながら悍ましい空気を放つことを止める。やめると同時に淑やかのそれを醸し出して頷き零す。
まさに命拾いをしたと言わんばかりの、首が繋がったことを動作にして――
首の近く――しかも頸動脈の近くに右手の人差し指を添えて、その指を刃物に見立てて斬る動作をするという。まさに直訳と言わんばかりの言動。
ディドルイレスは口腔内に溜まった唾液を呑み込むと、冷静さを取り戻すために一度深呼吸をゆっくりとした後、ラージェンラに視線を向けて『続けろ』と目で示した。
視界の端でその言葉を示す。伝わっているかどうかはわからないが、ラージェンラはクスリと淑やかに微笑むと、「続けますね」と言って話の続きを行う。
「結果としましては、簡単に終わるはずの第一段階の計画に時間を使ってしまいました。計画通りの計算で言うと、今私達はここにいません。次の段階の場所についている頃なのに……、それがまさかこんなにもかかってしまうとは思いませんでしたわ。本当に草を食べてしまったかのような無駄な行い」
「ぐ」
「そもそも角を折ること自体に支障があったのかもしれませんわ。折る役割を貴方ではなくラランフィーナかフルフィドに任せておけば……こうはならなかったかもしれませんのに……」
「し、仕方がないだろう! こればかりは儂がやらねばならんのだっ! そのためには儂と言う存在が行ったことに真の価値があるっ! そうでもしないとできんのだよっ!」
「? 何をおっしゃっているのですか? 今まで自分の手すら汚さないで生きてきたあなたが……」
「それとこれとでは話が違ってくるんだっ! 今までの行動では成功しない……。それを加味したうえで行わないといけないことが分かった。だからこうしたんだっ! だが折れなかった!」
「それはあなたの腕力不足です」
「一言多いぞっ!」
彼女の話が終わるや否や――ディドルイレスは一時はぐっとこらえる様な声と顰め方をして黙ったが、その後畳み掛けるように言った言葉を聞いて癇に障ったのだろう……。ディドルイレスは怒りを露にして反論をした。
自分の手を汚さない主義でもあったディドルイレスが、『こればかりは自分でやらなければいけなかった』という言葉を聞いて、ラージェンラは首を傾げながらどうしてなのかと聞こうとしたが、そのことを言う前にディドルイレスは自分の主張を続ける。
今までの行動ではできない。成功できない。
それを理解し、計算したうえで自分でやったことを主張したが、最後の余計な言葉のディドルイレス怒りをぶつけてしまう。
実際本当に折れなかったのはそのせいなのだが、それでも折らなければいけなかったのだ。
自分の手で、ちゃんと……。
ディドルイレスの主張を、言動を聞いたラージェンラはそれでも理解できないと言わんばかりの首の傾げをし、その後溜息交じりのそれを吐きながら――
「まぁいいですわ。今は計画の修正をするのが先決ですわ」
と言い、ラージェンラは懐から四つ折りにされた紙を取りだす。
現実世界で言うところの和紙の成分が少し混じっているような紙なのだが、それを拡げ、右手の人差し指を口に持っていくと、ラージェンラはそのまま人差し指を強く噛む。
噛んだ――というのは曖昧。
本来は爪を割る勢いで強く噛み、割れたところから零れ出る血を使って何かを書き始めた。
すらすらと――書道の動作を指で行っているかのような手さばき。
動作一つ一つ淑やかと気品を醸し出している光景は、普通の男であれば見惚れてしまいそうになるもの。そのくらい彼女は見た目は美しい。心は歪み、傷ついているが……。
淑やかさを出しながら彼女は書いている。何を書いているのかはわからないが、書いている最中ラージェンラはディドルイレスに向けて言う。
「とりあえず」と言った後、続けてこう言ったのだ。
「今ラランフィーナに伝達します。あの子はきっと、ロゼロ達と一緒にいると思いますし、彼が持っている魔法に限度なんてありませんから、伝達すればすぐに来ると思いますわ。伝達が済むまで」
と言いかけた――その時、ディドルイレスは声を上げた。
まさに一文字。
あ。と、大きな大きな声を上げてラージェンラの言葉を遮ったのだ。
一際大きく聞こえてしまうその声にラージェンラは眉を顰め、むっとした面持ちで「……まだ途中」と言った時だった。
「――いないっっ!」
「?」
いない。
一体何がいないのだろうか。
その言葉を聞き、ディドルイレスの視線の先に彼女は視線を向ける。
視界が流れ、どんどん写り込む世界が変わっていく。
変わり、変わり……。
そして、一気に変わる。
「!!」
瞬間、ラージェンラは理解する。
理解し、気付いた時には遅かった。
いいや、これはおごりだったのかもしれない。見くびっていたせいもあって、彼女は、ディドルイレスは見落としてしまった。
動こうなんて考えていないだろうと思い、そのままにしていた彼等の油断が招いた。
背筋を這う悪寒はまさに極寒級。
極寒の寒気を感じ、全身から熱がこもった汗が噴き出る。
まさにそれは究極の焦り。
焦りを感じ、あの時油断さえしなければという思考が二人を襲う。
そう――視界に映るはずの存在がいないことに、その場所で座り込んでいた桜姫が、いなくなっているという事態を体験して。
体験し、ラージェンラの口から零れたのは――奇しくもディドルイレスと同じ言葉だった。
「「――逃げやがったっ!!」」




